37 / 109
第四章 光あれ、影あれ
31 焦燥の夜と、かくしごと
しおりを挟む
「……んじゃ、俺は帰るわ~。じゃあな、ミナト」
軽薄に手を振るその背中が、夜の闇へと吸い込まれた──かに思えた刹那。
不意に振り返った男の瞳が、艶やかな紫光を帯びる。
「次は……二人きりで逢おうな。悦楽に溺れる夜を、たっぷり用意しておくからよォ」
その声は低く、艶やかで、氷の刃のように空気を裂く。
世界が一瞬、凍りついた。
「愛してるぜえええええええ!!」
狂気を孕んだ叫びが夜空に放たれ、焚き火の炎が大きく揺れる。
ビャクヤ・キュウビの姿は、森の奥へと跳ねるように消えていった。
残されたのは歪んだ愛の残響と、焦げた風の匂い。
沈黙が戻る。
風が、張り詰めた空気をそっと撫でた。
だがその優しさは、もはや慰めにはならなかった。
「……なんなんだよ、アイツ」
レンのつぶやきは、火傷のような痛みを孕み、熱を持たずにこぼれ落ちた。
焔の向こうで、カナメが目を伏せながら呟く。
「……ビャクヤ・キュウビ。ハイクラスの退魔師で、スメラギ先生の元教え子。現場では“狂狐”って呼ばれてる」
その声は静かだが、芯に鋭い緊張が宿っていた。
「実力は、本物。しかも──国家中枢の極秘任務部門『特務課』所属」
語られる経歴は、どれも現実離れしていて──危険だった。
「家系も曰くつきで……魔素の質も異常って噂。なにより──先生への執着が、普通じゃない」
レンは何も言えなかった。
言葉を失ったわけじゃない。
ただ、胸の内に渦巻く感情が、すべての音を呑み込んでいったのだ。
(……俺、先生のこと、なにも……知らないじゃん)
心の奥が、軋む。
嫉妬とも、恐怖ともつかない感情が入り混じって、ぐちゃぐちゃに暴れ回る。
拳を握る。痛いほど、強く。
「いや……そうじゃなくてさ……」
ぽつりと、言葉が焔に溶けた。
何が「そうじゃない」のか、自分でもわからなかった。
ただ──このままじゃ、駄目な気がした。
焔の明滅が、レンの顔に揺れる影を作る。
その時、スメラギが静かに立ち上がった。
片手をかざす動作に呼応して、夜空に青白い転送陣が描かれる。
その光は儚く、まるで夢のように非現実だった。
「……とにかく、戻る」
搾り出すような声だった。
その横顔は、焔すら拒むように蒼白で──何より、寂しかった。
カナメが一瞬だけ眉をひそめたが、何も言わずに頷く。
転送陣が三人を包み、森は再び、沈黙の中へと沈んでいった。
⸻
転送の光が消えると、三人は研究室に戻っていた。
魔灯のやさしい灯りが、現実に引き戻してくれるように揺れている。
「……戻れた……」
カナメが安堵の息を漏らす。
レンは隣で、ソファへ身を沈めた。
視線は落ちたまま、言葉も浮かばなかった。
キュウビの声、カナメの説明、そして──先生のあの顔。
(俺……何にも、できなかった)
視界の端。
無言のままデスクへ向かうスメラギの姿が見える。
魔力抑制の魔具を机に置き、端末に手を伸ばそうとしたその指先が──微かに、震えていた。
(……っ)
レンの喉が詰まる。
スメラギは無理をしているのかもしれないと、心拍が跳ね上がった。
けれども彼は、何も言わない。
「……今日は遅い。報告は、後日で構わない」
その声は、感情を切り落としたように淡々としていた。
平坦なその声音──その奥に、“壁”があった。誰にも踏み込ませない、冷たい壁が。
「ふたりとも、よく頑張った。今夜は……もう、帰りなさい」
スメラギの教師としての、言葉。
だが、それがレンには冷たく響いた。
だからレンは気がつかなかった。
スメラギの白い手が、最後までデスクから離れなかったことに──
「はいっ、お疲れさまでした先生! おやすみなさい」
カナメはきちんと頭を下げて退出する。
レンも後に続こうとする──だが、扉の前で足が止まった。
(……このまま、帰っていいのか?)
後ろ髪を引かれた。
喉元まで出かかった言葉が、形にならず沈んでいく。
(言わなきゃ……でも、何を?)
迷っているうちに、扉は閉じられた。
レンの中に残ったのは、言えなかった“何か”だけだった。
⸻
星屑寮への帰り道は、魔灯のあかりだけが頼りだった。
レンの足取りは重い。
(……向いてない? そんなの……とっくに分かってる)
耳の奥に、キュウビの声がこびりついている。
でも──
(だからって、諦めろってことかよ)
それは、違うと思った。
初めは成り行きだった。でも、今は自分の意思でここにいる。
足を止める。振り返る。
気がつけばまた、来た道を歩き出した。
なぜかは、うまく言葉にできなかった。
ただ、胸に残っていたのは──
『ふたりとも、よく頑張った』
それだけが、彼の本音だった気がして。
もっとスメラギの言葉が聞きたい。
冷たく呆れられるかもしれない。
期待に応えられない事を、咎められるかもしれない。
お前はもう要らないと、突き放されるかもしれない。
でも、それでも。
若く、拙い決意が、夜を歩いていく。
⸻
スメラギの研究室前。
レンは、ドアの前に立っていた。
ノックの形に構えた拳が、動かない。
(……なんで来たんだっけ)
迷いと恐れが渦巻く。
渦巻くネガティヴな気持ちに支配され、諦めの気持ちが大きくなる。
やっぱり……、やめよう。拳が下ろされかけた、その時だった。
――ガタンッ!
部屋の中から、鈍い衝撃音が聞こえた。
無機質な研究室の床に、何かを強く打ち付けるような音。
「……せ、先生……?」
驚いたレンが扉越しに声をかけても、応答はない。
レンの胸が、急速に締めつけられる。
(……だめだ、勝手に開けるなんて──)
でも、感じた。
“異常”が、そこにある。
恐怖と衝動が交錯する中──レンは、扉を開けた。
軽薄に手を振るその背中が、夜の闇へと吸い込まれた──かに思えた刹那。
不意に振り返った男の瞳が、艶やかな紫光を帯びる。
「次は……二人きりで逢おうな。悦楽に溺れる夜を、たっぷり用意しておくからよォ」
その声は低く、艶やかで、氷の刃のように空気を裂く。
世界が一瞬、凍りついた。
「愛してるぜえええええええ!!」
狂気を孕んだ叫びが夜空に放たれ、焚き火の炎が大きく揺れる。
ビャクヤ・キュウビの姿は、森の奥へと跳ねるように消えていった。
残されたのは歪んだ愛の残響と、焦げた風の匂い。
沈黙が戻る。
風が、張り詰めた空気をそっと撫でた。
だがその優しさは、もはや慰めにはならなかった。
「……なんなんだよ、アイツ」
レンのつぶやきは、火傷のような痛みを孕み、熱を持たずにこぼれ落ちた。
焔の向こうで、カナメが目を伏せながら呟く。
「……ビャクヤ・キュウビ。ハイクラスの退魔師で、スメラギ先生の元教え子。現場では“狂狐”って呼ばれてる」
その声は静かだが、芯に鋭い緊張が宿っていた。
「実力は、本物。しかも──国家中枢の極秘任務部門『特務課』所属」
語られる経歴は、どれも現実離れしていて──危険だった。
「家系も曰くつきで……魔素の質も異常って噂。なにより──先生への執着が、普通じゃない」
レンは何も言えなかった。
言葉を失ったわけじゃない。
ただ、胸の内に渦巻く感情が、すべての音を呑み込んでいったのだ。
(……俺、先生のこと、なにも……知らないじゃん)
心の奥が、軋む。
嫉妬とも、恐怖ともつかない感情が入り混じって、ぐちゃぐちゃに暴れ回る。
拳を握る。痛いほど、強く。
「いや……そうじゃなくてさ……」
ぽつりと、言葉が焔に溶けた。
何が「そうじゃない」のか、自分でもわからなかった。
ただ──このままじゃ、駄目な気がした。
焔の明滅が、レンの顔に揺れる影を作る。
その時、スメラギが静かに立ち上がった。
片手をかざす動作に呼応して、夜空に青白い転送陣が描かれる。
その光は儚く、まるで夢のように非現実だった。
「……とにかく、戻る」
搾り出すような声だった。
その横顔は、焔すら拒むように蒼白で──何より、寂しかった。
カナメが一瞬だけ眉をひそめたが、何も言わずに頷く。
転送陣が三人を包み、森は再び、沈黙の中へと沈んでいった。
⸻
転送の光が消えると、三人は研究室に戻っていた。
魔灯のやさしい灯りが、現実に引き戻してくれるように揺れている。
「……戻れた……」
カナメが安堵の息を漏らす。
レンは隣で、ソファへ身を沈めた。
視線は落ちたまま、言葉も浮かばなかった。
キュウビの声、カナメの説明、そして──先生のあの顔。
(俺……何にも、できなかった)
視界の端。
無言のままデスクへ向かうスメラギの姿が見える。
魔力抑制の魔具を机に置き、端末に手を伸ばそうとしたその指先が──微かに、震えていた。
(……っ)
レンの喉が詰まる。
スメラギは無理をしているのかもしれないと、心拍が跳ね上がった。
けれども彼は、何も言わない。
「……今日は遅い。報告は、後日で構わない」
その声は、感情を切り落としたように淡々としていた。
平坦なその声音──その奥に、“壁”があった。誰にも踏み込ませない、冷たい壁が。
「ふたりとも、よく頑張った。今夜は……もう、帰りなさい」
スメラギの教師としての、言葉。
だが、それがレンには冷たく響いた。
だからレンは気がつかなかった。
スメラギの白い手が、最後までデスクから離れなかったことに──
「はいっ、お疲れさまでした先生! おやすみなさい」
カナメはきちんと頭を下げて退出する。
レンも後に続こうとする──だが、扉の前で足が止まった。
(……このまま、帰っていいのか?)
後ろ髪を引かれた。
喉元まで出かかった言葉が、形にならず沈んでいく。
(言わなきゃ……でも、何を?)
迷っているうちに、扉は閉じられた。
レンの中に残ったのは、言えなかった“何か”だけだった。
⸻
星屑寮への帰り道は、魔灯のあかりだけが頼りだった。
レンの足取りは重い。
(……向いてない? そんなの……とっくに分かってる)
耳の奥に、キュウビの声がこびりついている。
でも──
(だからって、諦めろってことかよ)
それは、違うと思った。
初めは成り行きだった。でも、今は自分の意思でここにいる。
足を止める。振り返る。
気がつけばまた、来た道を歩き出した。
なぜかは、うまく言葉にできなかった。
ただ、胸に残っていたのは──
『ふたりとも、よく頑張った』
それだけが、彼の本音だった気がして。
もっとスメラギの言葉が聞きたい。
冷たく呆れられるかもしれない。
期待に応えられない事を、咎められるかもしれない。
お前はもう要らないと、突き放されるかもしれない。
でも、それでも。
若く、拙い決意が、夜を歩いていく。
⸻
スメラギの研究室前。
レンは、ドアの前に立っていた。
ノックの形に構えた拳が、動かない。
(……なんで来たんだっけ)
迷いと恐れが渦巻く。
渦巻くネガティヴな気持ちに支配され、諦めの気持ちが大きくなる。
やっぱり……、やめよう。拳が下ろされかけた、その時だった。
――ガタンッ!
部屋の中から、鈍い衝撃音が聞こえた。
無機質な研究室の床に、何かを強く打ち付けるような音。
「……せ、先生……?」
驚いたレンが扉越しに声をかけても、応答はない。
レンの胸が、急速に締めつけられる。
(……だめだ、勝手に開けるなんて──)
でも、感じた。
“異常”が、そこにある。
恐怖と衝動が交錯する中──レンは、扉を開けた。
0
あなたにおすすめの小説
嫁がされたと思ったら放置されたので、好きに暮らします。だから今さら構わないでください、辺境伯さま
中洲める
BL
錬金術をこよなく愛する転生者アッシュ・クロイツ。
両親の死をきっかけにクロイツ男爵領を乗っ取った叔父は、正統な後継者の僕を邪魔に思い取引相手の辺境伯へ婚約者として押し付けた。
故郷を追い出された僕が向かった先辺境グラフィカ領は、なんと薬草の楽園!!!
様々な種類の薬草が植えられた広い畑に、たくさんの未知の素材!
僕の錬金術師スイッチが入りテンションMAX!
ワクワクした気持ちで屋敷に向かうと初対面を果たした辺境伯婚約者オリバーは、「忙しいから君に構ってる暇はない。好きにしろ」と、顔も上げずに冷たく言い放つ。
うむ、好きにしていいなら好きにさせて貰おうじゃないか!
僕は屋敷を飛び出し、素材豊富なこの土地で大好きな錬金術の腕を思い切り奮う。
そうしてニ年後。
領地でいい薬を作ると評判の錬金術師となった僕と辺境伯オリバーは再び対面する。
え? 辺境伯様、僕に惚れたの? 今更でしょ。
関係ここからやり直し?できる?
Rには*ついてます。
後半に色々あるので注意事項がある時は前書きに入れておきます。
ムーンライトにも同時投稿中
魔王の息子を育てることになった俺の話
お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。
「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」
現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません?
魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL
BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。
BL大賞エントリー中です。
カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!
野原 耳子
BL
★執着溺愛系イケメン俳優α×平凡なカメラマンΩ
平凡なオメガである保(たもつ)は、ある日テレビで見たイケメン俳優が自分の『運命』だと気付くが、
どうせ結ばれない恋だと思って、速攻で諦めることにする。
数年後、テレビカメラマンとなった保は、生放送番組で運命である藍人(あいと)と初めて出会う。
きっと自分の存在に気付くことはないだろうと思っていたのに、
生放送中、藍人はカメラ越しに保を見据えて、こう言い放つ。
「やっと見つけた。もう絶対に逃がさない」
それから藍人は、混乱する保を囲い込もうと色々と動き始めて――
結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした
紫
BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。
実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。
オメガバースでオメガの立場が低い世界
こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです
強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です
主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です
倫理観もちょっと薄いです
というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります
※この主人公は受けです
望まれなかった代役婚ですが、投資で村を救っていたら旦那様に溺愛されました。
ivy
BL
⭐︎毎朝更新⭐︎
兄の身代わりで望まれぬ結婚を押しつけられたライネル。
冷たく「帰れ」と言われても、帰る家なんてない!
仕方なく寂れた村をもらい受け、前世の記憶を活かして“投資”で村おこしに挑戦することに。
宝石をぽりぽり食べるマスコット少年や、クセの強い職人たちに囲まれて、にぎやかな日々が始まる。
一方、彼を追い出したはずの旦那様は、いつの間にかライネルのがんばりに心を奪われていき──?
「村おこしと恋愛、どっちも想定外!?」
コミカルだけど甘い、投資×BLラブコメディ。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
その捕虜は牢屋から離れたくない
さいはて旅行社
BL
敵国の牢獄看守や軍人たちが大好きなのは、鍛え上げられた筋肉だった。
というわけで、剣や体術の訓練なんか大嫌いな魔導士で細身の主人公は、同僚の脳筋騎士たちとは違い、敵国の捕虜となっても平穏無事な牢屋生活を満喫するのであった。
異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!
めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
--------------------
※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる