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第八章 過去からの呼び声
70 星喰み
しおりを挟む月が、血のように赤く滲んでいた。
焚かれた神火は風に揺れ、白装束の裾を淡く照らし出す。
しずしずと進む“花嫁”は、まるで生気を失った人形のようだった。
年若く、まだ少女とも少年ともつかぬその姿は、首を垂れ、唇を固く閉ざしている。
逃げてはいけない。
叫んではいけない。
――これは罰なのだから。
島の者たちは祈るように見つめていた。
神事は尊い。
捧げ物は清らかでなければならない。
この夜、“花嫁”は神のもとへと帰される。
誰一人、異を唱えない。
この島では、ずっと昔からそうしてきたのだ。
白い足元を照らす灯が揺れ、やがて“それ”は現れた。
──神獣、星喰み。
禍々しく、巨大で、形を定めぬ影。
けれど、確かに“いる”。この世の理から外れた、夜の深淵そのもののような存在。
「──……あ……」
花嫁の喉が、かすかに震えた。
声にならない。
影が蠢く。
幾本もの触手が、ぬるりとした光を放ち、花嫁の足首に、腰に、腕に絡みついてゆく。
ぬめる感触が白布をずらし、なま暖かい粘膜が、肌を這った。
いやらしく、執拗に。まだあどけない“花嫁”の形を、確かめるように。
頬が紅潮し、肩が震える。
けれど、逃げない。逃げてはいけない。
(これは、……つみ……)
神の咀嚼が始まる。
花嫁の体が、徐々に熱に蕩けていくような感覚に包まれ、瞳は次第に焦点を失っていく。
やがて──
鈍く乾いた音が、夢の皮膜を叩いた。
最初は小さく。けれど、すぐに焦りと不安をはらんだ、強い音へと変わっていく。
「ミナトさん……っ! ねぇ、いるんでしょ!? 返事して!!」
その声に、何かが軋んだ。
神獣の触手が、花嫁をさらに深く抱き込もうとした瞬間だった。
「お願い、開けて!……無事だって、言って……っ!」
花嫁の頬に涙が伝う。
それは、花嫁自身のものではなく――現実にいる誰かの涙のようだった。
──やめて、そんなに優しく呼ばないで。
それは夢の中の“彼”の心の声か。
あるいは、花嫁に重なった“誰か”の叫びだったのか。
「ミナトさん、……お願いっ、開けてよ……! ミナトさんッ!」
闇の奥で、夢と記憶の境界が崩れていく。
触手に包まれていた“花嫁”の姿が、ふいに重なった。
それは、過去。
それは、誰かの身代わりとなった記憶。
(……そうだ、これは──)
ぱちり、と。
ひどく静かな音で、瞳が開かれる。
赤い。
血のように、神の呪詛のように、燃え上がるような赤。
スメラギは、額に手をやった。
ぐらりと視界が揺れ、鼓膜の奥に、まだ「花嫁、花嫁」と囁く声が残っている。
「……イシミネ……」
その名を口にすることが、現実へ戻る鍵だった。
扉の向こうにいるその少年の声だけが、確かに“いま”を照らしていた。
彼の声がなければ――
きっと今も、夢の中であの獣に囚われていた。
あるいは、自分自身が“花嫁”だったことすら、忘れたままで。
外では、まだ必死にレンが叫び続けている。
「先生……っ、開けて……お願いだよ……先生っ!」
夜が、少しだけ退いた。
⸻
「……静かに。人が集まる」
その小さな呟きとともに、古びた木造の扉が、わずかに軋む音を立てて開いた。
隙間から洩れる灯りが、淡く差し込む月明かりを押し返すように、廊下の床を静かに照らす。
ゆっくりと姿を現したスメラギは、ワイシャツの襟元が乱れ、前髪が深くその目元を覆っていた。
いつもかけているはずの眼鏡もなく、手探りする様子すらない。
その姿を目にした瞬間、レンの胸に、こみ上げるものがあった。
抑えていた感情が堰を切ったように、一気に溢れ出す。
「あ……ミナトさん……っ」
思わず呼びかけた声には、安堵と、強い不安がないまぜになっていた。
目の奥が、じんと熱くなる。
「問題ないと……言っただろう?」
その声は、かすれていた。
教師としての仮面は剥がれ落ち、普段は見せない彼自身の影が垣間見える。
理知的で整った声音はそのままだが、そこに滲む熱が、彼の異変を如実に物語っていた。
レンにはすぐに、それが“いつもと違う”と分かった。
額に浮かぶ汗、わずかに乱れる呼吸、火照った頬。
それらすべてが、明確な“異常”の証だった。
「……お願い。確かめるだけだから」
掴んだ端を離さぬような、切実な声。
普段は滅多に感情を露わにしないレンが、こうして声を震わせる――そのこと自体が、彼の本気を物語っていた。
スメラギは小さく息を吐いた。
拒むというよりは、静かに諦めるような、深い溜息だった。
次の瞬間、レンは彼の腕を取ると、そのまま室内へと引き入れた。
⸻
部屋の中は静かだった。
厚手のカーテンが外の気配を完全に遮り、空気にはわずかに湿気が混ざっている。
波の音さえ聞こえない、閉ざされた空間。
スメラギはベッドの縁に腰を下ろし、ゆるんだシャツの前を整えると、額に手を当てた。
頭痛か、それとも熱による意識の霞みか――目は、どこか遠くを見るように彷徨っていた。
レンは言葉を発さず、彼の正面にしゃがみ込む。
そっと両手で、スメラギの頬を包み込むように触れた。
「……レン?」
ひどくやわらかな手だった。
その掌を通して、スメラギの火照った体温が直に伝わってくる。
汗ばんだ肌、熱に潤んだ瞳。彼の異常は、触れた瞬間にはっきりと知れた。
「先生……熱、あるよ」
震えるような声。
その響きには、抑えようのない心配が滲んでいた。
「……この島に来てから、魔素が不安定でな。その影響だ……」
苦しげに、目を伏せながら答える。
その表情には、どこか負い目のような影が落ちていた。
「だから、レンが気にすることじゃない」
口元に浮かんだ笑みは、ごく私的で、どこかやせ細っていた。
最近、レンの前でだけ見せるようになった、壊れそうな笑顔。
「でも……明日は、今日よりも長いフィールドワークだよ。ちゃんと休んだほうがいい」
レンの言葉は優しかったが、内には焦りと切実な願いがあった。
もっと、甘えてほしかった。誰かに頼ってくれたらと、心から思っていた。
「……そういうわけにも、いかないよ」
「なんで……?」
「俺は教師だから。君たち生徒に何かあったら……それは、俺の責任だ」
その言葉に、レンの胸が痛んだ。
彼が背負っているのが、ただの「教師としての責任」ではないことを、よく知っていたから。
「……先生、優しすぎるよ」
呟きに、スメラギはわずかに首を振った。
「そんなことない。……俺は、いつだって自分勝手だよ」
その声音にはかすかな震えがあった。
自嘲とも、懺悔ともつかない響き――まるで、赦しを乞うように。
レンは何も言わなかった。
ただその額に手を置き、静かに佇んだ。
この熱が、少しでも下がれば。
この痛みを、少しでも代わってやれたなら――
いっそ、自分が引き受けられたなら。
静かな時間が流れる。
遠くで、かすかな波音が聴こえた気がした。
それは、とても穏やかで、優しい一瞬だった。
スメラギの呼吸が、少しずつ整っていく。
荒れていた鼓動も次第に静まり、張り詰めていた肩が、ふっと緩んだ。
(……また、だ)
胸の奥に、戸惑いが生まれる。
レンは魔素を使っていない。術式も、何も。
それなのに、彼に触れられると、まるで光の治癒に包まれているような錯覚がする。
(この子は……やはり、不思議だ)
本来なら、自分の属性と最も相性の悪いはずの“光”の気配。
けれどレンからそれを受けても、苦しくない。むしろ――安らぎすら感じる。
眠る前の子供のように。母に寄り添う動物のように。
穏やかで、あたたかくて――そして。
(……俺は、こんなにも)
胸が締めつけられるほど、愛しさが募る。
「レン……レン……」
自然に、その名がこぼれていた。
吐息のように、愛おしげな響きで。
「……えっ、あっ、ごめんなさい、ぼうっとしてた……!」
レンがはっと目を見開き、慌てて手を引こうとする。
「……お前も、疲れてるんだろ。明日も早い。部屋に戻りなさい」
「……でも」
「俺ならもう大丈夫。レンがいてくれたから、気分が楽になった」
その言葉に、レンの顔がふっと緩む。
「……ほんと?」
「……ああ。だからもう、何も心配しなくていい。さあ、戻りなさい」
やわらかく微笑むスメラギ。
どこか力の抜けた、それでも確かに安堵を湛えた笑顔だった。
レンはその顔を心に刻み、静かに頷いた。
⸻
扉を閉めると、夜の廊下には潮の香りがひんやりと漂っていた。
木造の軋む音とともに、夜風が空気を撫でる。
レンは小さく息を吐き、もう一度だけスメラギの部屋の扉を見つめた。
そのとき――廊下の角から現れたのはカナメだった。
制服のままで、胸元を軽く押さえたその様子から、何かを感じ取っていたのがわかる。
「あ、イシミネ。探してたの。どこ行ってたのよ」
「……あ、えっと、ごめん。先生のとこに行ってて」
その言葉に、カナメの顔が少し曇った。
「やっぱり……なんか風の匂いが変だったの。嫌な感じがして」
「そのことなんだけどさ……実は、先生がちょっと……」
レンが言い淀むのを、カナメはすぐに察した。
「……そっか。スメラギ先生、すぐ無理するからな」
「うん。俺も休んでって言ったけど……たぶん、明日も引率するつもりだと思う」
カナメは腕を組み、少しの間考え込む。
「真面目すぎるよね。でも、この島の魔素濃度、やっぱ普通じゃない。
先生みたいに魔素に敏感な人は、すぐやられちゃう」
「うん……前の傷も、まだ癒えきってないし。どうしたら、ちゃんと休んでくれるんだろうって……俺……」
俯くレンを見て、カナメはため息をついたあと、ふと目を細めた。
「……ちょっと、いい案あるかも。上手くいくかわかんないけど」
「え? なに、どうするの?」
「まぁまぁ、そのへんは私に任せて。イシミネは部屋に帰って。カベが騒いでて、周りからクレーム入ってるし」
「げっ、マジか……あのバカ……」
苦笑するレンに、カナメは肩をすくめて笑う。
「とにかく、用心していこう。先生も本調子じゃないし、私たちがしっかりしなきゃ」
「……うん。ありがとう、ヒウラ」
レンの表情に、少しだけ安堵の色が戻る。
先ほどまで張り詰めていた緊張が、仲間の言葉に少しずつ溶けていく。
「じゃ、そゆことだから。おやすみ!」
「うん、ヒウラも気をつけて。……あとは頼んだ」
手を振って去っていくレンの背を、カナメは見送る。
そして、小さく呟いた。
「先生も、イシミネも……ほんと、無茶ばっかり」
けれどその瞳は、どこか優しく、誇らしげに光っていた。
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