星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第六章 回り始めた歯車

54 日常の、終わり

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  重たい沈黙が、研究室の空気を支配していた。

 瓶の中で揺れる薬液の淡い光が、壁に反射し、古書の背表紙にいくつもの影を落とす。
 書架に収められた無数の書物は、誰にも読まれることなく、静かに時の重みを纏っていた。
 その狭間を縫うように、微細な魔素の粒子がゆらめく。
 まるで、得体の知れない“変化”を感じ取ってざわめく、目に見えぬ風のようだった。

 レンの鼓動だけが、自身の内側で異様に大きく鳴り響いていた。
 身体の輪郭が遠のいていくような感覚。音も色も境界を失い、世界がじわじわと滲んでいく。
 スメラギは、依然として口を閉ざしたまま。その視線は、なおも自分から逸れたままだった。
 それが、かえって胸を締めつける。
 言葉がほしかったわけじゃない。ただ、目を合わせてくれるだけで――それだけでよかったのに。

 その張り詰めた空気を破ったのは、あまりにも無遠慮な、硬質なノック音だった。

「失礼いたします、スメラギ教授。学術機関より、命令書をお持ちしました」

 感情の起伏を一切感じさせない、機械のように無機質な声。
 レンの背筋が、反射的に跳ね上がる。隣にいたカナメも、小さく喉を鳴らした。
 空気が変わった。――誰もが、それを感じ取っていた。

 スメラギは眉をひそめ、無言のまま椅子を引いた。
 静かに立ち上がるその仕草には、確かな重みがあった。
 それは単に深手を庇う動作というだけではない。
 ――迫りくる“現実”に対する、わずかな抵抗。あるいは、逃れ得ぬ予感のようなものだった。

 扉の向こうに立っていたのは、一人の使者。

 無表情な顔。両手には分厚い羊皮紙と、血のように赤い封蝋。
 黒衣の肩口には、イシュ・アルマ議会直属の紋章が金糸で刺繍されていた。

 それが何を意味するのか――説明など不要だった。

「イシミネ・レン殿。星剣の顕現をもって、貴殿は正式に“観察対象・第一級”に指定されました。
 観測管理局は、即時の保護および記録処置を命じられております。
 当局の施設へ、速やかに同行していただきます」

 レンの世界が、止まった。

「……レンを?」

 沈黙を破ったスメラギの声には、もはや平静がなかった。
 にじみ出る苛立ち。押し殺した怒り。その奥に、これまで誰にも見せたことのない焦燥が滲んでいた。

 彼はレンを見る。
 不安と混乱に揺れるその瞳を――決して、見逃さなかった。

「こちらを早急にご確認ください」

 使者は封書を差し出す。無表情のまま、それ以上の言葉はない。
 スメラギは沈黙のままそれを受け取り、封蝋を割った。

 赤い封が割れる、乾いた音。やけに大きく響いた。

 羊皮紙を広げる彼の指先には、わずかに震えがあった。
 読み進めるほどに、その目の奥に――静かなる怒気が宿っていく。

 

——

顕現反応、エリアα-5にて確認。該当個体:17歳、退魔師候補生……イシミネ・レン

対象は“異常存在”。理由:未登録神器の顕現。脅威判定……S

——



「……動くのが、早すぎる」

 その呟きは低く、苦味を含んでいた。
 苛立ちだけではない。言葉の底には、かすかな“恐れ”が潜んでいた。

 レンの胸に、冷たいものがじわじわと広がっていく。

「……俺、どこに連れていかれるの……?」

 搾り出すような声は、自分でもわかるほど震えていた。
 息がうまく吸えない。手先が冷える。時間の感覚が、崩れていく。

 それは、もはや“疑問”ではなかった。

 この研究室で過ごしたささやかな時間も、交わした笑顔も――
 それらは、たった今、“過去”になった。

 今、確かに告げられたのは――
 日常の終わりだった。

 世界が変わる音を、レンは――確かに、聞いた気がした。



 ――




 世界の理(ことわり)が、わずかに軋んだ。

 地の底すら遥かに下――常識の層を突き抜けた先に広がる、世界の「裏面」。
 そこには空もなく、光もなく、概念すら凍結した沈黙の底があった。

 名もなき場所、語られることのない“根源の淵”に、四つの影が集っていた。

 四人の老いた者たち。
 いずれも、風前の灯火のように朧でありながら、その存在感は圧倒的だった。
 一息で王国を焼き払うに足る、呪威。
 その場にあるだけで、命が削られるような圧が満ちていた。

「……星剣が、顕現なされたようですな。幾星霜ぶりの、目覚め……」

 左座の翁が口を開く。しゃがれた声に、喜悦と狂気が滲む。
 銀の仮面の奥、濁りきった瞳に異様な光が宿っていた。

「……魂底呪縛の維持が、困難となりましょうな。想定より、早すぎる。……このままでは、封印が揺らぎかねませぬ」

 右座の翁が、数珠を撫でながら低く嘆いた。
 白濁した目は、既に現世を見ていない。
 それでも、その声には古の重みが宿っていた。

「好都合。有象無象を一掃するには、これ以上ない。
 あの剣を目覚めさせた子供ごと――始末すればよい」

 中央の姥が笑む。声は毒に満ち、紅を引いた顔に冷たい狂気が浮かぶ。
 身体を包む呪衣からは、淡く呪符の光が漏れていた。

「……ならば、楔をさらに深く。次なる段階へと進む時。
 この揺らぎを利用し、扉を“こちら側”からこじ開けるのです」

 最後に声を発したのは、背後に控える面布の姥。
 禁術と予言が記された帳面を握り、冷たい霧のような吐息を漏らしていた。
 焦燥、苛立ち、そして隠しきれない野心が、その声に滲んでいた。

 ざら……ざら……。

 どこからともなく、空間を引き裂くような音が響いた。

 その瞬間、場の中心が沈む。
 音もなく、空間が歪む。
 漆黒よりも濃い闇の靄の中から、“概念”そのもののような響きが漏れた。

【……まだ“時”ではない。今は、まだ、な】

 若くも老いもなく、男でも女でもない声だった。
 その一言が響いた瞬間、四人の影は即座に膝を折り、深く頭を垂れた。

 空間が、わずかに揺れる。

 ただそこに“在る”だけで、世界の摂理が狂う。
 それは“声”ではなく、“命令”ですらない。
 ――“王”の意志。それだけが、確かに存在していた。

「……御意に」

 四者が異口同音に応える。
 もはや、彼らに個としての意志はなかった。
 ただ、王の意図をなぞる歯車に過ぎない。

 沈黙が、世界の底を覆う。

 空気が沈むのではない。
 重力そのものが変容し、存在という概念すら軋んでいく。
 その歪みに呼応するように、深層の理がひとつ、目を覚ましかけていた。

 顕現した星剣。
 それは、ただの兆し。

 胎動は、すでに始まっていた。
 だが、すべては“序章”。

 ゆえに、王は動かない。

 ――“その時”が訪れるまでは。

【……待つがよい。あの者が、“最後の答え”に辿り着くまでは】

 闇がうねる。
 虚空の中心にひとつの“目”――巨大な意志が、確かに存在していた。

 物語は、動き始めている。

 そして――

 沈黙を破るのは、常に光とは限らない。

 闇もまた、目を覚ますのだ。
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