星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第七章 黎明の時、嵐の前の

61 いつか、帰る場所

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 祖父の家は、町はずれの小さな丘の上にあった。

 道の両脇には、夏草が風に揺れ、どこか懐かしい匂いがする。石垣に囲まれた木造の平屋は、瓦屋根が傾きかけながらもまだ健在で、夕焼けの光を受けて、静かに赤く染まっていた。

 イシミネ・レンは、玄関の前で足を止めた。

 草履の音が止むと、あたりの静寂が肌に染み入るようだった。カエルの声と、どこか遠くで聞こえる風鈴の音。小さな畑の向こうには、昔と変わらぬ風景が広がっている。

 レンは深く息を吸い込む。胸の内に重く沈むのは、不器用ながらも必死に育ててくれた祖父への連絡を疎かにしていたことだけでは、きっとない。
 ──今日を境にこの家を“出る”のだという、確かな実感。

「……じいちゃん、ただいま」

 引き戸を開けると、土間の奥から「おう」と短く返事が返ってきた。変わらない声。変わらない空気。

 祖父は居間の片隅で、ちゃぶ台に向かって腰を下ろしていた。作業着の袖をまくり上げた腕には、土がうっすら残っている。どうやら、今日も畑を見ていたらしい。
 道着を脱いだ祖父の肩は、何だか小さく見えた。

「お茶、いれるね」

「……ああ。好きにしろ」

 台所に立つと、懐かしい鍋や湯呑が目に入る。どれも昔のまま。手になじむ取っ手の感触さえ、変わっていない。

 湯を沸かしながら、レンは何度も言葉を反芻した。
 ──何を伝えるべきか。どこまで話していいのか。
 けれど、祖父はきっと……もうすべて分かっている。

 茶を入れて縁側へ向かうと、祖父は先に腰を下ろして、庭の方を見ていた。レンもその隣に座る。

 二人並んで見る景色は、橙に染まってどこまでも静かだ。
 山の稜線を縁取るように、夕陽がゆっくりと沈んでいく。

「……寮生活は、どうだ」

「……うん。それなりにやってるよ」

 しばらくの沈黙。祖父は湯呑を口元に運びながら、何も言わないまま、ただレンの隣に居てくれていた。

 やがて、レンはそっと口を開いた。

「……俺、しばらく……帰ってこれないかもしれない」

「……ああ。そうか」

 祖父はそれ以上、何も言わなかった。問い返しもせず、声を荒げることもなく。
 ただ、その一言にはすべてが含まれていた。分かっている、と。

 レンは封書に触れながら、目を伏せる。

「……言えないこと、たくさんある。でも、これは……俺にとって、大事なことなんだ。大切な人と……背負わなきゃいけないものが、できた」

 風が吹いた。縁側の竹垣を、カサリと優しく鳴らす。

 祖父は湯呑を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「……あの先生か」

「──えっ!?なんで……?」

 思わずレンは振り返る。祖父の横顔は、変わらず険しくて、けれどどこか笑っているようでもあった。

「何年お前の爺さんやっとると思っとる」

 その声には、淡い笑みの響きがあった。
 レンはしばし、言葉を失う。

「昔からおまえは、人の気持ちに敏いくせに、自分のことはよう話さんかった。……だが、いまのおまえは、“誰かのために何かを選んだ”顔をしてる。……なら、行ってこい」

 祖父の声は変わらず低く、落ち着いていた。けれどその言葉には、確かな信頼が込められていた。

 レンの喉の奥が詰まり、熱くなる。
 ──反対されると思っていた。心配されて、無理にでも止められると。

 なのに、祖父はただ静かに、背中を押してくれた。

「おまえが帰ってこられる場所は、ここにある。畑は俺が耕すが……飯はおまえが作らんと、マズいまんまだ」

 その言葉に、レンはふっと笑った。涙が一筋、頬を伝った。

「……うん。帰る。絶対、帰ってくるよ。ちゃんと、自分の足で……誰かを守れるようになってから。絶対」

 祖父はそれには何も言わなかった。
 代わりに静かに立ち上がり、レンの頭をぐしゃぐしゃとかき乱す。

「……泣くな。背筋を伸ばして行け。男が一度決めた道やろうが」

「……泣いてないってば……!」

 必死で笑いながらそう言い返したが、目の縁はまだ熱かった。

 祖父は静かに家の奥へと引き返していく。その背中は、昔より少し小さくなった気がしたけれど……やっぱり、誰よりも大きく見えた。

 しばらく縁側に座ったまま、レンは陽が沈むのを見送った。

 空が藍に変わり、風が背中を押すように吹き抜けていく。

 それは、祖父が代わりに贈った“見送りの風”。
 言葉ではなく、沈黙の中に込められた、静かな愛情。

 レンは立ち上がり、家の前で一度だけ、深く頭を下げた。

「……行ってきます、じいちゃん」

 そして、彼は歩き出した。

 ──運命の、その隣へと。
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