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第四章 光あれ、影あれ
37 風の屋上、束の間の時間
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朝の空気は、どこか懐かしい匂いがした。
新緑の湿り気に混じるアスファルトの匂い、制服の襟に触れる微かな風――どれもが、過ぎ去った“日常”を思い起こさせた。
神陽高等学校。
レンが、まだ“普通の高校生”だった頃を過ごしていた場所。
イシュ・アルマでの講義が休みとなった今日は、久しぶりに制服のジャケットに袖を通し、ゆるやかな坂道をのぼっていた。
通学路に差す朝の光は柔らかく、道端の雑草は露をはじき、きらめいていた。
その清々しさのなかで、レンの心はどこか落ち着かない。ひとつ呼吸を吸っても、胸の奥がそわそわと騒いでいた。
「……おはようございます」
小さく呟きながら昇降口の扉をくぐる。
ただその一歩に、ふと、かつての自分が帰ってきたような錯覚を覚えた。
だが――それはすぐに壊された。
「いよう、イシミネ氏!ひっさしぶりー!」
唐突に背後から飛びついてきたのは、クラスメイトのカベだった。
明るく、少しお調子者で、どこまでも悪気のない陽気さ。けれど今のレンには、その無邪気さが少しだけ重たかった。
「……わっ、カベ!? ちょ、やめ、びっくりするって!」
レンは反射的に声を上げながら、笑顔を作った。
けれど、どこかその笑みが上滑りする。以前なら自然だった会話も、今はどこかぎこちない。言葉の端々に、仮面を意識する。
カベはお構いなしに肩をバンバン叩いてくる。
「にしても、成績優秀者ってのは大変だな~。特別短期留学とか、どんなエリートコースよ? お前とヒウラちゃん、すごいって噂になってるぜ」
――そうか。
あの戦いも、退魔師の訓練も、命を懸けた日々も。
それらはすべて、“特別短期留学”の一言で包み込まれてしまうのだ。
ほんの少しだけ、胸の奥が苦くなった。
「……うん。まあ、そんな感じ……」
曖昧に笑って返しながら、レンは教室へと足を踏み入れる。
見慣れた机と椅子。賑やかな声。
そこには確かに日常があった。けれど、自分だけがどこか遠くにいるような、奇妙なずれを感じていた。
「……それにしてもさ」
カベが席に座ると、声をひそめ、ニヤリと笑う。
「引率がスメラギだったって、聞いたぜ? あの短期留学の時」
「……えっ、え? どゆこと!?」
思わず声が裏返る。
昨夜の出来事が、フラッシュバックのように甦る。
倒れかけたあの姿。優しい声。触れた手の熱。あの、星のような目――。
「いや~、現地で書類忘れて出国できなくなったとか、眼鏡なくして学生に探させたとか……。他にも、“朝三時に集合かけた”とか、“パスポートとレシート間違えた”とか、まじで何しに行ってたんだって噂だぜ。お前も大変だったな~」
レンは苦笑した。
確かにその姿は“彼”であり、けれど、あの夜見た姿とはあまりに違っていた。
――なぜ、あの人はあそこまで「普通」を演じるんだろう?
ふと、そんな疑問が胸の奥に浮かぶ。
やがて教室の扉が、静かに開いた。
「おはよう、ございます……」
くぐもった声。いつもの地味な担任――スメラギが入ってくる。
くたびれたグレーのスーツに、少しヨレたシャツ。寝癖気味の髪。ノートPCを抱える姿は、どこまでも“普通”で、冴えない高校教師だった。
「うっすスメラギせんせー、今日も寝坊?」
「ま~たパワポのデータ消したんじゃないの~?」
教室に笑いが広がる。けれど、スメラギは淡々とした調子のまま黒板へと向かう。
「はいはい、落ち着いてください」
無表情のまま、眼鏡をくいと上げて板書を始める。
「来週、課外授業で国立博物館に行きます。忘れ物のないように」
まるで、何事もなかったかのように。
レンは、その背中をじっと見つめた。
――そうだ。演技かもしれない。仮面かもしれない。
けれど、それでも彼はここで“教師”をやっているのだ。
その事実に、ふっと胸が安らぐ。
――俺も今日は、少しだけちゃんと、高校生でいようかな。
⸻
昼休み。
久しぶりの高校は、懐かしいというよりも――胸の奥をそっとくすぐるような、淡くてやわらかい温もりがあった。
廊下の陽射し、掲示物の色あせ、どこか湿ったような教室の空気。すべてが、昨日までの「日常」のはずなのに、どこか違って見える。
けれど、なぜだろう。
クラスメイトたちの談笑も、黒板に残るチョークの粉も、どこか遠い。自分だけ、世界から一歩、置き去りにされているような――
あるいは、まだ“昨日”の続きを歩いているような気がした。
レンは誰にも声をかけられないまま、静かに東校舎の階段を上っていった。
屋上の鍵は昔から壊れたままだ。あるいは、教師の誰かが黙認しているのかもしれない。誰にも咎められずに出入りできる、数少ない「自由な場所」。
レンにとっては、静かな風と空のあるその場所が、高校の中でいちばん好きだった。
軋む音を立てて扉を開け、光の中へ一歩、足を踏み出す。
眼下に広がる街は、初夏の陽に包まれ、揺らめいていた。
遠くのビルが青く霞み、街路樹の緑がそよぎ、校舎の屋根に溜まった陽射しがきらきらと輝いている。
どこか現実離れした静けさに満ちていて、ほんの少しだけ、魔法も退魔も、遠ざかったような気がした。
だけど、その屋上には――先客がいた。
風に揺れる黒髪。
フェンスの縁に、背を向けて立っているのは、スメラギだった。
スーツの上着を脱ぎ、白いシャツの袖を軽くまくりあげている。肩にかかる髪が陽に透け、その横顔はどこか別の世界に意識を預けているようだった。
いつもの無表情とは違う、静けさ。
冷えた水面のような透明さが、彼の横顔を包んでいた。
レンは、思わず足を止めた。
声をかけようか、一瞬だけ迷う。
けれど、呼ばれた気がした。
言葉ではなく、背中の向こうから――「来い」と告げられたように感じて。
「……先生?」
風がすうっと吹き抜ける。レンの声は、その風に攫われてしまいそうだった。
けれど、確かに届いた。
スメラギの肩が、わずかに揺れた。
その瞬間、彼を包んでいた空気がふっと和らいだように見えた。
冷たく張りつめていた何かが、音もなくほどけていく。
「……風が、気持ちいいよな……ここ」
振り返らずにこぼした声は、どこか柔らかくて。
レンの胸の奥に、小さな火が灯る。
「……そうですね。俺も、ここ……好きです」
そう答えながら、レンはそっと彼の隣に立つ。
だけど、肩が触れるほど近づく勇気はなかった。
だからほんの少し、ほんの少しだけ間を空けて、並んだ。
「……ふふ」
短く漏れたその声には、確かに微笑みが滲んでいた。
レンの心が跳ねる。
昨日の夜から、ときどき見せるようになったそのやわらかい表情。
それを見るたびに、胸の奥が騒がしくなる。
ふたりの間を、沈黙が流れる。
けれどそれは不安ではなく、静かな満たされた間(ま)だった。
風が髪を撫で、遠くでカラスの声が重なり、小さな影が地上をよぎっていく。
レンは、ぽつりと口を開いた。
「……昨日は、ありがとうございました」
「うん?」
「俺のこと……本物だって言ってくれて……、すごく、嬉しかったです」
口にすると、胸の奥が少しだけきゅっとした。
あの夜の感情が、まだどこかに残っている。
焼け跡のように、じんわりと、熱を持ったままで。
「…………そうか」
スメラギの声もまた、どこか沈んでいた。
けれどそれは、優しさをにじませた音だった。
言葉の間にある想いが、ちゃんと届いている気がした。
再び、風が吹く。
レンは何かを言わなければと、焦るように言葉を選ぶ。
「そ、それにさ!!先生の目って……不思議な色ですねっ」
「…………」
レンは気づかなかった。
スメラギの表情が、ふっと曇ったことに。
まるで瞳の色を恥じているように。
今はメガネの奥に、ヘーゼルの偽色をまとっているはずなのに――その目をそっと伏せた仕草は、「見せたくない」と語っていた。
けれど、続くレンの言葉が、その空気を揺らした。
「先生の目、すごく綺麗だなって思ったんです。キラキラしてて、夜空の星みたいで……俺、すごく、好きだなって」
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。
気づいたときにはもう、口からこぼれていた。
胸の奥に浮かんだ気持ちが、言葉になって勝手に飛び出してしまったようだった。
――頬が熱い。
言った瞬間、後悔と照れがぐるぐると渦を巻く。
スメラギが、顔をこちらに向ける。
はっきりと、驚いた顔をしていた。
「……え?」
その一言に、レンの心臓が跳ねた。
――やばい、やばい、変なこと言っちゃったかも?
「あっ、いやっ!好きっていうのは、先生の星色の目が好きって意味で!その、変な意味じゃ――!」
しどろもどろに弁解を重ねるレン。
そんな彼を、スメラギはしばらくじっと見つめて――
そして、くすくすと笑い出した。
肩を揺らして、小さく、けれど確かに楽しそうに。
困ったように、それでもどこか――嬉しそうに。
「……っ、な、なんで笑うんですか……っ」
唇を尖らせるレンに、スメラギは視線を戻しながら、ふっと言った。
「……いや。綺麗だなんて、そんなふうに言われたの、初めてだったから」
それだけ言って、また笑う。
どこか照れくさそうに。けれどその笑顔は、確かに――あたたかかった。
しばらく笑い合った後にスメラギが、ふっと細く息をついた。まるで、自分でも気づかぬうちに張っていた呼吸をようやく吐き出すように。
「……君は、よく見ているんだな」
低く、落ち着いた声。
「え……?」
「俺の目の色に、気付いた子は少ない。気づいても綺麗だなんて言う子は今までいなかった。無意識に、見ないようにしてしまう。自分たちの知らないものは……怖いから」
その声には、わずかな寂しさと、どこか自嘲の色が混ざっていた。
「それでも、君は……見て、“綺麗”だと言った」
風がまた、ふたりの髪を揺らす。
その風が通り抜けたあと、スメラギはゆっくりと視線を遠くに向けた。
「……君は、……強いな」
ぽつりと落とされたその言葉に、レンは息を呑んだ。
「え……俺が?」
「まだ未熟だし、粗いし、子どもだ。けれど……真っ直ぐだ。迷っても、ちゃんと進もうとしている。……俺には、できなかった事だ」
その言葉には、過去を振り返るような、どこか遠い哀しみがにじんでいた。
レンは、何も言えなかった。
けれど、その背中がほんの少しだけ、前より近くに感じた。
ほんの少しだけでも、先生のことを知れた気がして、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……行こうか。もう直ぐ授業が始まる」
そう言って、スメラギは先に歩き出した。
レンは一瞬、彼の背を見つめたあと、あわてて後を追う。
「先生、次の授業、俺のクラスですよね。俺、ちゃんとノート取るんで! 昨日のぶん、巻き返しますから!」
「……それはどうだか」
「ひどっ!」
どこかぎこちなく、けれど確かに笑いが混じったそのやり取りは、ほんの少しだけ、これからを明るく照らしていた。
風に揺れる黒髪と、星のような瞳。
その横顔を見ているうちに、レンの中に芽生えた“好き”が、またひとつ、かたちになった気がした。
やさしい風が、ふたりの間をそっと撫でていく。
まるで、その時間だけがゆっくりと、永遠に続いているようだった。
新緑の湿り気に混じるアスファルトの匂い、制服の襟に触れる微かな風――どれもが、過ぎ去った“日常”を思い起こさせた。
神陽高等学校。
レンが、まだ“普通の高校生”だった頃を過ごしていた場所。
イシュ・アルマでの講義が休みとなった今日は、久しぶりに制服のジャケットに袖を通し、ゆるやかな坂道をのぼっていた。
通学路に差す朝の光は柔らかく、道端の雑草は露をはじき、きらめいていた。
その清々しさのなかで、レンの心はどこか落ち着かない。ひとつ呼吸を吸っても、胸の奥がそわそわと騒いでいた。
「……おはようございます」
小さく呟きながら昇降口の扉をくぐる。
ただその一歩に、ふと、かつての自分が帰ってきたような錯覚を覚えた。
だが――それはすぐに壊された。
「いよう、イシミネ氏!ひっさしぶりー!」
唐突に背後から飛びついてきたのは、クラスメイトのカベだった。
明るく、少しお調子者で、どこまでも悪気のない陽気さ。けれど今のレンには、その無邪気さが少しだけ重たかった。
「……わっ、カベ!? ちょ、やめ、びっくりするって!」
レンは反射的に声を上げながら、笑顔を作った。
けれど、どこかその笑みが上滑りする。以前なら自然だった会話も、今はどこかぎこちない。言葉の端々に、仮面を意識する。
カベはお構いなしに肩をバンバン叩いてくる。
「にしても、成績優秀者ってのは大変だな~。特別短期留学とか、どんなエリートコースよ? お前とヒウラちゃん、すごいって噂になってるぜ」
――そうか。
あの戦いも、退魔師の訓練も、命を懸けた日々も。
それらはすべて、“特別短期留学”の一言で包み込まれてしまうのだ。
ほんの少しだけ、胸の奥が苦くなった。
「……うん。まあ、そんな感じ……」
曖昧に笑って返しながら、レンは教室へと足を踏み入れる。
見慣れた机と椅子。賑やかな声。
そこには確かに日常があった。けれど、自分だけがどこか遠くにいるような、奇妙なずれを感じていた。
「……それにしてもさ」
カベが席に座ると、声をひそめ、ニヤリと笑う。
「引率がスメラギだったって、聞いたぜ? あの短期留学の時」
「……えっ、え? どゆこと!?」
思わず声が裏返る。
昨夜の出来事が、フラッシュバックのように甦る。
倒れかけたあの姿。優しい声。触れた手の熱。あの、星のような目――。
「いや~、現地で書類忘れて出国できなくなったとか、眼鏡なくして学生に探させたとか……。他にも、“朝三時に集合かけた”とか、“パスポートとレシート間違えた”とか、まじで何しに行ってたんだって噂だぜ。お前も大変だったな~」
レンは苦笑した。
確かにその姿は“彼”であり、けれど、あの夜見た姿とはあまりに違っていた。
――なぜ、あの人はあそこまで「普通」を演じるんだろう?
ふと、そんな疑問が胸の奥に浮かぶ。
やがて教室の扉が、静かに開いた。
「おはよう、ございます……」
くぐもった声。いつもの地味な担任――スメラギが入ってくる。
くたびれたグレーのスーツに、少しヨレたシャツ。寝癖気味の髪。ノートPCを抱える姿は、どこまでも“普通”で、冴えない高校教師だった。
「うっすスメラギせんせー、今日も寝坊?」
「ま~たパワポのデータ消したんじゃないの~?」
教室に笑いが広がる。けれど、スメラギは淡々とした調子のまま黒板へと向かう。
「はいはい、落ち着いてください」
無表情のまま、眼鏡をくいと上げて板書を始める。
「来週、課外授業で国立博物館に行きます。忘れ物のないように」
まるで、何事もなかったかのように。
レンは、その背中をじっと見つめた。
――そうだ。演技かもしれない。仮面かもしれない。
けれど、それでも彼はここで“教師”をやっているのだ。
その事実に、ふっと胸が安らぐ。
――俺も今日は、少しだけちゃんと、高校生でいようかな。
⸻
昼休み。
久しぶりの高校は、懐かしいというよりも――胸の奥をそっとくすぐるような、淡くてやわらかい温もりがあった。
廊下の陽射し、掲示物の色あせ、どこか湿ったような教室の空気。すべてが、昨日までの「日常」のはずなのに、どこか違って見える。
けれど、なぜだろう。
クラスメイトたちの談笑も、黒板に残るチョークの粉も、どこか遠い。自分だけ、世界から一歩、置き去りにされているような――
あるいは、まだ“昨日”の続きを歩いているような気がした。
レンは誰にも声をかけられないまま、静かに東校舎の階段を上っていった。
屋上の鍵は昔から壊れたままだ。あるいは、教師の誰かが黙認しているのかもしれない。誰にも咎められずに出入りできる、数少ない「自由な場所」。
レンにとっては、静かな風と空のあるその場所が、高校の中でいちばん好きだった。
軋む音を立てて扉を開け、光の中へ一歩、足を踏み出す。
眼下に広がる街は、初夏の陽に包まれ、揺らめいていた。
遠くのビルが青く霞み、街路樹の緑がそよぎ、校舎の屋根に溜まった陽射しがきらきらと輝いている。
どこか現実離れした静けさに満ちていて、ほんの少しだけ、魔法も退魔も、遠ざかったような気がした。
だけど、その屋上には――先客がいた。
風に揺れる黒髪。
フェンスの縁に、背を向けて立っているのは、スメラギだった。
スーツの上着を脱ぎ、白いシャツの袖を軽くまくりあげている。肩にかかる髪が陽に透け、その横顔はどこか別の世界に意識を預けているようだった。
いつもの無表情とは違う、静けさ。
冷えた水面のような透明さが、彼の横顔を包んでいた。
レンは、思わず足を止めた。
声をかけようか、一瞬だけ迷う。
けれど、呼ばれた気がした。
言葉ではなく、背中の向こうから――「来い」と告げられたように感じて。
「……先生?」
風がすうっと吹き抜ける。レンの声は、その風に攫われてしまいそうだった。
けれど、確かに届いた。
スメラギの肩が、わずかに揺れた。
その瞬間、彼を包んでいた空気がふっと和らいだように見えた。
冷たく張りつめていた何かが、音もなくほどけていく。
「……風が、気持ちいいよな……ここ」
振り返らずにこぼした声は、どこか柔らかくて。
レンの胸の奥に、小さな火が灯る。
「……そうですね。俺も、ここ……好きです」
そう答えながら、レンはそっと彼の隣に立つ。
だけど、肩が触れるほど近づく勇気はなかった。
だからほんの少し、ほんの少しだけ間を空けて、並んだ。
「……ふふ」
短く漏れたその声には、確かに微笑みが滲んでいた。
レンの心が跳ねる。
昨日の夜から、ときどき見せるようになったそのやわらかい表情。
それを見るたびに、胸の奥が騒がしくなる。
ふたりの間を、沈黙が流れる。
けれどそれは不安ではなく、静かな満たされた間(ま)だった。
風が髪を撫で、遠くでカラスの声が重なり、小さな影が地上をよぎっていく。
レンは、ぽつりと口を開いた。
「……昨日は、ありがとうございました」
「うん?」
「俺のこと……本物だって言ってくれて……、すごく、嬉しかったです」
口にすると、胸の奥が少しだけきゅっとした。
あの夜の感情が、まだどこかに残っている。
焼け跡のように、じんわりと、熱を持ったままで。
「…………そうか」
スメラギの声もまた、どこか沈んでいた。
けれどそれは、優しさをにじませた音だった。
言葉の間にある想いが、ちゃんと届いている気がした。
再び、風が吹く。
レンは何かを言わなければと、焦るように言葉を選ぶ。
「そ、それにさ!!先生の目って……不思議な色ですねっ」
「…………」
レンは気づかなかった。
スメラギの表情が、ふっと曇ったことに。
まるで瞳の色を恥じているように。
今はメガネの奥に、ヘーゼルの偽色をまとっているはずなのに――その目をそっと伏せた仕草は、「見せたくない」と語っていた。
けれど、続くレンの言葉が、その空気を揺らした。
「先生の目、すごく綺麗だなって思ったんです。キラキラしてて、夜空の星みたいで……俺、すごく、好きだなって」
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。
気づいたときにはもう、口からこぼれていた。
胸の奥に浮かんだ気持ちが、言葉になって勝手に飛び出してしまったようだった。
――頬が熱い。
言った瞬間、後悔と照れがぐるぐると渦を巻く。
スメラギが、顔をこちらに向ける。
はっきりと、驚いた顔をしていた。
「……え?」
その一言に、レンの心臓が跳ねた。
――やばい、やばい、変なこと言っちゃったかも?
「あっ、いやっ!好きっていうのは、先生の星色の目が好きって意味で!その、変な意味じゃ――!」
しどろもどろに弁解を重ねるレン。
そんな彼を、スメラギはしばらくじっと見つめて――
そして、くすくすと笑い出した。
肩を揺らして、小さく、けれど確かに楽しそうに。
困ったように、それでもどこか――嬉しそうに。
「……っ、な、なんで笑うんですか……っ」
唇を尖らせるレンに、スメラギは視線を戻しながら、ふっと言った。
「……いや。綺麗だなんて、そんなふうに言われたの、初めてだったから」
それだけ言って、また笑う。
どこか照れくさそうに。けれどその笑顔は、確かに――あたたかかった。
しばらく笑い合った後にスメラギが、ふっと細く息をついた。まるで、自分でも気づかぬうちに張っていた呼吸をようやく吐き出すように。
「……君は、よく見ているんだな」
低く、落ち着いた声。
「え……?」
「俺の目の色に、気付いた子は少ない。気づいても綺麗だなんて言う子は今までいなかった。無意識に、見ないようにしてしまう。自分たちの知らないものは……怖いから」
その声には、わずかな寂しさと、どこか自嘲の色が混ざっていた。
「それでも、君は……見て、“綺麗”だと言った」
風がまた、ふたりの髪を揺らす。
その風が通り抜けたあと、スメラギはゆっくりと視線を遠くに向けた。
「……君は、……強いな」
ぽつりと落とされたその言葉に、レンは息を呑んだ。
「え……俺が?」
「まだ未熟だし、粗いし、子どもだ。けれど……真っ直ぐだ。迷っても、ちゃんと進もうとしている。……俺には、できなかった事だ」
その言葉には、過去を振り返るような、どこか遠い哀しみがにじんでいた。
レンは、何も言えなかった。
けれど、その背中がほんの少しだけ、前より近くに感じた。
ほんの少しだけでも、先生のことを知れた気がして、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……行こうか。もう直ぐ授業が始まる」
そう言って、スメラギは先に歩き出した。
レンは一瞬、彼の背を見つめたあと、あわてて後を追う。
「先生、次の授業、俺のクラスですよね。俺、ちゃんとノート取るんで! 昨日のぶん、巻き返しますから!」
「……それはどうだか」
「ひどっ!」
どこかぎこちなく、けれど確かに笑いが混じったそのやり取りは、ほんの少しだけ、これからを明るく照らしていた。
風に揺れる黒髪と、星のような瞳。
その横顔を見ているうちに、レンの中に芽生えた“好き”が、またひとつ、かたちになった気がした。
やさしい風が、ふたりの間をそっと撫でていく。
まるで、その時間だけがゆっくりと、永遠に続いているようだった。
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