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第四章 光あれ、影あれ
33 冷たい指先、さまよう手のひら
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研究室の中は、まるで世界から切り離されたように静まり返っていた。
唯一聞こえるのは、どこかぎこちない空調の低い唸りと──スメラギの、不安定な呼吸の音だけだった。
レンはソファの脇の床に腰を下ろし、膝を抱え、腕のあいだにあごを乗せてじっとその姿を見つめていた。
足元から冷たさがじんわりと這い上がってくる。けれどそれすら気にならなかった。
(……まだ、眠ってるのか)
目は閉じたまま、ほとんど動かない。
けれど、眉間に寄せられた微かな皺と、額に滲む冷や汗が、彼の内側で静かに何かが軋んでいることを告げていた。
意識があるのかどうか、レンには分からない。
だが、放っておけるはずもなかった。
この姿を見て、何も感じずにはいられなかった。
やれることなんて、ほとんどない。
薬も魔法も知らない。触れることすら躊躇われる。──この手が場違いじゃないかと考えるだけで、怖くなる。
だから、ただ傍にいることしかできなかった。
手も出せず、声もかけられず、静かに、ただ見つめるしかなかった。
──その時だった。
「……っ、う……」
スメラギが小さく呻いた。
声というにはあまりにかすかで、喉の奥で震えるような呼気。
それは、何かに縋るような、傷ついた者の声だった。
レンは息をのんで顔を上げた。
ソファに横たわるスメラギは、汗に濡れた睫毛をわずかに震わせながら、苦しげに眉を歪めていた。
目はまだ閉じられている。夢の中か、それとも──過去に囚われているのか。
(先生……)
思わず、手を伸ばしかけた。だが、途中で止まる。
触れていいのか分からない。
けれど──それでも、彼の苦しげな声に、何もできず見ていることなど、できなかった。
「……ごめ……な、さっ……」
──その声が、空気を震わせた。
研究室の張り詰めた静けさを裂くように落ちたその言葉に、レンの胸に何かが鋭く突き刺さった。
(……え?)
謝罪だった。
驚くほどか細く、幼くて──痛々しいほど哀しみに満ちた声だった。
まるで、ずっと昔に置き去りにされた子供が、誰かに許しを乞うような──そんな声。
レンは一瞬、呼吸を忘れた。
──あの、強くて、静かで、誰にも心を開かないはずのスメラギが。
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
痛いほどに。
スメラギの手が、空を彷徨うように微かに動いた。
まるで何かを探し、何かにすがろうとしているかのように──頼ることすら忘れてしまった人が、それでも何かを求めるように。
レンは、考えるより先に動いていた。
その手を、取った。
ひんやりとした指先が、自分の掌に触れた瞬間、
それはびくりと震え──やがて、掴むようにレンの指に絡まってきた。
とても弱々しく、力がこもっていない。
でも──確かに求められているのが分かった。
(……この手で、いつも……戦ってたんだ)
思い出す。
黒板にチョークを走らせるときの、魔素を操るときの、あの美しい指の動きを。
冷静で、正確で、揺るがない強さを纏っていた手。
その手が、いま、こんなにも脆く、頼りない。
(……誰にも見せなかった顔を、今……俺が見てるんだ)
胸の奥が、熱くなる。
そして、ふいに怖くなった。
こんなにも深く触れてしまって、いいのか。
「強さ」に憧れていたはずなのに、今、自分が向き合っているのはその真逆──傷と、痛みと、過去の影。
けれど。
(……だから、誰にも渡したくないって思ったのかもしれない)
レンはそっと、握り返した。
強くはない。
壊れてしまわないように、静かに。
「大丈夫だよ」と、言葉ではなく、手のひらで伝えるように。
すると──スメラギの眉間に寄っていた皺が、ふっと、ほどけていった。
苦しみが、少しだけ和らいだように見えた。
睫毛が震え、呼吸も、ほんのわずかに深くなる。
やがて、その表情は、ほんの少しだけ穏やかさを取り戻していった。
(……そうだよ。先生は、ひとりじゃない)
レンは、小さく胸の中で呟いた。
それは誰かに届く言葉ではなかった。
けれど、手のひらを通して伝わったぬくもりが──静かに、けれど確かに、その想いに応えてくれている気がした。
──夜はまだ、深い。
けれどそこに、かすかな灯のような、やわらかな静けさが宿っていた。
唯一聞こえるのは、どこかぎこちない空調の低い唸りと──スメラギの、不安定な呼吸の音だけだった。
レンはソファの脇の床に腰を下ろし、膝を抱え、腕のあいだにあごを乗せてじっとその姿を見つめていた。
足元から冷たさがじんわりと這い上がってくる。けれどそれすら気にならなかった。
(……まだ、眠ってるのか)
目は閉じたまま、ほとんど動かない。
けれど、眉間に寄せられた微かな皺と、額に滲む冷や汗が、彼の内側で静かに何かが軋んでいることを告げていた。
意識があるのかどうか、レンには分からない。
だが、放っておけるはずもなかった。
この姿を見て、何も感じずにはいられなかった。
やれることなんて、ほとんどない。
薬も魔法も知らない。触れることすら躊躇われる。──この手が場違いじゃないかと考えるだけで、怖くなる。
だから、ただ傍にいることしかできなかった。
手も出せず、声もかけられず、静かに、ただ見つめるしかなかった。
──その時だった。
「……っ、う……」
スメラギが小さく呻いた。
声というにはあまりにかすかで、喉の奥で震えるような呼気。
それは、何かに縋るような、傷ついた者の声だった。
レンは息をのんで顔を上げた。
ソファに横たわるスメラギは、汗に濡れた睫毛をわずかに震わせながら、苦しげに眉を歪めていた。
目はまだ閉じられている。夢の中か、それとも──過去に囚われているのか。
(先生……)
思わず、手を伸ばしかけた。だが、途中で止まる。
触れていいのか分からない。
けれど──それでも、彼の苦しげな声に、何もできず見ていることなど、できなかった。
「……ごめ……な、さっ……」
──その声が、空気を震わせた。
研究室の張り詰めた静けさを裂くように落ちたその言葉に、レンの胸に何かが鋭く突き刺さった。
(……え?)
謝罪だった。
驚くほどか細く、幼くて──痛々しいほど哀しみに満ちた声だった。
まるで、ずっと昔に置き去りにされた子供が、誰かに許しを乞うような──そんな声。
レンは一瞬、呼吸を忘れた。
──あの、強くて、静かで、誰にも心を開かないはずのスメラギが。
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
痛いほどに。
スメラギの手が、空を彷徨うように微かに動いた。
まるで何かを探し、何かにすがろうとしているかのように──頼ることすら忘れてしまった人が、それでも何かを求めるように。
レンは、考えるより先に動いていた。
その手を、取った。
ひんやりとした指先が、自分の掌に触れた瞬間、
それはびくりと震え──やがて、掴むようにレンの指に絡まってきた。
とても弱々しく、力がこもっていない。
でも──確かに求められているのが分かった。
(……この手で、いつも……戦ってたんだ)
思い出す。
黒板にチョークを走らせるときの、魔素を操るときの、あの美しい指の動きを。
冷静で、正確で、揺るがない強さを纏っていた手。
その手が、いま、こんなにも脆く、頼りない。
(……誰にも見せなかった顔を、今……俺が見てるんだ)
胸の奥が、熱くなる。
そして、ふいに怖くなった。
こんなにも深く触れてしまって、いいのか。
「強さ」に憧れていたはずなのに、今、自分が向き合っているのはその真逆──傷と、痛みと、過去の影。
けれど。
(……だから、誰にも渡したくないって思ったのかもしれない)
レンはそっと、握り返した。
強くはない。
壊れてしまわないように、静かに。
「大丈夫だよ」と、言葉ではなく、手のひらで伝えるように。
すると──スメラギの眉間に寄っていた皺が、ふっと、ほどけていった。
苦しみが、少しだけ和らいだように見えた。
睫毛が震え、呼吸も、ほんのわずかに深くなる。
やがて、その表情は、ほんの少しだけ穏やかさを取り戻していった。
(……そうだよ。先生は、ひとりじゃない)
レンは、小さく胸の中で呟いた。
それは誰かに届く言葉ではなかった。
けれど、手のひらを通して伝わったぬくもりが──静かに、けれど確かに、その想いに応えてくれている気がした。
──夜はまだ、深い。
けれどそこに、かすかな灯のような、やわらかな静けさが宿っていた。
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