星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第五章 ワルプルギスの夜

40 迷宮の果てで、笑う声

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 それは、本当に唐突だった。

 静寂に沈んでいたはずの博物館が、不意に地の底から呻くような重低音を響かせたかと思うと──

 ドンッ──!

 建物全体が一瞬、生き物のように跳ね上がった。

「な、なに……!?」
「地震っ!?」

 ざわめきも悲鳴も追いつかないまま、激震が展示室を直撃した。
 床がうねり、天井から粉じんが降る。
 ガラスケースが軋み、いくつかが傾き──砕け散る音が叫び声と混ざった。

 レンは反射的に壁に手をつき、よろめきながら体を支える。
 だが、すぐに悟る。

 これは、地震じゃない。

 ──空間そのものが、内側から引き裂かれようとしている。

 何かが、“この世界”を壊しにきている。

「っ、なんだよこれ……!」

 レンの視界に飛び込んできたのは、現実ではありえない、ねじれた世界だった。

 壁は歪み、廊下は溶けるように曲がりくねっている。
 先ほどまで開かれていた出口は跡形もなく消え、天井からは不気味な“影”が垂れていた。
 ──この建物全体が、どこか異なる空間に書き換えられたような錯覚。

「こっちから出よう! 急げ!」

 誰かが叫び、数人の生徒が走り出す。

 しかし──

「うわっ!? な、なにこれっ!」

 先頭の生徒が、目に見えない何かに弾かれるように倒れ込んだ。
 そこには何もない。なのに、確かに“壁”のようなものがある。

「閉じ込められた……!?」
「やだ……やだやだっ! 出してよ……!」

 混乱が膨れあがる。
 叫び声、泣き声、誰かの名前を呼ぶ声が交錯し、空間はパニックの渦へと変貌した。

「落ち着いて! 皆、落ち着いて!!」

 透き通るような声が、それらを裂くように響く。

 ──カナメだった。

「走らないで! 近くの人と集まって! 一人になっちゃだめ! 先生たちの指示を聞いて!」

 クラス委員としての冷静さと決意を込めた指示に、数人の生徒が足を止め、目を向けた。
 だが、混乱はまだ完全には収まらない。

 その時だった。

「──ヒウラ。イシミネ」

 静かに。だが空気ごと切り裂くような声が、展示室に響いた。

 レンが反射的に振り向く。

 そこに立っていたのは──スメラギだった。

 教師としての地味なシャツ姿のまま。
 だが、その瞳は仮面を脱ぎ捨てた“戦う者”のそれだった。

 メガネの奥のヘーゼルの瞳は、冷静に周囲を見据えている。
 もはや、“ただの先生”ではない。

「この博物館は、迷宮に変質している」

 その一言に、場の空気が凍りつく。

「な……迷宮……?」

「これは自然災害ではない。魔素の干渉による、人為的空間変質。
 どこかに“核”となる媒介がある。それを破壊すれば、迷宮の構造は崩れるはずだ」

 スメラギの声は淡々と、しかし一切の迷いを感じさせない。
 それは、命を張って戦ってきた者の声だった。

「先生、俺も行きます!」

 レンが即座に叫ぶ。
 あのとき見た、哀しげな横顔を思い出す。あの人が、一人きりで傷ついたままでいるなんて──もう、見ていられない。

「私も。……じっとしてる方が、よっぽど怖いから」

 カナメも前へ出る。覚悟を固めた瞳が、スメラギをまっすぐに見つめる。

「……ああ。助かる」

 スメラギは頷き、すぐに判断を下した。

「本来なら、生徒の保護をお前に任せるつもりだった。
 だが、この空間は“理”が通じない。三人で動く──その方が生存率は高い」

「了解」

 言葉を交わすより早く、三人の意思は一つになった。
 彼らは歪んだ展示室を抜け、静寂に潜む迷宮の奥へと足を踏み入れる。

 ──一歩ごとに、空気が変わる。

 光源のないはずの場所に奇妙な光が灯り、壁が息をするように蠢く。
 天井は高く、なのに圧迫感があり、床には魔術陣のような紋が浮かんでは消える。
 重力さえ、場所によって変わっていた。

「……ここ、生きてるみたいだ」

 カナメの呟きは震えていたが、目は前を見ていた。

 これは、ただの術式ではない。

 空間そのものが、意思を持って蠢いている。

 ──そして、その奥で。

 まだ誰にも気づかれぬまま、“何か”が、息を潜めていた。

 嘲るように。
 待ち構えるように。

 この空間は、すでに“罠”として完成している。

 引き返す術など、もうどこにも残されていなかった──。
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