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第七章 黎明の時、嵐の前の
65 束の間の穏やかさ
しおりを挟む──講義は、粛々と進んでいた。
イシュ・アルマの窓辺に、淡い陽が差し込む。
古代語で「魂の導き」を意味するその名にふさわしく、ここでは日々、術式と理論が交差する。
自動書記をかけられたチョークの黒板に触れる音が、乾いた空気に小さく響いた。
術式構文の解釈について、スメラギの声は相変わらず落ち着き、感情の揺れがない。
だがその目は、確かに「観察して」いた。
──生徒たちの、変化を。
最前列。ノートに几帳面な字を連ねているのは、カナメ。
彼女の筆は迷いがなく、時折、自分で配合した薬の作用を書き添えていた。
第六式の応用理論など、まだ難しいはずだが、努力と興味の跡が見える。
(……昨夜の薬。気にしているな)
ちら、と横目で見れば、レンがあからさまに様子を伺っている。
講義に集中しきれず、ソワソワと手元のノートを落書きだらけにしていた。
あの“自作のエリクサ”──
味はともかく、効果は確かだった。長年にわたり澱んでいた魔力の滞りが、今朝は少しだけ和らいでいた。
それを伝えたとき、レンは文字通り顔を輝かせた。
(……喜びすぎだ)
だが、無邪気な感情に込められた真剣な“想い”が、どこかくすぐったかった。
教室の後ろには、いつも通り素知らぬ顔で潜り込んでいるアクタビ・ガラスの姿もある。
腕を組み、スメラギの講義内容を聞いている……ふりをして、視線はスメラギの足元あたり。
なにやら気配を測っているのだろう。昨夜の魔素の変化を“材料”にしようとしているのは明白だった。
(……何を煎じて飲ませる気だ)
思わず眉間に皺が寄りそうになるが、表情は動かさない。
ああいう者に関わると、ろくなことにならない。だが、彼女の観察眼と知識には価値がある。切り捨てられない厄介さだ。
と──
ふと視線を感じて前方に目をやれば、カナメがこちらを見上げていた。
気づくと彼女は、わずかに眉をひそめている。
(……また、薬が合わなかったとでも?)
彼女の視線が“何か”を気にしているのは明らかだ。
その何かが、自分の体調や魔素の循環にあることも。
(大丈夫だ。だが──)
言葉にはしない。教師としての仮面は、こういうとき便利だった。
スメラギは教鞭を片手に、カフスをさりげなく正す。
この動作はいつもの癖だが、指先にだけ、わずかに魔素を流す。
衣服に宿された術式の織り糸が、音もなく整えられていく。
教室の空気が、ほんの僅かに澄んだ。
誰も気づかないが、彼の周囲の気配だけが静かに研ぎ澄まされていく。
そして、その視線は──レンの後頭部付近へ。
彼はその光の魔素を、まだ使いこなせていない。
けれど、それでもまっすぐで、向こう見ずで。
自分のような存在に向かって、手を差し出してくる。
(……そういう者が、一番怖い)
けれど同時に──眩しくもあった。
講義が終わり、教室がざわめく。
レンが話しかけようと一歩踏み出し、けれど迷って戻る。
その姿が、ほんの少し可笑しかった。
(どうせ後で来るだろう)
そんな確信と共に、スメラギは後片付けを丁寧に行いながら、次の講義の準備を始めていた。
──これは、ただの一日。
けれど、“それでも続いている”ことの重みが、少しだけ心にしみた。
⸻
──昼休みの鐘が鳴ると同時に、学園内で最も賑やかな場所となるのが、中央棟の大食堂だ。
天窓から注ぐ光と、香ばしい匂いと湯気。今日も例外なく、食欲と笑い声が入り混じる温かな空気が広がっている。
レンとカナメは、両手にトレイを持って、ビュッフェカウンターの前を楽しげに行ったり来たりしていた。
「うわあっ、今日めっちゃ当たりじゃん……!!」
レンの目がきらきらと輝く。彼のトレイには、すでに豪華な料理がずらり。
まず目を引くのは、蒼銀サラマンダーの燻製肉と香草の包み焼き。
透けるように薄く削られた蒼銀獣の肉は、香草入りのクリスタルリーフで丁寧に包まれ、炭火でじっくり焼き上げられている。肉汁とハーブの香りが、鼻腔をくすぐる逸品だ。
さらに、雷茸と月根菜のソテー。
シャリっとした歯触りの雷茸に、素朴な甘みのある根菜。黄金色に炒められた見た目にも、食欲がそそられる。
スープにはもちろん、蒼き海の貝殻スープ。
青藻と光る真珠貝の出汁が溶け合った濃厚なスープで、レンはこれを「三杯は当たり前」と断言するほどのお気に入りだ。
「ヒウラも、えらい真面目なチョイスじゃん?」
「今日は……ちょっと、バランス考えたんだよ」
そう言ってカナメがトレイを掲げて見せる。
彼女が選んだのは、飛炎鳥のほぐし肉と薬草ライスのハーブロール。
薬膳香草がたっぷり練り込まれたこのロールは、芯から身体を温めてくれると評判の品。彼女らしい、機能重視の選択だった。
副菜には、金露花の甘酢ピクルス。
黄金色の花弁をそのまま酢に漬けたもので、見た目も可愛く、口直しにもぴったりだ。
デザートは、レンが星砂のフルーツタルト、カナメは月光花蜜のゼリー。
「ん~……このタルト、やっば。星砂のザクザク感とフィグルの酸味が……やばい」
「それ、夜に食べたら眠れなくなるやつだよ。魔素に触れた糖分は覚醒作用あるから」
「え、マジ? でもうまいからよし!」
軽口を叩きながら、二人は窓際の席に並んで腰を下ろした。
外の庭園が見渡せるこの席は、ちょっとした特等席だ。
レンがスプーンを止め、ぽつりと呟く。
「……なぁ、ヒウラ。今日のスメラギ先生、なんか……よかったよな?」
カナメも、手にしていたカップをそっと置きながらうなずく。
「うん。……目の下の隈、少し薄かった。カフスもきちんと整ってたし、立ち姿に重さがなかった」
「やっぱ、効いたんだよな、エリクサ……」
「正直、あの配合は無茶だったと思ってたけど……イシミネ、よく混ぜたよね」
「へへ、あっちこっち駆けずり回った甲斐、あったかも!」
「顔泥だらけにしてねぇ……」
呆れたように笑いながらも、カナメの目元はやわらかい。
レンの表情にも、小さな誇らしさがにじんでいた。
──大切な誰かのために、自分の手でできることがあった。
その実感は、星砂のタルトよりもずっと甘く、心に染みた。
ふと、カナメが窓の外へと目をやる。
吹き抜けの中庭では、魔術科の一年生たちが光球魔術の制御訓練をしていた。小さな光の玉を追いかけ、転び、笑う。
春の気配を含んだ陽光の下で、学園は確かに“生きて”いる。
「ねぇ、次は何つくる?」
「うーん、回復系は飽きたし、今度は……スメラギ先生が『うまい』って言うやつ!」
「……それ、ハードルめちゃくちゃ高いけど?」
「でも絶対、言わせたいんだよなぁ~、“うまい”って。なんか……ちゃんと食べてほしいっていうか……」
「……わかるよ」
たとえ一口でも、一言でも。
その人の、疲れた心と身体に届くような何かを。
──彼が、ほんの少しでも前を向いて、歩いてくれるなら。
そのために使う時間なんて、惜しくない。
そう、二人とも心のどこかで思っていた。
春の陽気に包まれた学園の食堂で、笑い声と湯気と、小さな希望が交差する。
──これは、ただの昼休み。
けれど確かに、何かが少しずつ変わっている。そんな時間だった。
⸻
昼時の食堂は、今日もにぎやかだった。
数百人規模の学生や教職員が行き交う広大なフロアには、魔力で温度管理されたフードコンテナがずらりと並び、香辛料やハーブの香りが空気の層を撫でていた。
笑い声、食器のぶつかる音、トレイを運ぶ靴音、議論とも雑談ともつかない無数の会話のうねり。
イシュ・アルマの食堂は、今まさに“命の渦”の中心にある。
食事の提供に従事している猫の妖精・ニャル、それからキノコの妖精・キノッペたちが、給仕カートを軽やかに転がしながら、小さな体で忙しなく動き回っている。
「もふもふカスタード、追加入りまーす!」
「キノッペ特製・三重発酵スープ、こっち空いたよぉ~!」
小さな声があちこちで飛び交い、まるで生きた楽団のように空間を賑わせていた。
──その中心からわずかに外れた、壁際の静かな一角。
魔導水晶の並ぶ飲料エリア。淡い青と白の光を灯す装置たちは、魔素を濾過・調合した飲料を絶え間なく供給している。氷花を思わせる細工が施されたグラスが、薄い音を立てながら整然と積まれていた。
その場に、二つの影。
一人は、スメラギだった。
そしてもう一人は、アクタビ。
スメラギは静かに、淡水のグラスを口元に運ぶ。
喧噪の中でその所作だけが異様なまでに静かで、まるで朝の支度のような無音の儀式。細く長い指が、癖のようにカフスを丁寧に整えていく。
耳に届いたのは──数メートル先、ランチエリアの長卓での会話。
レンとカナメ。彼の教え子たちだ。
彼らは気づいていないが、弾むようなその声は、ここにも届いていた。
「……へえ、随分と殊勝なこと言ってるじゃない、あの子たち」
アクタビがふっと笑う。
その声音には、からかいと、そして少しの微笑ましさが混じっていた。
彼女の瞳が、遠くの生徒たちへと細められる。
「“スメラギ先生が『うまい』って言うやつ”、だってさ。……可愛いじゃない?」
スメラギの目元がわずかに動く。
注いだ水の揺らめきが、彼の瞳の奥に映っていた。
「どうする? そんな期待されちゃって。次の薬は“感動するほど美味しい味”でも目指す? ……ああ、無理か。君、味覚あんまり残ってないんだったね?」
ふざけた口調。しかしアクタビにしては、やさしい言い回しだった。
──スメラギのまぶたが伏せられる。わずかに肩が動いた。
感情の波が胸の奥で、静かに揺れた。
「……わ、笑った?」
「笑っていない」
アクタビの驚愕に、即座に否定の声が返る。
けれど否応なく、口元には柔らかな陰りが残っていた。
それは、冬の陽光が凍てついた湖面に射した一瞬の暖かさのようだった。
「いやいやいや、今……! ねえ、氷の教授が! 感情を! 顔に出した! 奇跡……いや、事件!」
アクタビが芝居がかった仕草で肩を揺らす。
周囲の学生たちが一瞬こちらを振り返ったが、すぐに笑い声と食事に戻っていく。
「アクタビ」
「は、はい。すみません。でも、ねえ……本当に嬉しいんだ?」
「……彼らの薬は、よく効いた。それだけだ」
それだけ。
ただ、それだけ──そう言い切るには、グラスを持つ指先の熱が、あまりに優しかった。
スメラギの視線は再び、遠くの二人へ。
カナメが笑っている。レンが何かを口にして、無邪気にうなずいている。
──その姿が、なぜか過去の記憶と重なって見えた。
氷のような世界に、はじめて差し伸べられた手。
あのときの誰かの面影を、ふいに思い出す。
「……あの瞳、似てるんだよなあ」
「誰に?」
「いや? まあ、誰かさんが一番忘れたい記憶……とでも言っておこうか」
沈黙。
スメラギの瞳が、ゆるやかに細められた。
痛みのような、懐かしさが胸を刺していた。
けれど彼は、それを顔に出さない。
ただ、グラスの底を見つめている。
アクタビは、空のグラスを軽く掲げてから踵を返す。
「ふふ。いいねぇ、若返っちゃうね。……この調子なら、あと50年くらいは現場で引きずり回しても平気そうだ」
「冗談はやめろ」
「冗談だと思う?」
白衣の裾が、陽の光を跳ね返してきらめく。
アクタビの背は、冗談のように軽やかに遠ざかっていく。
スメラギはひとり、静かに水を飲み干す。
口に含んだ魔素の水は、冷たくもやさしい味がした。
騒がしい昼の食堂。
けれどこの片隅では、彼の世界だけが──ほんの少しだけ、穏やかだった。
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