星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第八章 過去からの呼び声

71 穏やかな眠り

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 朝の空気は澄み切っていた。

 すでに高く昇った太陽が柔らかな光を落とし、晴天の空を金色に染めている。遠くから鳥のさえずりが聞こえ、旅館の木造の廊下には、生徒たちのはしゃぐ足音と、笑い交じりの声が明るく響いていた。

 レンは、朝餉処の暖簾をくぐると同時に、ふわりと鼻腔をくすぐる香りに足を止める。

 炊きたてのご飯の香り、出汁の深く芳しい匂い、味噌や焼き魚の香ばしさ……地元の食材をふんだんに使った料理がずらりと並ぶバイキング形式の朝食は、視覚も嗅覚も、一瞬で空腹を刺激してくる。
島豆腐を使ったチャンプルーや、あおさ入りのだし巻き卵、甘辛く煮たラフテーに、炭火で焼かれた塩サバ。炊き立ての島米の横には、パパイヤの漬物やもずく酢、南国らしいトロピカルフルーツも彩りを添えていた。

(うわ……ヤバい、腹鳴りそう……)

 思わず腹の虫が鳴きそうになるのをこらえながら、レンは会場を見渡した。

 温かみのある木目の内装、差し込む朝の光、湯気の立ちのぼる料理の皿。そのどれもが旅先の情緒を感じさせ、朝の始まりを穏やかに彩っている――が、そこに一人だけ、姿が見えない。

 ……ミナトさん。

 レンの視線が自然と探してしまう。だが、どれだけ見渡してもあの黒髪の長身の姿は見えない。

 胸の奥に、ふと小さな違和感と不安が湧く。

 ――と、その時。

 壇上に立った別の引率教師がマイクを手に、メモを読み上げはじめた。

「えー、連絡事項があります。スメラギ先生は、現地教育委員会からの依頼により、急遽オンライン評価調査に参加することとなりました。校長判断のもと、期間中の引率業務は免除され、ホテルでの対応となります。担当クラスについては、別の教員が補助に入りますので……」

 その瞬間、会場全体が一拍遅れて静まり返った。

 ――スメラギ先生が? 評価調査? 引率免除……?

 湯気の立つ味噌汁の器が置かれる音だけが、空気の中に微かに響いた。

 その沈黙を、誰かの半笑いのつぶやきが破る。

「え、スメガリってそんなに偉かったっけ?」
「つーか、校長って仕事するんだな」
「オンライン調査って何すんの? ホテルの部屋の評価とか……?」

 微笑ましい疑問と笑い声が広がると、場の空気がようやくほぐれ始めた。

 そのときだった。

 レンの目が、少し離れたテーブルに座っているカナメと合う。

 カナメはくすりと笑みを浮かべ、こちらにウインクを投げた。すみれのメッシュが小さく揺れた。

 明確な合図。

 レンの胸の奥にひそんでいた不安が、ひとすじに解ける。

(どうやったか知らないけど……グッジョブ、ヒウラ!)

 偶然じゃない。絶対に仕組まれたものだ。
 どれほど理不尽に見えても、「校長判断」となればスメラギも逆らえない。オンライン評価調査? 聞いたこともない話だ。

 ……でも、それでいい。少なくとも今は。

 彼が、休める場所を得られたのなら。

 レンは、小さく息をついて心を落ち着けた。

 ───

 朝食を終え、生徒たちは今日のフィールドワークへと向かう。

 目的地は、星縫島の象徴ともいえる歴史的建造物・瑞火城ずいかじょう。神秘的な雰囲気と格式高さを併せ持つ古城へ向かうため、観光バスが旅館の前に停車していた。

 点呼の声と共に、生徒たちが一人、また一人と乗車していく。

 その合間を縫って、レンはカナメの隣に歩み寄った。

 朝日が彼女の髪を透かし、淡い紫のメッシュがきらりと揺れる。

「なぁ、今朝のアレ……どうやったの?」

「ん? 別に? 何もやってないよ?」

 笑い混じりにとぼける声。けれど、その声音の奥には、明らかな“何か”がある。

「……あのタイミングで校長判断? さすがに出来すぎてんだろ。あれ、絶対ヒウラが何かしただろ?」

「ふふっ……まぁね。こういう時は、“ヒウラ家様様”ってやつかな」

「……やっぱ、そっちか」

 レンは額に手をあてて、息を吐いた。

「ヒウラは、そういうの頼りたくないタイプだと思ってた」

「うん。好きじゃないよ。できれば使いたくなかった。でも……先生のこと、心配だったから」

 声は淡々としていたが、その裏にある決意は静かに響く。

 普段はプライドの高いカナメが、自分の家の名を使うという選択をした。それだけで、どれほどの思いが込められているかは分かる。

「……ヒウラんち、学校と関係あるのか?」

「うん。神陽高校の校長先生、お母さんの親戚なの。あと、この学校ってイシュ・アルマ系統だから、スメラギ先生のことも当然知ってる。だからちょっとだけ事情を話して……“教育委員会からの依頼”って形にしてもらったの。形式だけだけどね」

「なるほど……。だいたい、わかった」

 自分の影響力を使って、スメラギを“守った”という事実。

 それは、彼女の誇りや信念と正面から向き合っての行動だった。

 レンはそっと、隣を歩くカナメの横顔を見る。眼差しは朝の空に向いていて、そこには、いつもより少しだけ遠くを見るような静けさがあった。

「……ありがとな、ヒウラ。助かった」

「どういたしまして。でも――勘違いしないでよね。あんたのためじゃないから。私はただ……先生が、もう無理しないで済むようにって、それだけ」

「……それで十分だよ」

 その瞬間、二人の間に流れた沈黙は、やさしいものだった。

「これで、ホテルからは出られないから。先生も、少しは……休めると思う」

 カナメの小さな声が、朝の空気に溶けていく。

 レンはまっすぐに頷いた。

 旅の朝。静けさとざわめきの中で、ふたりの想いがそっと重なっていた。誰かを守るために踏み出された小さな一歩が、確かにそこにあった。

 やがて、バスのクラクションがひとつ鳴り、生徒たちが一斉に振り向く。

 次なる学びへと旅は続く。

 不安だった少年の心が、ほんの少しだけ、軽くなったような気がした。


 ⸻

『……と、言うわけだからね、スメラギ教授。くれぐれも頼みますよ』

 スマートフォン越しに聞こえてきたのは、どこかとぼけた調子をした、年嵩の好々爺の声だった。スメラギがイシュ・アルマの教授と知るその人は、神陽高校の現校長。老いてなお好奇心と茶目っ気を失わない人物で、スメラギにとってはあまり得意ではないが、完全に無下にもできない相手だった。

「……私は何も問題ありませんが?」

 少しばかり寝乱れた姿のまま、スメラギはそっけなく応じた。その艶のある黒髪には、演技ではない寝癖がついていた。今朝方に受け取った連絡に続いて、こうして直々に電話までかかってくるとなれば、さすがに無視はできない。淡々とした声色には、まだどこか眠気が滲んでいた。

『そうは言いましてもね、ヒウラ家から直々に話があっちゃ、断れないんですよ、僕も。考えても見てくださいよ。普段、家柄の威光になんて縋らない彼女がですよ? よっぽど切羽詰まってたんでしょうよ』

 穏やかながらも、どこか愉快そうな声色だった。スメラギは無言のまま、室内のテーブルに手を置いた。しんと静まり返った旅館の一室には、場違いなほど和やかな声が、じわじわと響いていく。

『良い弟子をお持ちじゃないですか。こちらもそれで納得してますからね、気兼ねなくお身体を休ませてくださいよ』

「しかし——」

『あぁあ、しかしも駄菓子もないんです! 可愛い可愛い孫姪のカナメちゃんが、珍しく僕を頼ってくれたんです! ここは僕に免じて! ねっ!』

「はぁ……」

 それは、諦めと共に吐かれた音だった。

 思いのほか満足げな様子で、校長はひとしきり話すと、あっさりと電話を切った。耳元から消えた電子音の余韻が、妙に長く感じられる。
 結局、押し切られてしまった。
 静けさが戻った部屋の中、スメラギは手にしていたスマートフォンを伏せ、ゆっくりと目を閉じた。

(ヒウラのやつ……お節介なことを……)

 呟くように思考する。だが、すぐにその裏にいる人物の顔が思い浮かぶ。

(……いや、十中八九、イシミネだな)

 言葉にしなくとも、確信はあった。

 あの無邪気で一直線な少年のことだ。昨夜、心配そうに見つめてきたまなざし。戸惑いながらも、それでも触れようとしたあの仕草。レンの背中を押したのがカナメなら、影で動いたのもまた、彼女なのだろう。

 ——そうしているうちに、胸の奥にしこりのように残っていた熱が、少しずつ引いているのを感じていた。

 昨夜、身体を苛んでいた、強制的な快楽にも似た疼き。それはレンが触れたことで、ゆっくりと、溶けるように収まっていった。完全には消えていないが、理性を奪われるほどのものではない。スメラギはそう判断していた。

 代わりに残るのは、あの疼きの余波と、微かな熱の名残だった。喉の奥にまだ痕が燻っていたが、それすらも今は気にかからなかった。

(……あの子たちは、大丈夫だろうか)

 ふと胸をよぎった思い。かつての自分なら、決して抱くはずのなかった感情だった。

 己の責務、役割、存在理由。ただそれだけを拠り所として生きてきたはずだった。だがいまや、「生徒たちのことを気にする」などという、柔らかな情動が、自分の中に芽生えている。

(……随分、絆されたものだ)

 自嘲めいた思いと共に、口元に僅かな笑みが浮かんだ。

 否定はできなかった。思い返すのは、アクタビ・ガラスのあの言葉だ。

 ——「あんたは、愛されてるんだよ」

 まるで呪いのように、何度も脳裏に蘇るその言葉。けれどそれは、痛みや憎しみのように鋭利なものではなかった。ただ、少しだけくすぐったく、やわらかな熱をもって、心の隙間へと染み込んでくる。

(……愛されている、か)

 その実感はまだ、朧げだった。

 だが、確かに何かが変わり始めている。己の内側から。どこか決定的なものが、緩やかに、しかし確実に溶け出しているのを感じていた。

 いずれ真実が明かされれば、すべては崩れ去るだろう。平穏も、信頼も、今この刹那の温もりも。自分が抱える“真実”はあまりにも深く、重く、決して赦されるものではないのだから。

 ——それでも。

 それでも今だけは、ほんの一瞬だけでも、この静けさに身を預けていたい。そんなふうに、思ってしまった。

「……少し、眠らせてもらうか」

 誰に向けるでもなく漏れた独白の声。けれどどこか、レンやカナメ、あの子どもたちに向けられた、小さな感謝のようでもあった。

 重力に抗わず、スメラギはベッドへと身を預けた。

 しなやかな布団の感触が、瞬く間に身体を包み込む。旅館の寝具は予想以上に心地よく、身体がそれに反応するように自然と力を抜いた。

 外は快晴。

 開け放たれた窓からは、南の島らしい、湿り気の少ない涼やかな海風が吹き込んでいた。カーテンが音もなく揺れ、その風が、まるで労わるようにスメラギの頬を撫でていく。

 彼は深く息を吐き、静かに目を閉じた。

 この数日の中で初めて、何の警戒も、痛みも伴わない、穏やかな眠りが彼を包もうとしていた。

 それはきっと、彼が初めて“守られている”と感じた眠りだった。

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