星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

文字の大きさ
68 / 109
第七章 黎明の時、嵐の前の

60 夜明け前、憎悪の影

しおりを挟む
 かつては貴族の館だったのだろう。
 だが今、その栄華の記憶は、ひび割れた大理石と煤けた天井、沈黙した壁に染みついた怨嗟の残響へと成り果てていた。

 砕けたステンドグラスの隙間を、冷たい風が吹き抜ける。
 湿った腐臭が空気に滲み、古い血の記憶を、まるでささやくように這わせていく。

 大広間。
 今も名残をとどめる美しい装飾が、どこか痛々しく過去を引きずっている。
 かつて祝宴と歓声に彩られたその場所は、今や怨嗟の巣窟――血と呪詛の交差点だった。

 天井の亀裂から差し込む赤黒い夕光が、蝋燭の炎と交じり合う。
 淡く揺れる光と影が、床に伸びた三つの影を、獣のように歪ませていた。

 ギィ……。

 古びた扉が軋む音を立て、闇に裂け目を穿つ。

「──っ、はぁ……っ、くっ……」

 ティシフォネが戻ってきた。
 敗北と、血に塗れた沈黙を身にまとって。

 その体は斬撃に晒され、白い肌には幾重もの紅が走っていた。
 千切れた衣装は、もはや装いとは呼べず、ただ戦場の証を物語る布切れにすぎなかった。

 彼女の両腕には、妹たち――メガイラとアレクトゥが、崩れかけた像を支えるように寄り添っていた。

「姉様……!」
「……もう少しで、殺れたのに……!」

 ティシフォネは返す言葉もなく、玉座めいた椅子に身体を投げ出す。
 蝋燭の灯火が、その顔に浮かぶ苦痛と焦燥、そして……氷のような呪詛の影を照らしていた。

「……星剣が、完全に“顕現”したのか」

 かすれた声。
 それは、敗北の痛みだけではない。
 光に焼かれた存在の芯から漏れ出す、根深い怒りだった。

「ええ……。あれは、“起源”を帯びていた。……あんな坊やが、どうして……!」

 メガイラの声は震えていた。
 拳を握るその手は、爪が自らの掌に食い込むほど力を込めている。
 瞳の奥には、怒りと恐れ、そして……焼き尽くせぬ嫉妬が燃えさかっていた。

「……ッ、悔しいっ……!!」

 アレクトゥの叫びが空気を裂く。
 その声は、もはや少女のものではない。
 魔そのもの、呪いが形をとったような、凍てついた狂気の声。

 拳が床に叩きつけられ、古びたタイルが粉砕される。
 積もった埃が舞い、空気に漂う憎しみの粒子と溶け合った。

「憎い……ッ! せんせーも、あのガキも、光も……ぜんぶ、ぜんぶ焼き尽くしてやる……!!」

 その言葉に、ティシフォネは静かに目を伏せ、手を上げて制した。

 彼女の瞳は、もはや火ではない。
 それは仄暗い水底、感情すら凍りついた、なお燃え続ける果てしない憎悪だった。

「……お前たちの憤り、よくわかる。我も、同じだ。
 肉を裂かれ、誇りを踏みにじられた屈辱。あの忌まわしい光に、存在を嘲られた痛み……」

 ティシフォネの声は、まるでひとつひとつの言葉に毒を溶かすように、低く、静かに降りていく。

「……それらすべて、骨に刻まれている」

「なら、なぜ……っ!」

「だからこそ、急ぐな。怒りに任せて動けば、あの光に再び打ち砕かれるだけだ。
 今は牙を研げ。喉奥で怒りを熱し、刃に変えろ。
 ……これは、終わりではない。むしろ“狩り”の始まりだ」

 ティシフォネの指が、壁に貼られた古地図へと伸びる。
 その指先は、少女のように繊細でありながら、瞬間、老婆のようにねじれ、黒ずんだ。

 地図には、呪詛と血で編まれた遺跡の記憶が、焼き付けられている。
 三魔女が世界に刻んできた、忌まわしき“軌跡”だった。

「星剣が顕現した今、奴らを引きずり込む術は、まだある。
 “禁呪《ヴァルシュテイル》”の核は、死んでいない。あの地なら……我らの怒りは、確かなかたちを取る」

「“原初”の地……!」

 アレクトゥが嗤う。
 唇から滲んだ血が、笑みに滲み、滴り落ちる。

 その声音は、もはや人の域を越えていた。

「ふふ……いいねぇ。今度は、嬲り殺して、全部アタシのコレクションにしてやる。
 あの光もろとも、絶望に叩き込んでやる……」

「ええ、姉様。今度こそ……屈辱も、痛みも、すべて取り返す」

「そうだ、メグ。……“あの方”の意志に応えるためにも」

 その名を語ることすら憚られる、“何か”。
 闇の支配者、蠢く影。
 三姉妹すら頭を垂れる存在が、この館のさらに奥――
 世界の理の裏側に、静かに息づいている。

 ──ぼうっ……。

 蝋燭の炎が、一瞬、怯えるように震えた。

 そして三人は、地図の前で静かに立ち上がる。
 その視線は、決戦の地――すべての始まりと終わりへと向けられていた。

 そこにあるのは赦しではない。
 和解でも、再生でもない。

 あるのは、ただ一つ。
 滅びをもたらす、女たちの呪い。

 それはやがて、世界の光に影を落とすだろう。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

嫁がされたと思ったら放置されたので、好きに暮らします。だから今さら構わないでください、辺境伯さま

中洲める
BL
錬金術をこよなく愛する転生者アッシュ・クロイツ。 両親の死をきっかけにクロイツ男爵領を乗っ取った叔父は、正統な後継者の僕を邪魔に思い取引相手の辺境伯へ婚約者として押し付けた。 故郷を追い出された僕が向かった先辺境グラフィカ領は、なんと薬草の楽園!!! 様々な種類の薬草が植えられた広い畑に、たくさんの未知の素材! 僕の錬金術師スイッチが入りテンションMAX! ワクワクした気持ちで屋敷に向かうと初対面を果たした辺境伯婚約者オリバーは、「忙しいから君に構ってる暇はない。好きにしろ」と、顔も上げずに冷たく言い放つ。 うむ、好きにしていいなら好きにさせて貰おうじゃないか! 僕は屋敷を飛び出し、素材豊富なこの土地で大好きな錬金術の腕を思い切り奮う。 そうしてニ年後。 領地でいい薬を作ると評判の錬金術師となった僕と辺境伯オリバーは再び対面する。 え? 辺境伯様、僕に惚れたの? 今更でしょ。 関係ここからやり直し?できる? Rには*ついてます。 後半に色々あるので注意事項がある時は前書きに入れておきます。 ムーンライトにも同時投稿中

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!

野原 耳子
BL
★執着溺愛系イケメン俳優α×平凡なカメラマンΩ 平凡なオメガである保(たもつ)は、ある日テレビで見たイケメン俳優が自分の『運命』だと気付くが、 どうせ結ばれない恋だと思って、速攻で諦めることにする。 数年後、テレビカメラマンとなった保は、生放送番組で運命である藍人(あいと)と初めて出会う。 きっと自分の存在に気付くことはないだろうと思っていたのに、 生放送中、藍人はカメラ越しに保を見据えて、こう言い放つ。 「やっと見つけた。もう絶対に逃がさない」 それから藍人は、混乱する保を囲い込もうと色々と動き始めて――

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

望まれなかった代役婚ですが、投資で村を救っていたら旦那様に溺愛されました。

ivy
BL
⭐︎毎朝更新⭐︎ 兄の身代わりで望まれぬ結婚を押しつけられたライネル。 冷たく「帰れ」と言われても、帰る家なんてない! 仕方なく寂れた村をもらい受け、前世の記憶を活かして“投資”で村おこしに挑戦することに。 宝石をぽりぽり食べるマスコット少年や、クセの強い職人たちに囲まれて、にぎやかな日々が始まる。 一方、彼を追い出したはずの旦那様は、いつの間にかライネルのがんばりに心を奪われていき──? 「村おこしと恋愛、どっちも想定外!?」 コミカルだけど甘い、投資×BLラブコメディ。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

その捕虜は牢屋から離れたくない

さいはて旅行社
BL
敵国の牢獄看守や軍人たちが大好きなのは、鍛え上げられた筋肉だった。 というわけで、剣や体術の訓練なんか大嫌いな魔導士で細身の主人公は、同僚の脳筋騎士たちとは違い、敵国の捕虜となっても平穏無事な牢屋生活を満喫するのであった。

異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!

めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈ 社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。 もらった能力は“全言語理解”と“回復力”! ……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈ キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん! 出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。 最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈ 攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉ -------------------- ※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!

処理中です...