星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

文字の大きさ
39 / 109
第四章 光あれ、影あれ

33 冷たい指先、さまよう手のひら

しおりを挟む
 研究室の中は、まるで世界から切り離されたように静まり返っていた。
 唯一聞こえるのは、どこかぎこちない空調の低い唸りと──スメラギの、不安定な呼吸の音だけだった。

 レンはソファの脇の床に腰を下ろし、膝を抱え、腕のあいだにあごを乗せてじっとその姿を見つめていた。
 足元から冷たさがじんわりと這い上がってくる。けれどそれすら気にならなかった。

(……まだ、眠ってるのか)

 目は閉じたまま、ほとんど動かない。
 けれど、眉間に寄せられた微かな皺と、額に滲む冷や汗が、彼の内側で静かに何かが軋んでいることを告げていた。

 意識があるのかどうか、レンには分からない。
 だが、放っておけるはずもなかった。
 この姿を見て、何も感じずにはいられなかった。

 やれることなんて、ほとんどない。
 薬も魔法も知らない。触れることすら躊躇われる。──この手が場違いじゃないかと考えるだけで、怖くなる。

 だから、ただ傍にいることしかできなかった。
 手も出せず、声もかけられず、静かに、ただ見つめるしかなかった。

 ──その時だった。

「……っ、う……」

 スメラギが小さく呻いた。
 声というにはあまりにかすかで、喉の奥で震えるような呼気。
 それは、何かに縋るような、傷ついた者の声だった。

 レンは息をのんで顔を上げた。

 ソファに横たわるスメラギは、汗に濡れた睫毛をわずかに震わせながら、苦しげに眉を歪めていた。
 目はまだ閉じられている。夢の中か、それとも──過去に囚われているのか。

(先生……)

 思わず、手を伸ばしかけた。だが、途中で止まる。
 触れていいのか分からない。
 けれど──それでも、彼の苦しげな声に、何もできず見ていることなど、できなかった。

「……ごめ……な、さっ……」

 ──その声が、空気を震わせた。

 研究室の張り詰めた静けさを裂くように落ちたその言葉に、レンの胸に何かが鋭く突き刺さった。

(……え?)

 謝罪だった。
 驚くほどか細く、幼くて──痛々しいほど哀しみに満ちた声だった。
 まるで、ずっと昔に置き去りにされた子供が、誰かに許しを乞うような──そんな声。

 レンは一瞬、呼吸を忘れた。

 ──あの、強くて、静かで、誰にも心を開かないはずのスメラギが。

 胸が、ぎゅっと締めつけられた。
 痛いほどに。

 スメラギの手が、空を彷徨うように微かに動いた。
 まるで何かを探し、何かにすがろうとしているかのように──頼ることすら忘れてしまった人が、それでも何かを求めるように。

 レンは、考えるより先に動いていた。

 その手を、取った。

 ひんやりとした指先が、自分の掌に触れた瞬間、
 それはびくりと震え──やがて、掴むようにレンの指に絡まってきた。

 とても弱々しく、力がこもっていない。
 でも──確かに求められているのが分かった。

(……この手で、いつも……戦ってたんだ)

 思い出す。
 黒板にチョークを走らせるときの、魔素を操るときの、あの美しい指の動きを。
 冷静で、正確で、揺るがない強さを纏っていた手。

 その手が、いま、こんなにも脆く、頼りない。

(……誰にも見せなかった顔を、今……俺が見てるんだ)

 胸の奥が、熱くなる。
 そして、ふいに怖くなった。

 こんなにも深く触れてしまって、いいのか。
 「強さ」に憧れていたはずなのに、今、自分が向き合っているのはその真逆──傷と、痛みと、過去の影。

 けれど。

(……だから、誰にも渡したくないって思ったのかもしれない)

 レンはそっと、握り返した。
 強くはない。
 壊れてしまわないように、静かに。
 「大丈夫だよ」と、言葉ではなく、手のひらで伝えるように。

 すると──スメラギの眉間に寄っていた皺が、ふっと、ほどけていった。
 苦しみが、少しだけ和らいだように見えた。
 睫毛が震え、呼吸も、ほんのわずかに深くなる。

 やがて、その表情は、ほんの少しだけ穏やかさを取り戻していった。

(……そうだよ。先生は、ひとりじゃない)

 レンは、小さく胸の中で呟いた。

 それは誰かに届く言葉ではなかった。
 けれど、手のひらを通して伝わったぬくもりが──静かに、けれど確かに、その想いに応えてくれている気がした。

 ──夜はまだ、深い。
 けれどそこに、かすかな灯のような、やわらかな静けさが宿っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

嫁がされたと思ったら放置されたので、好きに暮らします。だから今さら構わないでください、辺境伯さま

中洲める
BL
錬金術をこよなく愛する転生者アッシュ・クロイツ。 両親の死をきっかけにクロイツ男爵領を乗っ取った叔父は、正統な後継者の僕を邪魔に思い取引相手の辺境伯へ婚約者として押し付けた。 故郷を追い出された僕が向かった先辺境グラフィカ領は、なんと薬草の楽園!!! 様々な種類の薬草が植えられた広い畑に、たくさんの未知の素材! 僕の錬金術師スイッチが入りテンションMAX! ワクワクした気持ちで屋敷に向かうと初対面を果たした辺境伯婚約者オリバーは、「忙しいから君に構ってる暇はない。好きにしろ」と、顔も上げずに冷たく言い放つ。 うむ、好きにしていいなら好きにさせて貰おうじゃないか! 僕は屋敷を飛び出し、素材豊富なこの土地で大好きな錬金術の腕を思い切り奮う。 そうしてニ年後。 領地でいい薬を作ると評判の錬金術師となった僕と辺境伯オリバーは再び対面する。 え? 辺境伯様、僕に惚れたの? 今更でしょ。 関係ここからやり直し?できる? Rには*ついてます。 後半に色々あるので注意事項がある時は前書きに入れておきます。 ムーンライトにも同時投稿中

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!

野原 耳子
BL
★執着溺愛系イケメン俳優α×平凡なカメラマンΩ 平凡なオメガである保(たもつ)は、ある日テレビで見たイケメン俳優が自分の『運命』だと気付くが、 どうせ結ばれない恋だと思って、速攻で諦めることにする。 数年後、テレビカメラマンとなった保は、生放送番組で運命である藍人(あいと)と初めて出会う。 きっと自分の存在に気付くことはないだろうと思っていたのに、 生放送中、藍人はカメラ越しに保を見据えて、こう言い放つ。 「やっと見つけた。もう絶対に逃がさない」 それから藍人は、混乱する保を囲い込もうと色々と動き始めて――

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

望まれなかった代役婚ですが、投資で村を救っていたら旦那様に溺愛されました。

ivy
BL
⭐︎毎朝更新⭐︎ 兄の身代わりで望まれぬ結婚を押しつけられたライネル。 冷たく「帰れ」と言われても、帰る家なんてない! 仕方なく寂れた村をもらい受け、前世の記憶を活かして“投資”で村おこしに挑戦することに。 宝石をぽりぽり食べるマスコット少年や、クセの強い職人たちに囲まれて、にぎやかな日々が始まる。 一方、彼を追い出したはずの旦那様は、いつの間にかライネルのがんばりに心を奪われていき──? 「村おこしと恋愛、どっちも想定外!?」 コミカルだけど甘い、投資×BLラブコメディ。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

その捕虜は牢屋から離れたくない

さいはて旅行社
BL
敵国の牢獄看守や軍人たちが大好きなのは、鍛え上げられた筋肉だった。 というわけで、剣や体術の訓練なんか大嫌いな魔導士で細身の主人公は、同僚の脳筋騎士たちとは違い、敵国の捕虜となっても平穏無事な牢屋生活を満喫するのであった。

異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!

めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈ 社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。 もらった能力は“全言語理解”と“回復力”! ……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈ キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん! 出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。 最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈ 攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉ -------------------- ※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!

処理中です...