星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第五章 ワルプルギスの夜

45 悪意は、静かに牙を剥く

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 空間が裂けるような衝撃とともに、かつて美術品の静寂に包まれていた博物館の展示室は、今や完全なる戦場と化していた。

 交錯する魔素はすでに視覚の限界を超え、粒子というより濁流。あまりの密度に、空間そのものが引き裂かれ、重力さえも歪む。人の身でこの場に立つことすら、すでに異常だった。

 焦げた空気と鉄の匂いが立ちこめる中、沈黙が一瞬、その場を支配する。だが次の瞬間――

「……ふふっ、やりますわね」

 メガイラの艶やかな声が響いた。それは怒りではない。狩人が傷ついた獲物の喘ぎを見て快楽に打ち震える、陶酔の声音だった。

 だが、彼女たちは数の優位を誇っていたはずだ。にもかかわらず、戦況は拮抗し、均衡すら崩れない。ティシフォネの眉がわずかに動いた。無言の苛立ちが、その美貌に微かな影を差す。

「んあぁああッ!! 焦ったい!」

「待て、アレク──」

 ティシフォネの静止も聞かず、アレクトゥが咆哮と共に飛び出す。

 爆発的な魔素を纏い、野獣のごとき姿で爪を振りかざす。その殺意は凶暴で、まるで檻を破って暴れ出た獣のようだった。

 対するスメラギは、横合いから迫るメガイラの術を指先ひとつで逸らしつつ、背後の気配にも即座に反応していた。

 その動きは――風さえも追えなかった。

 一瞬、時間が止まったかのような交差の刹那。

「うわあぁあっ!!」

 アレクトゥの体が宙を舞い、鈍い音とともにティシフォネの足元へと叩きつけられた。

 砕ける魔素、断たれた術式の糸。転がる身体を庇うようにティシフォネが無言で手を差し出す。

「逸るなと言ったはずだよ、アレクトゥ」

「……ごめん、姉様」

 ティシフォネの声音は冷たい。だが、その瞳にほんのわずかに揺れる焦燥の色が滲んでいた。

 そして、スメラギは既に次の殺気を察知していた。

 ……だが、ほんの一瞬だけ、遅れた。

「ほほほっ! 上がガラ空きでしてよ!」

 メガイラが天井近くまで跳躍し、落下しながら重力を捻じ曲げるような魔素を解き放つ。

 空間が歪み、光が折れ、沈み込む――それはもはや魔術ではない。現象そのものを侵す、魔の侵蝕だった。

 スメラギは紙一重で身を翻す。

 コートが裂ける。頬をかすめた魔力に、皮膚が焼けただれるような熱が走る。

「一緒に踊ってくださらない? 死のワルツを……ねぇ? センセ」

「……あいにく、重たい女は嫌いでね」

 皮肉の一言。だが、その声音にはかつての余裕はなかった。呼吸は浅く、鋭く、確実に消耗していた。

「まぁ、ひどい……でも、それでこそ楽しいのですけれど」

 メガイラが愉悦の笑みを浮かべ、舞い戻る。相手の疲弊さえ、彼女にとっては興奮の燃料に過ぎなかった。

 ティシフォネが鋭い視線を向ける。

「……随分と息が上がってるじゃないか、先生」

 アレクトゥも嗤うように口を開く。

「んだよセンセー、歳かよ!!」

 ……だが、スメラギは応えなかった。

 いや――応えられなかった。

 その瞬間、心臓の奥で、焼けつくような痛みが走った。

 灼熱が全身を蝕み、膝がわずかに崩れる。足元を支えるのがやっとだった。

(……まずい。これは……)

 彼はすぐさま姿勢を立て直した。だが、三人の魔女の視線は既に、その異変を見逃していなかった。

 彼の魔素の流れが――明らかに、乱れていた。

 ———

 崩れたアーチの上。毒霧が薄く流れる静寂。

 その中に、ティシフォネがひとり佇んでいた。

 彼女の長髪が、不自然にふわりと揺れる。風はない。だが、何かが――見えざるものが、彼女の背を撫でていた。

「変わらないな、先生。本当に、あの時とおんなじ」

 その声は、哀しみを帯びた子守唄のようだった。

 静かに、やさしく、けれども容赦なく、心の深部を抉ってくる。

 スメラギは応じなかった。

 ただ、砕けた床の魔法陣跡を見つめていた。その文様は、今ではもう読めぬほどに破壊され、沈黙する傷跡と化していた。

(……幾年いくとせ過ぎても、俺は――)

 彼はそこに、自身の内面を重ねていた。

 癒えぬ裂け目。過去の亡霊。

「君がまだ“先生”じゃなかった頃。無垢で、無知で、それでも必死に、正しく在ろうとしていた頃――」

 ティシフォネは微笑みながら、崩れた石の上をゆっくりと踏みしめ、彼に近づいていく。

「変わらないなぁ、本当に。“彼”の元にいた頃から、なにひとつ」

 その一言が、スメラギの神経を鋭く貫いた。

 彼女は見ている。観察している。彼がどこまで耐えられるかを。

 そしてその瞳は、彼の琴線――その奥深くに潜む痛みの核を、正確に把握していた。

 全身に刃のような寒気が走り、心臓が跳ねる。

(挑発だ。乗るな……冷静に、意識を……)

 しかしその声は、彼の精神の防壁を易々とすり抜けてくる。

「君は今、無理しているな。――結界を張ってるのだろう? この館全体に。守るために」

「…………」

「だがその力、どこから出している? あの大社跡で、すでに無理をしていた。……自身の身を削って、健気なことだな?」

 彼の全てが、見透かされていた。

 この空間を維持する三重の高位結界。静止、保護、遮断――その全てを担う代償が、今まさに彼の身を蝕んでいた。

 スメラギは、静かに目を閉じた。
 あの大社跡での異変、そして今回の魔女襲来――
 すべては、最初から織り込まれていた運命の糸の一部だったのだと。
 ただの憶測にすぎなかったものが、胸の奥で、冷たい確信へと変わってゆく。
 なぜ“今”なのか。その問いにも、既に答えは見えていた。

ほんのわずかに、人の目では気が付かぬほどに焦燥を見せたスメラギの表情を、ティシフォネは見逃さなかった。
彼女の口撃は続く。ティシフォネの精神攻撃は仄暗い風となって容赦無く対象の傷を抉る。
……それが弱っているならば尚更だ。

「そこまでして、なぜ守る?……今もまだ“彼”の言葉を信じているのか?」

 遠く、失われた背中。触れられなかった手のひら。もう二度と届かない、誰かの声。

 視界が、揺れた。

(……やめろ。もう過去のことだ)

「一番愛した人に、裏切られても、なお?」

 その言葉が、すべての引き金となった。

「――それ以上、言葉を紡ぐな。魔女め」

 呻くような声。それはもはや、彼自身の声ではなかった。

 黒い闇が、スメラギの足元から溢れ出す。裾を揺らしながら、魔素は渦を巻く。

 それはただの魔力ではなかった。沈み込むような重さ、凍てつく冷気、底なしの色彩。

 彼の瞳が、変わる。

 星色を偽ったヘーゼルは、徐々に――血のような、深紅に染まっていく。

 それは「呪いの色」。

 かつて“彼”が選び抜き、創り上げた器の証。

 ティシフォネは囁く。

「やはり……それが、君の本質。完全なる“支配”の素質」

「黙れ」

 その一言で、空気が震えた。

 音もなく魔素が変質し、空間が再構成されていく。

「もう、話すことなど何もない」

 その声は、静かで、切実だった。

 言葉ひとつで、周囲の温度が下がっていく。冷気が流れ込み、空間すら凍りついてゆく。

「ただ、断つのみだ」

 空間が軋み、結界が悲鳴を上げる。

 それは滅びの予兆――否、それ自体が滅びそのものであった。

 ティシフォネは、最後に低く嗤った。

「……そうしてまた、お前は千の孤独に抱かれるのさ。永久に」

(……もう、いい。もう、うんざりだ)

 スメラギの瞳は、もはや“人のもの”ではなかった。

 その声は誰のものだったのか。

 彼自身か、それとも、かつての亡霊か。

 境界が、揺らいでゆく――意識が、白く、褪せていく。

 その時だった。
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