星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

文字の大きさ
66 / 109
第六章 回り始めた歯車

59 夕暮れシンフォニー

しおりを挟む

 夕暮れの風が、熱を帯びた頬にそっと触れた。火照った感情を冷ますように、優しく、心地よく。


 重苦しい沈黙と、圧のような威圧感に支配されていた異質な“試練”を終え、ようやく、陽の差す場所へと歩みを戻している。

 レンの肩には、まだ微かな緊張の色が残っていた。握りしめた拳に力が入り、背筋は過剰なほど真っ直ぐに伸びている。それは、心がまだ戦場に置き去りにされたままだという、何よりの証だった。

 隣を歩くスメラギは、そんな彼の横顔を静かに見つめていた。歩幅は自然とレンに合わせられ、ほんのわずかに後ろを歩くその姿は、まるで何かから庇うようにも見える。

 沈黙を破ったのは、レンのほうだった。

 「ミナトさん……怪我、大丈夫?」

 その声はか細く、それでも真っ直ぐだった。迷いも、飾りもない、ただ心からの問い。
 スメラギは思わず目を見開く。


 ——この子は、本当に。


 つい先ほどまで、自分のことで精一杯だったはずなのに。ふと我に返ったように差し向けられたその気遣いが、まっすぐにスメラギの胸へと届いた。

 スメラギは立ち止まり、ふっと微笑む。
 冷ややかな仮面をほんの少し緩め、いつになく柔らかな表情を見せた。

 「……ああ、もう大丈夫だ。心配、させたな」

 その優しい一言に、レンの胸がきゅっと締めつけられる。

 (きっと大丈夫なはず、ないのに)

 ほんの数時間前、今朝方まで昏睡していた身体で無理に立ち上がり、あの異様な空間で自分を庇った。その負荷は、言葉の端々から滲み出ていた。無理をしていると分かっていて、それでも「大丈夫」と言い切るのは——自分を案じてのこと。それが痛いほど伝わってくる。
 でも、それ以上に彼を包み込む術を、今のレンは知らない。

 ふたりの間に、また静けさが落ちた。
 夕暮れに染まる石畳を刻む、二人分の靴音だけが静かに響いていく。

 やがて、スメラギが口を開いた。

 「レン……あの場所は、お前にとって決して“易しい”場ではない。彼らはただの監視者ではない。……お前の価値を見極める、“計測者”だ」

 その声には、慎重な警告と、押し殺した憂いが滲んでいた。

 レンはわずかに俯いたが、その瞳には揺るぎのない光が宿っていた。

 「……わかってる。でも……逃げたくないんだ」

 震える声。それでも、言葉を止めずに続ける。

 「星剣のことも、魔素も……まだ全然使いこなせてない。自信なんて、ほんとはない。でも……先生が——ミナトさんが見ててくれるなら……俺……」

 言いかけた言葉は、夕風にさらわれた。
 このまま口にすれば、とんでもないことを言ってしまいそうで、思わず唇を閉ざした。

 けれど、その想いは言葉にならずとも、確かに伝わった。スメラギの瞳がふっと細められ、わずかにその表情が緩む。淡い微笑みが、その証だった。

 だが——その目の奥にある陰りは、晴れなかった。

 それは、かつて守りきれなかった何かを背負う者だけが宿す、静かな悔恨と、未来への恐れ。

 「……俺も、レンを信じている。だからこそ、言っておく」

 空を仰ぐようにして、スメラギは続けた。

 「この世界は甘くない。お前の星剣の力を、その“価値”を……欲しがる者はこれからいくらでも現れる。表の顔をした者も、裏に潜む者も。皆、お前を試し、利用しようとするだろう。だから俺は——レンを、守る」

 その言葉には、揺るぎない誓いが込められていた。

 けれど、次の言葉には、微かな震えが混じっていた。

 「でももし……お前が、この世界に関わったことを後悔する日が来たら。恐ろしくなって、逃げたくなったなら——」

 レンが、はっと顔を上げた。

 だがスメラギはそれを見ず、ただまっすぐ前を見据えたまま、静かに言葉を紡いだ。

 「そのときは、俺が全力で手を尽くす。何者であろうと、レンの“意志”を脅かすものがあれば……この命に代えても、守る。……それが、俺の役目だから」

 その声音は、限りなく優しく、そしてどこか、諦めに似た静けさを纏っていた。

 レンは思わず足を止めた。彼の横顔を見つめながら、胸に溢れる想いを抑えきれず、名を呼ぶ。

 「ミナトさん……」

 その声に込められていたのは、言葉にならない問いだった。



 ——どうして、そんなに辛そうな顔をするの?

 ——どうして、そんなふうに自分を削ってまで、誰かを守ろうとするの?



 だが、スメラギは答えなかった。ただ、ひとつ息を吐き、柔らかく微笑んだ。

 その笑みは、穏やかな湖面のように静かで、深く、優しかった。
 けれどその奥に広がる孤独は、どこまでも届かない場所にあった。

 この人は、誰にも言えない痛みを抱えたまま、誰にも頼らず、何も求めず、それでもなお“守る”ためだけに立っている。

 レンの胸に、切なくも強い想いが芽生える。


 (俺が——貴方の“痛み”ごと、抱きしめてあげられたらいいのに)


 けれどそれを言葉にするには、今の自分はまだ未熟で、あまりに無力だった。

 ふたりの足音が、再び静かに道を刻み始める。
 夕暮れの光が、長くふたりの影を引き延ばしていく。


 隣り合う肩は、指先が触れそうなほど近くて。
 けれど、まだ——遠い距離。


 やがて、ふたりの影だけが、まるで手を取り合うように、夕陽の中でひとつに滲んでいた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

嫁がされたと思ったら放置されたので、好きに暮らします。だから今さら構わないでください、辺境伯さま

中洲める
BL
錬金術をこよなく愛する転生者アッシュ・クロイツ。 両親の死をきっかけにクロイツ男爵領を乗っ取った叔父は、正統な後継者の僕を邪魔に思い取引相手の辺境伯へ婚約者として押し付けた。 故郷を追い出された僕が向かった先辺境グラフィカ領は、なんと薬草の楽園!!! 様々な種類の薬草が植えられた広い畑に、たくさんの未知の素材! 僕の錬金術師スイッチが入りテンションMAX! ワクワクした気持ちで屋敷に向かうと初対面を果たした辺境伯婚約者オリバーは、「忙しいから君に構ってる暇はない。好きにしろ」と、顔も上げずに冷たく言い放つ。 うむ、好きにしていいなら好きにさせて貰おうじゃないか! 僕は屋敷を飛び出し、素材豊富なこの土地で大好きな錬金術の腕を思い切り奮う。 そうしてニ年後。 領地でいい薬を作ると評判の錬金術師となった僕と辺境伯オリバーは再び対面する。 え? 辺境伯様、僕に惚れたの? 今更でしょ。 関係ここからやり直し?できる? Rには*ついてます。 後半に色々あるので注意事項がある時は前書きに入れておきます。 ムーンライトにも同時投稿中

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!

野原 耳子
BL
★執着溺愛系イケメン俳優α×平凡なカメラマンΩ 平凡なオメガである保(たもつ)は、ある日テレビで見たイケメン俳優が自分の『運命』だと気付くが、 どうせ結ばれない恋だと思って、速攻で諦めることにする。 数年後、テレビカメラマンとなった保は、生放送番組で運命である藍人(あいと)と初めて出会う。 きっと自分の存在に気付くことはないだろうと思っていたのに、 生放送中、藍人はカメラ越しに保を見据えて、こう言い放つ。 「やっと見つけた。もう絶対に逃がさない」 それから藍人は、混乱する保を囲い込もうと色々と動き始めて――

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

望まれなかった代役婚ですが、投資で村を救っていたら旦那様に溺愛されました。

ivy
BL
⭐︎毎朝更新⭐︎ 兄の身代わりで望まれぬ結婚を押しつけられたライネル。 冷たく「帰れ」と言われても、帰る家なんてない! 仕方なく寂れた村をもらい受け、前世の記憶を活かして“投資”で村おこしに挑戦することに。 宝石をぽりぽり食べるマスコット少年や、クセの強い職人たちに囲まれて、にぎやかな日々が始まる。 一方、彼を追い出したはずの旦那様は、いつの間にかライネルのがんばりに心を奪われていき──? 「村おこしと恋愛、どっちも想定外!?」 コミカルだけど甘い、投資×BLラブコメディ。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

その捕虜は牢屋から離れたくない

さいはて旅行社
BL
敵国の牢獄看守や軍人たちが大好きなのは、鍛え上げられた筋肉だった。 というわけで、剣や体術の訓練なんか大嫌いな魔導士で細身の主人公は、同僚の脳筋騎士たちとは違い、敵国の捕虜となっても平穏無事な牢屋生活を満喫するのであった。

異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!

めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈ 社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。 もらった能力は“全言語理解”と“回復力”! ……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈ キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん! 出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。 最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈ 攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉ -------------------- ※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!

処理中です...