星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

文字の大きさ
43 / 109
第四章 光あれ、影あれ

37 風の屋上、束の間の時間

しおりを挟む
 朝の空気は、どこか懐かしい匂いがした。
 新緑の湿り気に混じるアスファルトの匂い、制服の襟に触れる微かな風――どれもが、過ぎ去った“日常”を思い起こさせた。

 神陽しんよう高等学校。
 レンが、まだ“普通の高校生”だった頃を過ごしていた場所。
 イシュ・アルマでの講義が休みとなった今日は、久しぶりに制服のジャケットに袖を通し、ゆるやかな坂道をのぼっていた。

 通学路に差す朝の光は柔らかく、道端の雑草は露をはじき、きらめいていた。
 その清々しさのなかで、レンの心はどこか落ち着かない。ひとつ呼吸を吸っても、胸の奥がそわそわと騒いでいた。

「……おはようございます」

 小さく呟きながら昇降口の扉をくぐる。
 ただその一歩に、ふと、かつての自分が帰ってきたような錯覚を覚えた。

 だが――それはすぐに壊された。

「いよう、イシミネ氏!ひっさしぶりー!」

 唐突に背後から飛びついてきたのは、クラスメイトのカベだった。
 明るく、少しお調子者で、どこまでも悪気のない陽気さ。けれど今のレンには、その無邪気さが少しだけ重たかった。

「……わっ、カベ!? ちょ、やめ、びっくりするって!」

 レンは反射的に声を上げながら、笑顔を作った。
 けれど、どこかその笑みが上滑りする。以前なら自然だった会話も、今はどこかぎこちない。言葉の端々に、仮面を意識する。

 カベはお構いなしに肩をバンバン叩いてくる。

「にしても、成績優秀者ってのは大変だな~。特別短期留学とか、どんなエリートコースよ? お前とヒウラちゃん、すごいって噂になってるぜ」

 ――そうか。
 あの戦いも、退魔師の訓練も、命を懸けた日々も。
 それらはすべて、“特別短期留学”の一言で包み込まれてしまうのだ。

 ほんの少しだけ、胸の奥が苦くなった。

「……うん。まあ、そんな感じ……」

 曖昧に笑って返しながら、レンは教室へと足を踏み入れる。
 見慣れた机と椅子。賑やかな声。
 そこには確かに日常があった。けれど、自分だけがどこか遠くにいるような、奇妙なずれを感じていた。

「……それにしてもさ」

 カベが席に座ると、声をひそめ、ニヤリと笑う。

「引率がスメラギだったって、聞いたぜ? あの短期留学の時」

「……えっ、え? どゆこと!?」

 思わず声が裏返る。
 昨夜の出来事が、フラッシュバックのように甦る。
 倒れかけたあの姿。優しい声。触れた手の熱。あの、星のような目――。

「いや~、現地で書類忘れて出国できなくなったとか、眼鏡なくして学生に探させたとか……。他にも、“朝三時に集合かけた”とか、“パスポートとレシート間違えた”とか、まじで何しに行ってたんだって噂だぜ。お前も大変だったな~」

 レンは苦笑した。
 確かにその姿は“彼”であり、けれど、あの夜見た姿とはあまりに違っていた。

 ――なぜ、あの人はあそこまで「普通」を演じるんだろう?

 ふと、そんな疑問が胸の奥に浮かぶ。

 やがて教室の扉が、静かに開いた。

「おはよう、ございます……」

 くぐもった声。いつもの地味な担任――スメラギが入ってくる。
 くたびれたグレーのスーツに、少しヨレたシャツ。寝癖気味の髪。ノートPCを抱える姿は、どこまでも“普通”で、冴えない高校教師だった。

「うっすスメラギせんせー、今日も寝坊?」

「ま~たパワポのデータ消したんじゃないの~?」

 教室に笑いが広がる。けれど、スメラギは淡々とした調子のまま黒板へと向かう。

「はいはい、落ち着いてください」

 無表情のまま、眼鏡をくいと上げて板書を始める。

「来週、課外授業で国立博物館に行きます。忘れ物のないように」

 まるで、何事もなかったかのように。
 レンは、その背中をじっと見つめた。
 ――そうだ。演技かもしれない。仮面かもしれない。
 けれど、それでも彼はここで“教師”をやっているのだ。

 その事実に、ふっと胸が安らぐ。

 ――俺も今日は、少しだけちゃんと、高校生でいようかな。

 ⸻

 昼休み。

 久しぶりの高校は、懐かしいというよりも――胸の奥をそっとくすぐるような、淡くてやわらかい温もりがあった。
 廊下の陽射し、掲示物の色あせ、どこか湿ったような教室の空気。すべてが、昨日までの「日常」のはずなのに、どこか違って見える。

 けれど、なぜだろう。
 クラスメイトたちの談笑も、黒板に残るチョークの粉も、どこか遠い。自分だけ、世界から一歩、置き去りにされているような――
 あるいは、まだ“昨日”の続きを歩いているような気がした。

 レンは誰にも声をかけられないまま、静かに東校舎の階段を上っていった。
 屋上の鍵は昔から壊れたままだ。あるいは、教師の誰かが黙認しているのかもしれない。誰にも咎められずに出入りできる、数少ない「自由な場所」。
 レンにとっては、静かな風と空のあるその場所が、高校の中でいちばん好きだった。

 軋む音を立てて扉を開け、光の中へ一歩、足を踏み出す。

 眼下に広がる街は、初夏の陽に包まれ、揺らめいていた。
 遠くのビルが青く霞み、街路樹の緑がそよぎ、校舎の屋根に溜まった陽射しがきらきらと輝いている。
 どこか現実離れした静けさに満ちていて、ほんの少しだけ、魔法も退魔も、遠ざかったような気がした。

 だけど、その屋上には――先客がいた。

 風に揺れる黒髪。
 フェンスの縁に、背を向けて立っているのは、スメラギだった。
 スーツの上着を脱ぎ、白いシャツの袖を軽くまくりあげている。肩にかかる髪が陽に透け、その横顔はどこか別の世界に意識を預けているようだった。

 いつもの無表情とは違う、静けさ。
 冷えた水面のような透明さが、彼の横顔を包んでいた。

 レンは、思わず足を止めた。
 声をかけようか、一瞬だけ迷う。
 けれど、呼ばれた気がした。
 言葉ではなく、背中の向こうから――「来い」と告げられたように感じて。

「……先生?」

 風がすうっと吹き抜ける。レンの声は、その風に攫われてしまいそうだった。
 けれど、確かに届いた。

 スメラギの肩が、わずかに揺れた。
 その瞬間、彼を包んでいた空気がふっと和らいだように見えた。
 冷たく張りつめていた何かが、音もなくほどけていく。 

「……風が、気持ちいいよな……ここ」

 振り返らずにこぼした声は、どこか柔らかくて。
 レンの胸の奥に、小さな火が灯る。

「……そうですね。俺も、ここ……好きです」

 そう答えながら、レンはそっと彼の隣に立つ。
 だけど、肩が触れるほど近づく勇気はなかった。
 だからほんの少し、ほんの少しだけ間を空けて、並んだ。

「……ふふ」

 短く漏れたその声には、確かに微笑みが滲んでいた。
 レンの心が跳ねる。
 昨日の夜から、ときどき見せるようになったそのやわらかい表情。
 それを見るたびに、胸の奥が騒がしくなる。

 ふたりの間を、沈黙が流れる。
 けれどそれは不安ではなく、静かな満たされた間(ま)だった。
 風が髪を撫で、遠くでカラスの声が重なり、小さな影が地上をよぎっていく。

 レンは、ぽつりと口を開いた。

「……昨日は、ありがとうございました」

「うん?」

「俺のこと……本物だって言ってくれて……、すごく、嬉しかったです」

 口にすると、胸の奥が少しだけきゅっとした。
 あの夜の感情が、まだどこかに残っている。
 焼け跡のように、じんわりと、熱を持ったままで。

「…………そうか」

 スメラギの声もまた、どこか沈んでいた。
 けれどそれは、優しさをにじませた音だった。
 言葉の間にある想いが、ちゃんと届いている気がした。

 再び、風が吹く。
 レンは何かを言わなければと、焦るように言葉を選ぶ。

「そ、それにさ!!先生の目って……不思議な色ですねっ」

「…………」

 レンは気づかなかった。
 スメラギの表情が、ふっと曇ったことに。
 まるで瞳の色を恥じているように。
 今はメガネの奥に、ヘーゼルの偽色をまとっているはずなのに――その目をそっと伏せた仕草は、「見せたくない」と語っていた。

 けれど、続くレンの言葉が、その空気を揺らした。

「先生の目、すごく綺麗だなって思ったんです。キラキラしてて、夜空の星みたいで……俺、すごく、好きだなって」

 自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。
 気づいたときにはもう、口からこぼれていた。
 胸の奥に浮かんだ気持ちが、言葉になって勝手に飛び出してしまったようだった。

 ――頬が熱い。
 言った瞬間、後悔と照れがぐるぐると渦を巻く。

 スメラギが、顔をこちらに向ける。
 はっきりと、驚いた顔をしていた。

「……え?」

 その一言に、レンの心臓が跳ねた。
 ――やばい、やばい、変なこと言っちゃったかも?

「あっ、いやっ!好きっていうのは、先生の星色の目が好きって意味で!その、変な意味じゃ――!」

 しどろもどろに弁解を重ねるレン。
 そんな彼を、スメラギはしばらくじっと見つめて――

 そして、くすくすと笑い出した。

 肩を揺らして、小さく、けれど確かに楽しそうに。
 困ったように、それでもどこか――嬉しそうに。

「……っ、な、なんで笑うんですか……っ」

 唇を尖らせるレンに、スメラギは視線を戻しながら、ふっと言った。

「……いや。綺麗だなんて、そんなふうに言われたの、初めてだったから」

 それだけ言って、また笑う。
 どこか照れくさそうに。けれどその笑顔は、確かに――あたたかかった。


 しばらく笑い合った後にスメラギが、ふっと細く息をついた。まるで、自分でも気づかぬうちに張っていた呼吸をようやく吐き出すように。

「……君は、よく見ているんだな」

 低く、落ち着いた声。

「え……?」

「俺の目の色に、気付いた子は少ない。気づいても綺麗だなんて言う子は今までいなかった。無意識に、見ないようにしてしまう。自分たちの知らないものは……怖いから」

 その声には、わずかな寂しさと、どこか自嘲の色が混ざっていた。

「それでも、君は……見て、“綺麗”だと言った」

 風がまた、ふたりの髪を揺らす。
 その風が通り抜けたあと、スメラギはゆっくりと視線を遠くに向けた。

「……君は、……強いな」

 ぽつりと落とされたその言葉に、レンは息を呑んだ。

「え……俺が?」

「まだ未熟だし、粗いし、子どもだ。けれど……真っ直ぐだ。迷っても、ちゃんと進もうとしている。……俺には、できなかった事だ」

 その言葉には、過去を振り返るような、どこか遠い哀しみがにじんでいた。

 レンは、何も言えなかった。

 けれど、その背中がほんの少しだけ、前より近くに感じた。

 ほんの少しだけでも、先生のことを知れた気がして、胸の奥がじんわりと温かくなった。

「……行こうか。もう直ぐ授業が始まる」

 そう言って、スメラギは先に歩き出した。

 レンは一瞬、彼の背を見つめたあと、あわてて後を追う。

「先生、次の授業、俺のクラスですよね。俺、ちゃんとノート取るんで! 昨日のぶん、巻き返しますから!」

「……それはどうだか」

「ひどっ!」

 どこかぎこちなく、けれど確かに笑いが混じったそのやり取りは、ほんの少しだけ、これからを明るく照らしていた。


 風に揺れる黒髪と、星のような瞳。
 その横顔を見ているうちに、レンの中に芽生えた“好き”が、またひとつ、かたちになった気がした。

 やさしい風が、ふたりの間をそっと撫でていく。
 まるで、その時間だけがゆっくりと、永遠に続いているようだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

嫁がされたと思ったら放置されたので、好きに暮らします。だから今さら構わないでください、辺境伯さま

中洲める
BL
錬金術をこよなく愛する転生者アッシュ・クロイツ。 両親の死をきっかけにクロイツ男爵領を乗っ取った叔父は、正統な後継者の僕を邪魔に思い取引相手の辺境伯へ婚約者として押し付けた。 故郷を追い出された僕が向かった先辺境グラフィカ領は、なんと薬草の楽園!!! 様々な種類の薬草が植えられた広い畑に、たくさんの未知の素材! 僕の錬金術師スイッチが入りテンションMAX! ワクワクした気持ちで屋敷に向かうと初対面を果たした辺境伯婚約者オリバーは、「忙しいから君に構ってる暇はない。好きにしろ」と、顔も上げずに冷たく言い放つ。 うむ、好きにしていいなら好きにさせて貰おうじゃないか! 僕は屋敷を飛び出し、素材豊富なこの土地で大好きな錬金術の腕を思い切り奮う。 そうしてニ年後。 領地でいい薬を作ると評判の錬金術師となった僕と辺境伯オリバーは再び対面する。 え? 辺境伯様、僕に惚れたの? 今更でしょ。 関係ここからやり直し?できる? Rには*ついてます。 後半に色々あるので注意事項がある時は前書きに入れておきます。 ムーンライトにも同時投稿中

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!

野原 耳子
BL
★執着溺愛系イケメン俳優α×平凡なカメラマンΩ 平凡なオメガである保(たもつ)は、ある日テレビで見たイケメン俳優が自分の『運命』だと気付くが、 どうせ結ばれない恋だと思って、速攻で諦めることにする。 数年後、テレビカメラマンとなった保は、生放送番組で運命である藍人(あいと)と初めて出会う。 きっと自分の存在に気付くことはないだろうと思っていたのに、 生放送中、藍人はカメラ越しに保を見据えて、こう言い放つ。 「やっと見つけた。もう絶対に逃がさない」 それから藍人は、混乱する保を囲い込もうと色々と動き始めて――

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

望まれなかった代役婚ですが、投資で村を救っていたら旦那様に溺愛されました。

ivy
BL
⭐︎毎朝更新⭐︎ 兄の身代わりで望まれぬ結婚を押しつけられたライネル。 冷たく「帰れ」と言われても、帰る家なんてない! 仕方なく寂れた村をもらい受け、前世の記憶を活かして“投資”で村おこしに挑戦することに。 宝石をぽりぽり食べるマスコット少年や、クセの強い職人たちに囲まれて、にぎやかな日々が始まる。 一方、彼を追い出したはずの旦那様は、いつの間にかライネルのがんばりに心を奪われていき──? 「村おこしと恋愛、どっちも想定外!?」 コミカルだけど甘い、投資×BLラブコメディ。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

その捕虜は牢屋から離れたくない

さいはて旅行社
BL
敵国の牢獄看守や軍人たちが大好きなのは、鍛え上げられた筋肉だった。 というわけで、剣や体術の訓練なんか大嫌いな魔導士で細身の主人公は、同僚の脳筋騎士たちとは違い、敵国の捕虜となっても平穏無事な牢屋生活を満喫するのであった。

異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!

めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈ 社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。 もらった能力は“全言語理解”と“回復力”! ……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈ キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん! 出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。 最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈ 攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉ -------------------- ※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!

処理中です...