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第六章 回り始めた歯車
59 夕暮れシンフォニー
しおりを挟む夕暮れの風が、熱を帯びた頬にそっと触れた。火照った感情を冷ますように、優しく、心地よく。
重苦しい沈黙と、圧のような威圧感に支配されていた異質な“試練”を終え、ようやく、陽の差す場所へと歩みを戻している。
レンの肩には、まだ微かな緊張の色が残っていた。握りしめた拳に力が入り、背筋は過剰なほど真っ直ぐに伸びている。それは、心がまだ戦場に置き去りにされたままだという、何よりの証だった。
隣を歩くスメラギは、そんな彼の横顔を静かに見つめていた。歩幅は自然とレンに合わせられ、ほんのわずかに後ろを歩くその姿は、まるで何かから庇うようにも見える。
沈黙を破ったのは、レンのほうだった。
「ミナトさん……怪我、大丈夫?」
その声はか細く、それでも真っ直ぐだった。迷いも、飾りもない、ただ心からの問い。
スメラギは思わず目を見開く。
——この子は、本当に。
つい先ほどまで、自分のことで精一杯だったはずなのに。ふと我に返ったように差し向けられたその気遣いが、まっすぐにスメラギの胸へと届いた。
スメラギは立ち止まり、ふっと微笑む。
冷ややかな仮面をほんの少し緩め、いつになく柔らかな表情を見せた。
「……ああ、もう大丈夫だ。心配、させたな」
その優しい一言に、レンの胸がきゅっと締めつけられる。
(きっと大丈夫なはず、ないのに)
ほんの数時間前、今朝方まで昏睡していた身体で無理に立ち上がり、あの異様な空間で自分を庇った。その負荷は、言葉の端々から滲み出ていた。無理をしていると分かっていて、それでも「大丈夫」と言い切るのは——自分を案じてのこと。それが痛いほど伝わってくる。
でも、それ以上に彼を包み込む術を、今のレンは知らない。
ふたりの間に、また静けさが落ちた。
夕暮れに染まる石畳を刻む、二人分の靴音だけが静かに響いていく。
やがて、スメラギが口を開いた。
「レン……あの場所は、お前にとって決して“易しい”場ではない。彼らはただの監視者ではない。……お前の価値を見極める、“計測者”だ」
その声には、慎重な警告と、押し殺した憂いが滲んでいた。
レンはわずかに俯いたが、その瞳には揺るぎのない光が宿っていた。
「……わかってる。でも……逃げたくないんだ」
震える声。それでも、言葉を止めずに続ける。
「星剣のことも、魔素も……まだ全然使いこなせてない。自信なんて、ほんとはない。でも……先生が——ミナトさんが見ててくれるなら……俺……」
言いかけた言葉は、夕風にさらわれた。
このまま口にすれば、とんでもないことを言ってしまいそうで、思わず唇を閉ざした。
けれど、その想いは言葉にならずとも、確かに伝わった。スメラギの瞳がふっと細められ、わずかにその表情が緩む。淡い微笑みが、その証だった。
だが——その目の奥にある陰りは、晴れなかった。
それは、かつて守りきれなかった何かを背負う者だけが宿す、静かな悔恨と、未来への恐れ。
「……俺も、レンを信じている。だからこそ、言っておく」
空を仰ぐようにして、スメラギは続けた。
「この世界は甘くない。お前の星剣の力を、その“価値”を……欲しがる者はこれからいくらでも現れる。表の顔をした者も、裏に潜む者も。皆、お前を試し、利用しようとするだろう。だから俺は——レンを、守る」
その言葉には、揺るぎない誓いが込められていた。
けれど、次の言葉には、微かな震えが混じっていた。
「でももし……お前が、この世界に関わったことを後悔する日が来たら。恐ろしくなって、逃げたくなったなら——」
レンが、はっと顔を上げた。
だがスメラギはそれを見ず、ただまっすぐ前を見据えたまま、静かに言葉を紡いだ。
「そのときは、俺が全力で手を尽くす。何者であろうと、レンの“意志”を脅かすものがあれば……この命に代えても、守る。……それが、俺の役目だから」
その声音は、限りなく優しく、そしてどこか、諦めに似た静けさを纏っていた。
レンは思わず足を止めた。彼の横顔を見つめながら、胸に溢れる想いを抑えきれず、名を呼ぶ。
「ミナトさん……」
その声に込められていたのは、言葉にならない問いだった。
——どうして、そんなに辛そうな顔をするの?
——どうして、そんなふうに自分を削ってまで、誰かを守ろうとするの?
だが、スメラギは答えなかった。ただ、ひとつ息を吐き、柔らかく微笑んだ。
その笑みは、穏やかな湖面のように静かで、深く、優しかった。
けれどその奥に広がる孤独は、どこまでも届かない場所にあった。
この人は、誰にも言えない痛みを抱えたまま、誰にも頼らず、何も求めず、それでもなお“守る”ためだけに立っている。
レンの胸に、切なくも強い想いが芽生える。
(俺が——貴方の“痛み”ごと、抱きしめてあげられたらいいのに)
けれどそれを言葉にするには、今の自分はまだ未熟で、あまりに無力だった。
ふたりの足音が、再び静かに道を刻み始める。
夕暮れの光が、長くふたりの影を引き延ばしていく。
隣り合う肩は、指先が触れそうなほど近くて。
けれど、まだ——遠い距離。
やがて、ふたりの影だけが、まるで手を取り合うように、夕陽の中でひとつに滲んでいた。
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