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第七章 黎明の時、嵐の前の
67 違う世界で、君と笑えたなら
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夜は、しんと静まり返っていた。
学術都市の最深部――誰も近づかぬ封じられた私室には、灯りひとつともされていない。
月光だけが、静かにその部屋を照らしている。
窓辺に立つ男の影。
手にした資料は、もう随分前に捲られたまま止まっていた。
彼は読むでもなく、ただじっと、虚空を見つめていた。
その瞳に、いつもの理知はなかった。
冷静という名の仮面も、感情を封じる意志も、今は脱ぎ捨てられていた。
胸の奥に、影がひとつ。
それは、日に日に色を濃くしてゆく。
――血と煙の中、自分を庇った少年の瞳。
迷わず差し伸べてきた手。
そして、無意識に呼んだ名前。
(……イシミネ……レン)
何度も、忘れようとした。
否定しようとした。
それでも、ふとした瞬間に甦る。あの笑顔、声、視線――
指先に残る、ぬくもり。
彼の名を呼ぶたびに、胸がきしむ。
たまらなく、苦しくなる。
(どうして……お前なんだ)
もっと遅く、もっと早く、
――いや、せめて違う形で出会えていれば。
もし、教師でも守護者でもなく。
ただの男と男として出会っていたなら。
その笑顔を、自分だけのものにできたかもしれない。
その名を、愛しいと、堂々と呼べたのかもしれない。
(……そんな未来など、あり得ないのに)
考えてしまう自分が、愚かだと思った。
咄嗟に首を振る。そんなことを夢想する資格すらない。
「……馬鹿だ。彼は、ただの生徒だ」
呟いた言葉は、自らを戒める呪いのようだった。
だが、その呪文はもう、心の奥まで届いてはくれない。
レンは特別だ。
まっすぐで、強くて、誰よりも純粋で。
その光は、傷だらけのこの存在すら否定せず、見つめ続けてくる。
(……俺に向けられる、あの光)
それが眩しくて、苦しい。
怖いほどに優しくて、たまらなく欲しくなる。
けれど、それを望んではいけない。
自分は――「愛されること」を赦されていない。
気の遠くなるほど遥かな時の彼方で、無数の命を礎にして得た力。
呪術と禁忌に繋がれた、この身。
穢れと呪いの連鎖に囚われた存在。
触れてしまえば、いつか彼を壊してしまう。
過去にそうしたように、大切なものを、また自らの手で。
「……こんな感情……」
低く、押し殺した声が漏れる。
これはもう、尊敬でも、教師の責任でもない。
ただの憧れでも、憐憫でもない。
(違う。これは――)
もっと深くて、温かくて、けれど怖いほどに壊れやすいもの。
願ってはならないほど真剣な、恋。
「……願えるはずも、ないのに」
唇がかすかに震える。
それを口にしてしまえば、すべてが崩れてしまいそうだった。
彼の笑顔を、自分のものにしたい。
その声を、名を、何度でも呼びたい。
ただ傍にいたい。何も持たずに、ただ彼の隣で。
(……でも、俺は)
それを望む資格がない。
望めば、いずれその光を曇らせてしまう。
レンの純粋さを、清らかさを、台無しにしてしまう。
(こんな俺が、彼の隣に立っていいはずがない)
名前をつけてしまえば、きっと、二度と手放せなくなる。
愛していると認めてしまえば、
その瞬間に、この心は引き返せなくなる。
だから――
(せめて、この想いは)
俺ひとりだけのものにすればいい。
誰にも知られず、名前も与えず、
胸の奥で、密やかに、けれど確かに、生かしておけばいい。
月光が差し込む。
白く淡く、背をそっと撫でるように――
あるいは、まだ諦めきれない気持ちに、そっと寄り添うように。
スメラギは、そっと目を閉じた。
胸にあるのは、拭えぬ痛みと、消えない温もり。
レンが触れた手の甲に、そっと口付ける。
それは祈りだった。
この恋を手放すための――
それでも、どうしても愛してしまう自分を、赦すための。
愛してはいけないという祈りと、
それでも愛してしまうという願い。
決して届かないと知りながら、
それでも――抑えきれない確かな想いが、そこにあった。
学術都市の最深部――誰も近づかぬ封じられた私室には、灯りひとつともされていない。
月光だけが、静かにその部屋を照らしている。
窓辺に立つ男の影。
手にした資料は、もう随分前に捲られたまま止まっていた。
彼は読むでもなく、ただじっと、虚空を見つめていた。
その瞳に、いつもの理知はなかった。
冷静という名の仮面も、感情を封じる意志も、今は脱ぎ捨てられていた。
胸の奥に、影がひとつ。
それは、日に日に色を濃くしてゆく。
――血と煙の中、自分を庇った少年の瞳。
迷わず差し伸べてきた手。
そして、無意識に呼んだ名前。
(……イシミネ……レン)
何度も、忘れようとした。
否定しようとした。
それでも、ふとした瞬間に甦る。あの笑顔、声、視線――
指先に残る、ぬくもり。
彼の名を呼ぶたびに、胸がきしむ。
たまらなく、苦しくなる。
(どうして……お前なんだ)
もっと遅く、もっと早く、
――いや、せめて違う形で出会えていれば。
もし、教師でも守護者でもなく。
ただの男と男として出会っていたなら。
その笑顔を、自分だけのものにできたかもしれない。
その名を、愛しいと、堂々と呼べたのかもしれない。
(……そんな未来など、あり得ないのに)
考えてしまう自分が、愚かだと思った。
咄嗟に首を振る。そんなことを夢想する資格すらない。
「……馬鹿だ。彼は、ただの生徒だ」
呟いた言葉は、自らを戒める呪いのようだった。
だが、その呪文はもう、心の奥まで届いてはくれない。
レンは特別だ。
まっすぐで、強くて、誰よりも純粋で。
その光は、傷だらけのこの存在すら否定せず、見つめ続けてくる。
(……俺に向けられる、あの光)
それが眩しくて、苦しい。
怖いほどに優しくて、たまらなく欲しくなる。
けれど、それを望んではいけない。
自分は――「愛されること」を赦されていない。
気の遠くなるほど遥かな時の彼方で、無数の命を礎にして得た力。
呪術と禁忌に繋がれた、この身。
穢れと呪いの連鎖に囚われた存在。
触れてしまえば、いつか彼を壊してしまう。
過去にそうしたように、大切なものを、また自らの手で。
「……こんな感情……」
低く、押し殺した声が漏れる。
これはもう、尊敬でも、教師の責任でもない。
ただの憧れでも、憐憫でもない。
(違う。これは――)
もっと深くて、温かくて、けれど怖いほどに壊れやすいもの。
願ってはならないほど真剣な、恋。
「……願えるはずも、ないのに」
唇がかすかに震える。
それを口にしてしまえば、すべてが崩れてしまいそうだった。
彼の笑顔を、自分のものにしたい。
その声を、名を、何度でも呼びたい。
ただ傍にいたい。何も持たずに、ただ彼の隣で。
(……でも、俺は)
それを望む資格がない。
望めば、いずれその光を曇らせてしまう。
レンの純粋さを、清らかさを、台無しにしてしまう。
(こんな俺が、彼の隣に立っていいはずがない)
名前をつけてしまえば、きっと、二度と手放せなくなる。
愛していると認めてしまえば、
その瞬間に、この心は引き返せなくなる。
だから――
(せめて、この想いは)
俺ひとりだけのものにすればいい。
誰にも知られず、名前も与えず、
胸の奥で、密やかに、けれど確かに、生かしておけばいい。
月光が差し込む。
白く淡く、背をそっと撫でるように――
あるいは、まだ諦めきれない気持ちに、そっと寄り添うように。
スメラギは、そっと目を閉じた。
胸にあるのは、拭えぬ痛みと、消えない温もり。
レンが触れた手の甲に、そっと口付ける。
それは祈りだった。
この恋を手放すための――
それでも、どうしても愛してしまう自分を、赦すための。
愛してはいけないという祈りと、
それでも愛してしまうという願い。
決して届かないと知りながら、
それでも――抑えきれない確かな想いが、そこにあった。
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