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第七章 黎明の時、嵐の前の
62 彼は揺るがない
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講義棟第七教室──
天井の高い教室には、重々しい沈黙が満ちていた。
光を吸い込むような古木の床、歴史を刻んだ木机が整然と並び、黒板には幾重にも重ねられた構文式と術式理論の痕跡が白く浮かぶ。
それはただの数式ではなく、時代を超えて蓄積された知識の痕跡。幾世代もの魔術師たちが刻んできた思考の軌跡が、そこに脈打っていた。
教壇に立つのは、スメラギだ。
その姿にはいつものように、整った沈着と威厳が宿っていた。端正な顔立ちに宿る瞳は冷ややかに澄み、語り口も一切の無駄を排した淡々たるものだった。
だが──その完璧さの奥に、微かな陰りが滲んでいることに、レンだけは気づいていた。
教壇の前を往復する足取りが、わずかに重たげであること。
板書の手を止め、黒板を振り返るたびに、彼の呼吸がほんの一瞬浅くなること。
何より、その存在感。普段なら他を圧倒し、誰も寄せつけぬような厳然たる気配が、今日に限ってはどこか脆く、輪郭を失いかけていた。
(……無理してる。本当は、まだ休んでいて欲しいのに)
レンは唇を噛みしめた。
ノートを取る手を止めることなく、必死にペン先を走らせる。
術式の理論は難解で、理解が追いつかない部分も多い。魔素の基盤構造、次元の捻じれ、媒介の共鳴関数。聞き慣れた単語が、なおも掴みきれない。
それでも、筆を止めるわけにはいかなかった。
(俺がちゃんと学べば……先生は、もうあんな無茶しなくて済むかもしれない)
(もっと強くなって、先生を支えられるようになりたい)
その一心で、指先に力を込める。
インクがにじむほどペンを握りしめ、ノートに文字を刻みつけた。
震える手元に、誰にも気づかれぬように。
「――次元歪曲下における媒介構文の安定化とは、単なる座標修正ではなく、存在の定義構造そのものを再設定する試みに等しい。
その鍵を握るのが、古代術式において《視点の外在化》と呼ばれる――存在の観測点を自己外に移すことで、内在的な干渉を一時的に無化する高度な認識転位操作だ」
スメラギの声は深く、揺るぎない。
その語りには知の底から掬い上げた真理の重みがあったが、今日の声には、わずかな掠れが混じっていた。
それは他の誰にも気づかれないほど微細な、しかしレンにとっては痛切な音だった。
レンはそっと顔を上げ、教壇に立つその背中を見つめた。
そこには、誰よりも崇高な強さがあった。
けれど同時に、誰よりも孤独で、壊れやすい影が揺れていた。
その瞬間、重厚な鐘の音が天井を伝って響き渡る。
講義の終わりを告げる音だ。
「……本日の講義は、以上とする」
スメラギが黒板に手をかざすと、白墨で描かれた構文と数式は霧のように淡く消えていく。
わずかに目を伏せて、彼は教壇を静かに降りた。
レンは教科書とノートをまとめながら、黙ってその背中を見送った。
胸の奥が、ひどく軋むように痛んだ。
──そのとき。
「……なんであいつがこの講義に出てんだよ」
教室の後方から、押し殺したつもりの声が漏れた。
けれどその響きは確かに、届いていた。
「博物館で教授が怪我したの、あいつのせいだろ?」
「魔素もろくに使えないナシリが無理矢理退魔師になんてなろうとするから、こんなことになるんだ」
冷笑を含んだ声に、教室の空気がささくれる。
刺さるような視線が、レンの背をかすめた。
レンの手が止まった。
筆先が紙に置き去りにされ、ページの隅で小さく震える。
胸の内で何かがぎゅっと縮まる。けれど、顔は上げなかった。
返事も、反論も、しなかった。
(……言い返したら、それで肯定になる)
(先生が、俺にくれた言葉まで、幻にしてしまいそうで――)
唇を固く結び、拳をぎゅっと握りしめる。
視界の端が滲んでも、まばたきひとつせず、耐える。
──そのとき。
「……っ、ちょっと!」
鋭い声が教室の前方から飛んだ。
張り詰めていた空気を裂くように、強く、明瞭な音。
ヒウラ・カナメだった。
整えられたブルネットのロングヘアが、わずかに揺れる。
すらりと伸びた背筋には一切の迷いがなかった。小柄な体躯からは想像もつかないほどの気迫が、教室全体に放たれていた。
「イシミネが黙ってるからって、何言ってもいいわけじゃないから。
頑張ってるの、見てわかんないわけ?」
一言一言を噛みしめるように、正面から言葉を投げる。
その声には、怒りと、それ以上に揺るぎない信念があった。
教室の空気が一瞬、凍りつく。
沈黙が満ち、ざわめきが生まれる。
やがて、数人の生徒がゆっくりと立ち上がり、まっすぐにレンの隣へと歩み寄った。
机に手をかける者、鞄を肩にかける者。それぞれの仕草に、迷いはなかった。
「……だよな」
「そういうの、聞いてて気分悪い」
誰も多くを語らない。
けれど、その場に「立つ」という行為自体が、何よりの意思表示だった。
心ない言葉を投げかけた生徒たちは、露骨に顔をしかめ、不機嫌そうに立ち去っていった。
教室の扉が閉まると、ざわついた空気がようやく静まる。
レンはその背を見送りながら、息を吸い込んだ。
「……ごめん、みんな、ありがとう」
振り返ると、カナメがわずかに顔をそむけていた。
白い頬が、ほんのり赤く染まっている。
「……別に、イシミネのためってわけじゃないし。
見ててイライラしただけだし」
「うん。でも、ありがとう」
レンが微笑むと、カナメも不意に目を逸らしながら、小さく微笑んだ。
その横顔には、照れ隠しのような不器用な優しさが滲んでいた。
「……ったく、手がかかるんだから」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いたその声には、どこか温かさがあった。
レンは皆に深く頭を下げると、肩を軽く叩いてくれた同級生に小さく笑みを返した。
言葉よりも先に、胸の奥に差し込んでいた霧が、すこしだけ晴れた気がした。
扉の前に立ち、深く息を吸い込む。
光の差す廊下の先には、まだ見えない不安も、孤独も、きっと待っている。
けれど──隣にいてくれる誰かの存在が、その一歩を照らしてくれる。
だから、もう一度、迷いなく。
レンは、教室の扉を押し開けた。
天井の高い教室には、重々しい沈黙が満ちていた。
光を吸い込むような古木の床、歴史を刻んだ木机が整然と並び、黒板には幾重にも重ねられた構文式と術式理論の痕跡が白く浮かぶ。
それはただの数式ではなく、時代を超えて蓄積された知識の痕跡。幾世代もの魔術師たちが刻んできた思考の軌跡が、そこに脈打っていた。
教壇に立つのは、スメラギだ。
その姿にはいつものように、整った沈着と威厳が宿っていた。端正な顔立ちに宿る瞳は冷ややかに澄み、語り口も一切の無駄を排した淡々たるものだった。
だが──その完璧さの奥に、微かな陰りが滲んでいることに、レンだけは気づいていた。
教壇の前を往復する足取りが、わずかに重たげであること。
板書の手を止め、黒板を振り返るたびに、彼の呼吸がほんの一瞬浅くなること。
何より、その存在感。普段なら他を圧倒し、誰も寄せつけぬような厳然たる気配が、今日に限ってはどこか脆く、輪郭を失いかけていた。
(……無理してる。本当は、まだ休んでいて欲しいのに)
レンは唇を噛みしめた。
ノートを取る手を止めることなく、必死にペン先を走らせる。
術式の理論は難解で、理解が追いつかない部分も多い。魔素の基盤構造、次元の捻じれ、媒介の共鳴関数。聞き慣れた単語が、なおも掴みきれない。
それでも、筆を止めるわけにはいかなかった。
(俺がちゃんと学べば……先生は、もうあんな無茶しなくて済むかもしれない)
(もっと強くなって、先生を支えられるようになりたい)
その一心で、指先に力を込める。
インクがにじむほどペンを握りしめ、ノートに文字を刻みつけた。
震える手元に、誰にも気づかれぬように。
「――次元歪曲下における媒介構文の安定化とは、単なる座標修正ではなく、存在の定義構造そのものを再設定する試みに等しい。
その鍵を握るのが、古代術式において《視点の外在化》と呼ばれる――存在の観測点を自己外に移すことで、内在的な干渉を一時的に無化する高度な認識転位操作だ」
スメラギの声は深く、揺るぎない。
その語りには知の底から掬い上げた真理の重みがあったが、今日の声には、わずかな掠れが混じっていた。
それは他の誰にも気づかれないほど微細な、しかしレンにとっては痛切な音だった。
レンはそっと顔を上げ、教壇に立つその背中を見つめた。
そこには、誰よりも崇高な強さがあった。
けれど同時に、誰よりも孤独で、壊れやすい影が揺れていた。
その瞬間、重厚な鐘の音が天井を伝って響き渡る。
講義の終わりを告げる音だ。
「……本日の講義は、以上とする」
スメラギが黒板に手をかざすと、白墨で描かれた構文と数式は霧のように淡く消えていく。
わずかに目を伏せて、彼は教壇を静かに降りた。
レンは教科書とノートをまとめながら、黙ってその背中を見送った。
胸の奥が、ひどく軋むように痛んだ。
──そのとき。
「……なんであいつがこの講義に出てんだよ」
教室の後方から、押し殺したつもりの声が漏れた。
けれどその響きは確かに、届いていた。
「博物館で教授が怪我したの、あいつのせいだろ?」
「魔素もろくに使えないナシリが無理矢理退魔師になんてなろうとするから、こんなことになるんだ」
冷笑を含んだ声に、教室の空気がささくれる。
刺さるような視線が、レンの背をかすめた。
レンの手が止まった。
筆先が紙に置き去りにされ、ページの隅で小さく震える。
胸の内で何かがぎゅっと縮まる。けれど、顔は上げなかった。
返事も、反論も、しなかった。
(……言い返したら、それで肯定になる)
(先生が、俺にくれた言葉まで、幻にしてしまいそうで――)
唇を固く結び、拳をぎゅっと握りしめる。
視界の端が滲んでも、まばたきひとつせず、耐える。
──そのとき。
「……っ、ちょっと!」
鋭い声が教室の前方から飛んだ。
張り詰めていた空気を裂くように、強く、明瞭な音。
ヒウラ・カナメだった。
整えられたブルネットのロングヘアが、わずかに揺れる。
すらりと伸びた背筋には一切の迷いがなかった。小柄な体躯からは想像もつかないほどの気迫が、教室全体に放たれていた。
「イシミネが黙ってるからって、何言ってもいいわけじゃないから。
頑張ってるの、見てわかんないわけ?」
一言一言を噛みしめるように、正面から言葉を投げる。
その声には、怒りと、それ以上に揺るぎない信念があった。
教室の空気が一瞬、凍りつく。
沈黙が満ち、ざわめきが生まれる。
やがて、数人の生徒がゆっくりと立ち上がり、まっすぐにレンの隣へと歩み寄った。
机に手をかける者、鞄を肩にかける者。それぞれの仕草に、迷いはなかった。
「……だよな」
「そういうの、聞いてて気分悪い」
誰も多くを語らない。
けれど、その場に「立つ」という行為自体が、何よりの意思表示だった。
心ない言葉を投げかけた生徒たちは、露骨に顔をしかめ、不機嫌そうに立ち去っていった。
教室の扉が閉まると、ざわついた空気がようやく静まる。
レンはその背を見送りながら、息を吸い込んだ。
「……ごめん、みんな、ありがとう」
振り返ると、カナメがわずかに顔をそむけていた。
白い頬が、ほんのり赤く染まっている。
「……別に、イシミネのためってわけじゃないし。
見ててイライラしただけだし」
「うん。でも、ありがとう」
レンが微笑むと、カナメも不意に目を逸らしながら、小さく微笑んだ。
その横顔には、照れ隠しのような不器用な優しさが滲んでいた。
「……ったく、手がかかるんだから」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いたその声には、どこか温かさがあった。
レンは皆に深く頭を下げると、肩を軽く叩いてくれた同級生に小さく笑みを返した。
言葉よりも先に、胸の奥に差し込んでいた霧が、すこしだけ晴れた気がした。
扉の前に立ち、深く息を吸い込む。
光の差す廊下の先には、まだ見えない不安も、孤独も、きっと待っている。
けれど──隣にいてくれる誰かの存在が、その一歩を照らしてくれる。
だから、もう一度、迷いなく。
レンは、教室の扉を押し開けた。
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