69 / 109
第七章 黎明の時、嵐の前の
61 いつか、帰る場所
しおりを挟む祖父の家は、町はずれの小さな丘の上にあった。
道の両脇には、夏草が風に揺れ、どこか懐かしい匂いがする。石垣に囲まれた木造の平屋は、瓦屋根が傾きかけながらもまだ健在で、夕焼けの光を受けて、静かに赤く染まっていた。
イシミネ・レンは、玄関の前で足を止めた。
草履の音が止むと、あたりの静寂が肌に染み入るようだった。カエルの声と、どこか遠くで聞こえる風鈴の音。小さな畑の向こうには、昔と変わらぬ風景が広がっている。
レンは深く息を吸い込む。胸の内に重く沈むのは、不器用ながらも必死に育ててくれた祖父への連絡を疎かにしていたことだけでは、きっとない。
──今日を境にこの家を“出る”のだという、確かな実感。
「……じいちゃん、ただいま」
引き戸を開けると、土間の奥から「おう」と短く返事が返ってきた。変わらない声。変わらない空気。
祖父は居間の片隅で、ちゃぶ台に向かって腰を下ろしていた。作業着の袖をまくり上げた腕には、土がうっすら残っている。どうやら、今日も畑を見ていたらしい。
道着を脱いだ祖父の肩は、何だか小さく見えた。
「お茶、いれるね」
「……ああ。好きにしろ」
台所に立つと、懐かしい鍋や湯呑が目に入る。どれも昔のまま。手になじむ取っ手の感触さえ、変わっていない。
湯を沸かしながら、レンは何度も言葉を反芻した。
──何を伝えるべきか。どこまで話していいのか。
けれど、祖父はきっと……もうすべて分かっている。
茶を入れて縁側へ向かうと、祖父は先に腰を下ろして、庭の方を見ていた。レンもその隣に座る。
二人並んで見る景色は、橙に染まってどこまでも静かだ。
山の稜線を縁取るように、夕陽がゆっくりと沈んでいく。
「……寮生活は、どうだ」
「……うん。それなりにやってるよ」
しばらくの沈黙。祖父は湯呑を口元に運びながら、何も言わないまま、ただレンの隣に居てくれていた。
やがて、レンはそっと口を開いた。
「……俺、しばらく……帰ってこれないかもしれない」
「……ああ。そうか」
祖父はそれ以上、何も言わなかった。問い返しもせず、声を荒げることもなく。
ただ、その一言にはすべてが含まれていた。分かっている、と。
レンは封書に触れながら、目を伏せる。
「……言えないこと、たくさんある。でも、これは……俺にとって、大事なことなんだ。大切な人と……背負わなきゃいけないものが、できた」
風が吹いた。縁側の竹垣を、カサリと優しく鳴らす。
祖父は湯呑を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……あの先生か」
「──えっ!?なんで……?」
思わずレンは振り返る。祖父の横顔は、変わらず険しくて、けれどどこか笑っているようでもあった。
「何年お前の爺さんやっとると思っとる」
その声には、淡い笑みの響きがあった。
レンはしばし、言葉を失う。
「昔からおまえは、人の気持ちに敏いくせに、自分のことはよう話さんかった。……だが、いまのおまえは、“誰かのために何かを選んだ”顔をしてる。……なら、行ってこい」
祖父の声は変わらず低く、落ち着いていた。けれどその言葉には、確かな信頼が込められていた。
レンの喉の奥が詰まり、熱くなる。
──反対されると思っていた。心配されて、無理にでも止められると。
なのに、祖父はただ静かに、背中を押してくれた。
「おまえが帰ってこられる場所は、ここにある。畑は俺が耕すが……飯はおまえが作らんと、マズいまんまだ」
その言葉に、レンはふっと笑った。涙が一筋、頬を伝った。
「……うん。帰る。絶対、帰ってくるよ。ちゃんと、自分の足で……誰かを守れるようになってから。絶対」
祖父はそれには何も言わなかった。
代わりに静かに立ち上がり、レンの頭をぐしゃぐしゃとかき乱す。
「……泣くな。背筋を伸ばして行け。男が一度決めた道やろうが」
「……泣いてないってば……!」
必死で笑いながらそう言い返したが、目の縁はまだ熱かった。
祖父は静かに家の奥へと引き返していく。その背中は、昔より少し小さくなった気がしたけれど……やっぱり、誰よりも大きく見えた。
しばらく縁側に座ったまま、レンは陽が沈むのを見送った。
空が藍に変わり、風が背中を押すように吹き抜けていく。
それは、祖父が代わりに贈った“見送りの風”。
言葉ではなく、沈黙の中に込められた、静かな愛情。
レンは立ち上がり、家の前で一度だけ、深く頭を下げた。
「……行ってきます、じいちゃん」
そして、彼は歩き出した。
──運命の、その隣へと。
0
あなたにおすすめの小説
嫁がされたと思ったら放置されたので、好きに暮らします。だから今さら構わないでください、辺境伯さま
中洲める
BL
錬金術をこよなく愛する転生者アッシュ・クロイツ。
両親の死をきっかけにクロイツ男爵領を乗っ取った叔父は、正統な後継者の僕を邪魔に思い取引相手の辺境伯へ婚約者として押し付けた。
故郷を追い出された僕が向かった先辺境グラフィカ領は、なんと薬草の楽園!!!
様々な種類の薬草が植えられた広い畑に、たくさんの未知の素材!
僕の錬金術師スイッチが入りテンションMAX!
ワクワクした気持ちで屋敷に向かうと初対面を果たした辺境伯婚約者オリバーは、「忙しいから君に構ってる暇はない。好きにしろ」と、顔も上げずに冷たく言い放つ。
うむ、好きにしていいなら好きにさせて貰おうじゃないか!
僕は屋敷を飛び出し、素材豊富なこの土地で大好きな錬金術の腕を思い切り奮う。
そうしてニ年後。
領地でいい薬を作ると評判の錬金術師となった僕と辺境伯オリバーは再び対面する。
え? 辺境伯様、僕に惚れたの? 今更でしょ。
関係ここからやり直し?できる?
Rには*ついてます。
後半に色々あるので注意事項がある時は前書きに入れておきます。
ムーンライトにも同時投稿中
魔王の息子を育てることになった俺の話
お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。
「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」
現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません?
魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL
BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。
BL大賞エントリー中です。
カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!
野原 耳子
BL
★執着溺愛系イケメン俳優α×平凡なカメラマンΩ
平凡なオメガである保(たもつ)は、ある日テレビで見たイケメン俳優が自分の『運命』だと気付くが、
どうせ結ばれない恋だと思って、速攻で諦めることにする。
数年後、テレビカメラマンとなった保は、生放送番組で運命である藍人(あいと)と初めて出会う。
きっと自分の存在に気付くことはないだろうと思っていたのに、
生放送中、藍人はカメラ越しに保を見据えて、こう言い放つ。
「やっと見つけた。もう絶対に逃がさない」
それから藍人は、混乱する保を囲い込もうと色々と動き始めて――
結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした
紫
BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。
実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。
オメガバースでオメガの立場が低い世界
こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです
強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です
主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です
倫理観もちょっと薄いです
というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります
※この主人公は受けです
望まれなかった代役婚ですが、投資で村を救っていたら旦那様に溺愛されました。
ivy
BL
⭐︎毎朝更新⭐︎
兄の身代わりで望まれぬ結婚を押しつけられたライネル。
冷たく「帰れ」と言われても、帰る家なんてない!
仕方なく寂れた村をもらい受け、前世の記憶を活かして“投資”で村おこしに挑戦することに。
宝石をぽりぽり食べるマスコット少年や、クセの強い職人たちに囲まれて、にぎやかな日々が始まる。
一方、彼を追い出したはずの旦那様は、いつの間にかライネルのがんばりに心を奪われていき──?
「村おこしと恋愛、どっちも想定外!?」
コミカルだけど甘い、投資×BLラブコメディ。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
その捕虜は牢屋から離れたくない
さいはて旅行社
BL
敵国の牢獄看守や軍人たちが大好きなのは、鍛え上げられた筋肉だった。
というわけで、剣や体術の訓練なんか大嫌いな魔導士で細身の主人公は、同僚の脳筋騎士たちとは違い、敵国の捕虜となっても平穏無事な牢屋生活を満喫するのであった。
異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!
めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
--------------------
※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる