星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第四章 光あれ、影あれ

31 焦燥の夜と、かくしごと

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「……んじゃ、俺は帰るわ~。じゃあな、ミナト」

 軽薄に手を振るその背中が、夜の闇へと吸い込まれた──かに思えた刹那。

 不意に振り返った男の瞳が、艶やかな紫光を帯びる。

「次は……二人きりで逢おうな。悦楽に溺れる夜を、たっぷり用意しておくからよォ」

 その声は低く、艶やかで、氷の刃のように空気を裂く。
 世界が一瞬、凍りついた。

「愛してるぜえええええええ!!」

 狂気を孕んだ叫びが夜空に放たれ、焚き火の炎が大きく揺れる。
 ビャクヤ・キュウビの姿は、森の奥へと跳ねるように消えていった。
 残されたのは歪んだ愛の残響と、焦げた風の匂い。

 沈黙が戻る。

 風が、張り詰めた空気をそっと撫でた。
 だがその優しさは、もはや慰めにはならなかった。

「……なんなんだよ、アイツ」

 レンのつぶやきは、火傷のような痛みを孕み、熱を持たずにこぼれ落ちた。

 焔の向こうで、カナメが目を伏せながら呟く。

「……ビャクヤ・キュウビ。ハイクラスの退魔師で、スメラギ先生の元教え子。現場では“狂狐”って呼ばれてる」

 その声は静かだが、芯に鋭い緊張が宿っていた。

「実力は、本物。しかも──国家中枢の極秘任務部門『特務課』所属」

 語られる経歴は、どれも現実離れしていて──危険だった。

「家系も曰くつきで……魔素の質も異常って噂。なにより──先生への執着が、普通じゃない」

 レンは何も言えなかった。

 言葉を失ったわけじゃない。
 ただ、胸の内に渦巻く感情が、すべての音を呑み込んでいったのだ。

(……俺、先生のこと、なにも……知らないじゃん)

 心の奥が、軋む。

 嫉妬とも、恐怖ともつかない感情が入り混じって、ぐちゃぐちゃに暴れ回る。

 拳を握る。痛いほど、強く。

「いや……そうじゃなくてさ……」

 ぽつりと、言葉が焔に溶けた。

 何が「そうじゃない」のか、自分でもわからなかった。
 ただ──このままじゃ、駄目な気がした。

 焔の明滅が、レンの顔に揺れる影を作る。

 その時、スメラギが静かに立ち上がった。

 片手をかざす動作に呼応して、夜空に青白い転送陣が描かれる。
 その光は儚く、まるで夢のように非現実だった。

「……とにかく、戻る」

 搾り出すような声だった。

 その横顔は、焔すら拒むように蒼白で──何より、寂しかった。

 カナメが一瞬だけ眉をひそめたが、何も言わずに頷く。

 転送陣が三人を包み、森は再び、沈黙の中へと沈んでいった。

 ⸻

 転送の光が消えると、三人は研究室に戻っていた。

 魔灯のやさしい灯りが、現実に引き戻してくれるように揺れている。

「……戻れた……」

 カナメが安堵の息を漏らす。

 レンは隣で、ソファへ身を沈めた。
 視線は落ちたまま、言葉も浮かばなかった。

 キュウビの声、カナメの説明、そして──先生のあの顔。

(俺……何にも、できなかった)

 視界の端。
 無言のままデスクへ向かうスメラギの姿が見える。

 魔力抑制の魔具を机に置き、端末に手を伸ばそうとしたその指先が──微かに、震えていた。

(……っ)

 レンの喉が詰まる。
 スメラギは無理をしているのかもしれないと、心拍が跳ね上がった。

 けれども彼は、何も言わない。

「……今日は遅い。報告は、後日で構わない」

 その声は、感情を切り落としたように淡々としていた。
 平坦なその声音──その奥に、“壁”があった。誰にも踏み込ませない、冷たい壁が。

「ふたりとも、よく頑張った。今夜は……もう、帰りなさい」

 スメラギの教師としての、言葉。
 だが、それがレンには冷たく響いた。

 だからレンは気がつかなかった。
 スメラギの白い手が、最後までデスクから離れなかったことに──


「はいっ、お疲れさまでした先生! おやすみなさい」

 カナメはきちんと頭を下げて退出する。

 レンも後に続こうとする──だが、扉の前で足が止まった。

(……このまま、帰っていいのか?)

 後ろ髪を引かれた。
 喉元まで出かかった言葉が、形にならず沈んでいく。

(言わなきゃ……でも、何を?)

 迷っているうちに、扉は閉じられた。
 レンの中に残ったのは、言えなかった“何か”だけだった。

 ⸻

 星屑寮への帰り道は、魔灯のあかりだけが頼りだった。

 レンの足取りは重い。

(……向いてない? そんなの……とっくに分かってる)

 耳の奥に、キュウビの声がこびりついている。

 でも──

(だからって、諦めろってことかよ)

 それは、違うと思った。
 初めは成り行きだった。でも、今は自分の意思でここにいる。

 足を止める。振り返る。

 気がつけばまた、来た道を歩き出した。

 なぜかは、うまく言葉にできなかった。

 ただ、胸に残っていたのは──

『ふたりとも、よく頑張った』

 それだけが、彼の本音だった気がして。


 もっとスメラギの言葉が聞きたい。
 冷たく呆れられるかもしれない。
 期待に応えられない事を、咎められるかもしれない。
 お前はもう要らないと、突き放されるかもしれない。

 でも、それでも。

 若く、拙い決意が、夜を歩いていく。

 ⸻

 スメラギの研究室前。
 レンは、ドアの前に立っていた。

 ノックの形に構えた拳が、動かない。

(……なんで来たんだっけ)

 迷いと恐れが渦巻く。
 渦巻くネガティヴな気持ちに支配され、諦めの気持ちが大きくなる。

 やっぱり……、やめよう。拳が下ろされかけた、その時だった。



 ――ガタンッ!



 部屋の中から、鈍い衝撃音が聞こえた。
 無機質な研究室の床に、何かを強く打ち付けるような音。


「……せ、先生……?」


 驚いたレンが扉越しに声をかけても、応答はない。

 レンの胸が、急速に締めつけられる。

(……だめだ、勝手に開けるなんて──)

 でも、感じた。

 “異常”が、そこにある。

 恐怖と衝動が交錯する中──レンは、扉を開けた。
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