星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第五章 ワルプルギスの夜

41 アプダの魔女

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 ――迷宮と化した博物館の奥

 三人は、言葉少なに足を進めていた。
 ひとたび踏み入れたこの空間は、もはや博物館とは呼べない。見慣れた展示の形は歪み、構造の常識すら通じない。すでにここは、異界のふちだった。

 空間の歪曲は、進行に比例して激しさを増していく。
 天と地の境界は曖昧になり、壁の延長に床があるような錯覚を覚える。扉は軸を失って宙に浮かび、階段は空間のひだに呑まれて消えていた。

 通路だったはずの床がねじれ、あらゆる感覚が不確かになっていく。目を開けているのに、奥行きがない。歩くたび、重力が嘘をつく。

「気持ちわる……」

 レンが額を押さえ、低く呻いた。
 目に見える以上に、この空間には精神を蝕む魔素が充満している。五感すべてが騙されるような、奇妙な浮遊感。踏み出す一歩一歩が、自分のものではないかのようだ。

「気を抜かないで。すぐそこ……何かがある」

 先導していたカナメが、ぴたりと足を止めた。
 少女の瞳が、何かを捉えた瞬間だった。

 ──視界の奥。
 禍々しい魔素の渦の中心に、それは鎮座していた。

 朽ちた台座。その上に、一本の杖が立っている。
 黒曜石のように鈍く輝く宝石が先端に嵌め込まれ、心臓のように脈動していた。周囲の空間は触れることすら拒絶し、腐食の兆しを孕んで揺れている。

「……これだ。媒介となっている呪物だ」

 スメラギが、低く言った。
 その声音に、仮面はなかった。高校教師としての穏やかな顔は消え去り、そこにいたのは、百戦錬磨の退魔師。

 黒のローブが無風の中で揺れた。
 彼の身を包む魔素が、空気の密度を変える。空間そのものが静かに震えた。

 手をかざす。
 星のような輝きを宿すその瞳が、杖の核を真っ直ぐに見据えた——その瞬間。


「──無闇に触れないでくださらない? ワタクシの美しい呪いが、解けてしまいますもの」


 甘く、そして冷たい声が、宙を這った。

 それは女の声。
 丁寧な言葉遣いに滲むのは、皮肉と陶酔。そこには明確な“喜び”すら含まれていた。

 レンとカナメが、反射的に顔を上げる。

 中二階——アーチ状の踊り場。
 装飾柱の間に、三つの影が立っていた。

 漆黒の衣を纏った、異形の女たち。
 その容貌には妖艶さと狂気が同居していた。目が合っただけで脳が軋むような、異様な存在感。理性が叫ぶ。“あれは、人ではない”。

 魔素がかたちを持って歩いている。
 世界そのものが拒絶しているような、異物の顕現だった。

「……また、おまえたちか」

 スメラギが小さく呟いた。
 その声には、怒りとも呆れともつかぬ、深い感情が滲んでいる。

 右端に立つ女が、レースの日傘を傾け、優雅に微笑んだ。

「まぁ……覚えていてくださって嬉しいですわ。ねぇ、ティー姉様?」

「……ふん。忘れるほど軽くないだろう?」

 ティーと呼ばれたのは、中央に立つ少女だった。
 小さな外見に似つかわしくないその口ぶりはそっけなかったが、声には静かな威圧感があった。紅い瞳が、全てを射抜くように光っている。

 突然、左端の女が、獣のような咆哮を上げた。

「来たなセンセー!!! 今日こそ絶対、その目ん玉貰うからな!? そのスカしたツラ、ぐっっっちゃぐちゃにしてやっから!!」

 レンは思わず一歩、後退した。
 その隣でスメラギが、あからさまに嫌そうに顔を顰める。

「せ、先生っ……あいつら、なに?」

 恐怖がにじんだ問いに、スメラギは振り向かず答えた。

「……“アプダの魔女”だ」

 空気が、ひときわ冷えた。
 その名を聞いた瞬間、空間すら凍りついたように感じられた。

「あ、アプダの魔女って……次元を切り裂いて裂け目を作った……ワルプルギスの厄災!?」

 カナメが顔色を失って叫ぶ。

「そ、それって千年前の大戦……!?」

 二人の視線が、無言のままのスメラギに向けられた。
 その背には、怒りか、あるいは哀しみか。深く沈んだ黒い感情が宿っていた。

「異界に在りし、かつて精霊と呼ばれた存在。風・水・炎の理を司る三柱。
 だが、玉石王に堕とされ、その性質を反転された……悪しき魔女たち。
 長女、ティシフォネ。次女、メガイラ。そして三女、アレクトゥ。
 あの“ワルプルギスの夜”の裂け目は、彼女たちが引き金となった。
 学術都市が長らく封印を維持してきたのも、彼女らをこの地に呼び戻さぬためだった」

「でも……なんで、今ここに……?」

 レンの問いに、スメラギはただ視線を前に戻した。
 その沈黙がすべてを物語っていた。

 中二階の魔女たちが、いっそう笑みを深める。

「ふふふ……さすが愛しのセ・ン・セ・イ。説明も優雅で丁寧、優秀すぎて反吐が出ますわ」

 メガイラはゴスミリタリー風のスカートをくるりと翻し、手にした日傘をくるくると回して笑った。

「……その童たちはお前の新たな生贄か? スメラギ」

 ティシフォネが、黒曜を思わせる直髪を揺らしながら、冷たい紅い瞳でレンとカナメを見下ろす。
 その目はまるで、魂の奥底を覗き込んでいるようだった。

「へぇ……おまえ、きれーな目してんな」

 アレクトゥがレンを指差し、にやりと笑う。
 獣じみた口元からのぞく牙が、光を受けて鈍く光った。

「そのキラキラした目、いいなぁ? 希望しか知らない眼球、アタシのコレクションに加えたくなってきた!!なぁ姉様!!アレ!!アレが欲しい!!」

 駄々をこねる子供のように強請るアレクトゥに、ティシフォネは口元だけで笑い頷く。

 続けて、カナメを見てメガイラが笑みを深める。

「あらあら、懐かしい魔素……その子、ヒウラ・クウガの血族ではなくて? ふふっ、見た目はちっとも似ていませんこと」

「っ……」

 カナメが肩を震わせた。
 その名前に、身体が本能的に反応していた。

「ヒウラ・クウガの遠縁でしょう。あの老いぼれも、たいがいしつこかったですわ。ねぇ、姉様?」

「…………」

 ティシフォネは答えず、杖に視線を戻す。
 その横顔に、微かに過去の記憶が差すようだった。

「チッ、ヒウラのガキかよ! クソだりィ!!」

 アレクトゥが吠えた瞬間——空間が軋む。
 血のような魔素が、裂け目から噴き出した。

 封印の鎖が緩んだ。
 過去の災厄と英雄の血脈。
 交わってはならぬ因縁が、いま、ここに交差しようとしていた。
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