星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第七章 黎明の時、嵐の前の

64 欲しかった手のひら

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 雪が降っていた。



 しんしんと、音もなく――すべてを覆い隠すように、冷たく、美しく、ひたすらに白が降り続いていた。

 これは夢だ。
 どこかで、そう理解している自分がいる。

 それでも、足元に積もる雪の感触はやけに生々しく、頬に触れる風は、まるで氷の刃のように肌を刺していた。

 夢なのか。それとも、記憶の断片なのか。

 音もなく静まり返った庭。
 人の気配はない。誰にも見つからず、誰にも干渉されない、ただの忘れられた場所。

 そこに、ひとりの少年がいた。

 まだ幼さの残る小さな身体を、木の根元で丸めるようにして、うずくまっている。
 肩には、容赦なく雪が降り積もっていく。無言のまま、冷たく、無慈悲な白が彼を覆っていく。

 少年は、声を殺して泣いていた。
 誰にも気づかれないように。誰にも届かないように。

 張り裂けそうになる心を、何度も押し殺して。
 泣いてはいけない。そう、教えられてきたから。


 ――忌み子。
 ――不浄の子。
 ――生まれてはいけなかったもの。


 繰り返し浴びせられた言葉は、まるで呪いのように胸に刻まれていた。

 けれど、それでも。
 それでも彼は、ただほんの少しだけ、他の子供たちと同じように――優しさが欲しかった。

 冷たくない言葉。誰かに手を握ってもらえるぬくもり。
「明日も生きていていい」と、そう告げてくれる理由。

 そんなものを、欲しがることすら許されないと、どこかでわかっていた。

 それでも――やはり彼は、ただの子供だったのだ。
 哀れで、愚かで、それでもどこかで、希望を捨てきれなかった。
 たったひとり、誰にも気づかれずに、白の中で祈るように泣く、名もなき子供だった。

 雪の匂いが肺にしみる。
 その中でふと――誰かの気配を、感じた。

 反射的に顔を上げる。

 そこに立っていたのは、一人の魔導士だった。

 黒いローブを身にまとい、静かに佇んでいる。
 顔立ちは穏やかで優しげなのに、鳶色の瞳だけがどこまでも澄んでいて――まるで、こちらの心の奥底まで見透かすような光を宿していた。

 何も言わずに、男はただ、手を差し伸べてくる。

 与えるでもなく、引き上げるでもない。
 けれど、その仕草には確かに――「お前はここにいていい」と告げるような、優しい意志があった。

 少年の小さな手が、ためらいがちに、その掌に重ねられる。

 それだけだった。
 雪は止まなかった。世界が優しくなることもなかった。

 けれど、その手のひらのぬくもりだけは――確かに現実だった。

 誰かが、いつか言っていた。

「人は過去を変えられない。だが、過去が救われる瞬間はある」と。

 たったひとつの記憶。たったひとつの、手のぬくもり。
 それだけで、人は――もう一度、生き直すことができるのかもしれない。

 そして夢は、静かに、薄れていく。

 白銀の風景が揺らぎ、光の粒となってほどけていく。
 伸ばされた手の記憶が、指先に残る熱とともに、夜の闇に溶けていった。

 意識が現実へと戻っていく中――
 その手の感触だけが、心の奥深くに、祈りのように残されていた。





 そして、静かな朝が訪れる。

 胸の奥に灯るその記憶は、
 かすかな灯火のように、今もなお、揺れていた。




 ⸻



 窓の外――黎明の空に、淡く光が差しはじめていた。

 その気配に呼応するように、彼のまぶたがゆるやかに開く。
 視線の先、棚の上には、なお微かに揺れている薬瓶の光があった。夜の記憶を繋ぎとめる、小さな灯火。

 夢の名残が、まだ指先に残っている。
 あたたかな掌の感触。雪の匂い。静まり返った、あの白い庭。
 誰かが、確かにそこにいた気がして――それはもう、現実ではなかったのだと、理性は知っている。

 けれど、それでも。
 体の奥底で、沈黙していた何かが、わずかに軋んでいた。

 静かに身を起こす。
 音ひとつ立てず、まるで時の流れから切り離されたような沈黙の中で、彼は布団を払って立ち上がった。

 部屋はまだ薄暗く、カーテンは閉じられたまま。
 昨夜焚かれていた香の残り香が、空気に微かに漂っている。
 その気配を無言で受け止めるように、彼はひとつひとつの所作を丁寧にこなしていく。

 衣服は前夜のうちに揃えられていた。
 黒の詰襟。鈍く光を反射する織地のローブ。
 重く、静かな威圧感を纏ったそれは、まるで彼の脆さを守るための鎧のようでもあった。

 袖を通し、首元を閉じる。
 そして――

 カフスに指をかける。

 それは彼にとって、ごく個人的な“癖”だった。
 誰にも見せることのない時間にだけ現れる、それは一種の儀式であり、境界の確認だった。

 手のひらで、布の端をそっと整える。
 左右のバランスを確かめ、糸のほつれを指先で摘み、折り目を繊細に撫でつける。
 そのすべてを、音もなく、息を殺すように繰り返す。

 一見すれば、ただの几帳面な所作。
 だがそこには、崩れかけた世界を、寸分の誤差で繋ぎとめようとするような、強迫的なまでの沈静が宿っていた。

「……」

 言葉はなかった。
 けれど、その眼差しは、過去のどこか――ある“白い時”を見つめていた。
 雪の庭に置き去りにしてきたもの。触れてはいけない記憶。

 その記憶は、今や呪いとなって、彼を縛っている。
 けれど同時に、それこそが唯一、彼を保たせているという事実も――否定できなかった。

 やがて、袖口が完全に整う。

 スメラギ・ミナトの一日は、そこからようやく始まる。

 穏やかにして脆弱な均衡。
 それを保つための、誰にも見せない支度。
 ひとつ乱れれば、世界の歯車が軋み始めてしまう。そんな薄氷の上に、彼は今日も立っている。

 窓の外では、鳥が鳴き始めていた。
 けれど、この部屋にはまだ夜が残っている。
 夢の余韻と、過去の傷と、香の気配とともに。

 魔素がかすかに満ちた空気を払いながら、ミナトはローブの裾を整えた。

 仮面のように、すべてを整えて。

 ――そして、今日という日へと、再び歩き始める。

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