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第五章 ワルプルギスの夜
46 一番優しい、痛み
しおりを挟む――「先生から離れろ!!」
鋭く、若い声が迷宮の空気を裂くように響いた。
その声と共に、揺るがぬ足取りで駆け入ってくる少年の姿があった。
まるで光の奔流そのもの――空気の淀みすら焼き切るような、強く清らかな魔素を纏って。
イシミネだった。
その姿を見て、スメラギは目を見開く。
声にならない想いが、ただその眼差しに宿った。
――なぜお前がここにいる。来るな。ここは、お前が来ていい場所じゃない。
けれど、レンの心に、迷いはなかった。
彼の魔素は、既に“戦う”色をしていた。
恐怖ではなく――確かな決意と、焦燥と、強い祈りが滲んでいた。
風が止んだ。
あらゆる気配が、少年の鼓動のみに吸い寄せられていく。
その場に響くのは、レンの足音だけ。
足音が、一歩ごとに空間を塗り替えていく。
レンは――何も考えていなかった。
ただ、どうしようもなく、守りたかった。
ぐらついた、あの背中。
倒れてしまいそうなその姿に、胸の奥を鋭く引き裂かれるような焦りが走った。
ただ、それだけだった。
そのとき。
「可愛い坊や!」
禍々しい毒色の魔素が、花弁のように空間に舞った。
華やかな狂気を乗せた声が空間を踊る。
現れたのは、艶やかに笑う女――メガイラ。
「戻ってくれたのね!?嬉しいわ!!さあ、踊りましょう? 痛みと一緒に、命を踏み鳴らして!」
手にした日傘をくるりと一振りするだけで、空間が反転した。
足元の重力が崩れ、天地が裏返る。
レンの身体が浮き、視界が狂う。
「くっ……!」
横転しかけた身体を、レンはぎりぎりで踏ん張った。
恐怖に喉が焼ける。けれど、足は止まらない。
「イシミネ――ッッ!!」
呻くような悲鳴と共に、スメラギが手を翳す。
レンを護るため、光の防壁を張ろうとしたその瞬間――
「……ッ……!」
くぐもった呻きが、静かに響いた。
レンが振り返ると、そこには――
膝をつき、胸元を押さえて苦しげに喘ぐスメラギの姿があった。
彼の魔素が、乱れていた。
燃え殻のように明滅し、張り詰めていたはずの気配が軋みを上げていた。
片手で体を支えていなければ倒れてしまいそうな、極限の消耗。
その刹那。
「――見えた」
酷薄な声が、闇の奥から滑り出た。
ティシフォネが、少女のあどけなさを残したその顔を歪めて笑っていた。
「スメラギ・ミナト。……今のお前の“弱点”、はっきりとな。やはり変わらぬな、貴様はどこまでも、愚かなままだ!!」
影が、伸びた。
黒い蛇のような触手が、粘液を滴らせながら床を這う。
その先端が開き、無数の毒刃が咲き乱れる――
血と呪いに濡れた花のように、鋭く、冷たく。
それは、真っ直ぐに、レンへと襲いかかった。
「――っ!」
咄嗟にレンは身をかがめた。
だが、全てを避けきるには遅かった。
――その瞬間だった。
ふ、と。
鼻腔に、甘やかで清らかな香りが満ちる。
遠い山間の草花の香り。あるいは、朝露に濡れた薬草の香り。
爽やかでどこか懐かしい、春の匂い。
(……この匂い……)
柔らかなぬくもりが、唐突に身体を包んだ。
強く、優しく――誰かの腕が、レンの身体を引き寄せていた。
見上げた瞳に映ったのは、
青みを帯びた艶やかな黒髪、深い黒の衣装――
いつもは冷たいその目が、今は――
おそろしく、優しかった。
「せん……せい……?」
その言葉を紡ぐよりも早く。
ティシフォネの触手が、刃となって――
すべて、スメラギの背に突き刺さっていった。
鈍い音が、鳴る。
肉を裂き、骨に食い込み、魔素を穿つ音だった。
衣が裂け、淡い蒼光が血飛沫と共にほとばしる。
レンの胸元が熱く、濡れた。――血だ。
「っ……、う、……」
苦痛の中で、微かに漏れた声と、息を飲み込む音。
だがそれ以外、何も聞こえなかった。
レンの目の前で、スメラギは立っていた。
刃に貫かれ、崩れ落ちそうな身体を引き絞り――
レンを、ただ抱きしめていた。
呻きも、痛みの叫びも、なかった。
彼は、あくまで静かに。
その背中に無数の刃を受けたまま、レンを包み込んでいた。
「……せ、せんせ……なんでっ……」
レンの声が、震えた。
喉の奥が、灼けつくように熱い。
目の前の現実が、心を、引き裂くように痛い。
だが――
スメラギは、何も言わなかった。
ただ、その凍てつく魔素が、
レンに触れた瞬間だけは。
まるで春の植物園のように、
命の香りを、たしかに湛えていた。
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