星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第八章 過去からの呼び声

72 淫靡なる婚姻の儀

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 生徒たちを乗せた観光バスは、海沿いの細い道をゆらゆらと進んでいた。窓の外からは潮の香りを含んだ風が時折吹き込み、岩肌を洗う波の音がかすかに耳に届く。透き通った青空の下、海面は陽光を受けてきらきらと輝き、群れを成したカモメが時折飛び跳ねながら空を舞っていた。

 車内は旅の興奮に満ちている。生徒たちは友達と笑い合い、お菓子の袋がパリパリと音を立てる。カラフルな包み紙が手から手へと渡り、誰かが陽気に歌い出せば、それに呼応する笑い声が弾む。窓の外を流れていく風景が、楽しげな声とともに一瞬一瞬を彩っていた。

 だが、その喧騒とは無縁のように、窓際の席に座るレンは静かに眉をひそめていた。彼の目は、揺れる海や照り返す陽光ではなく、遠くの青空の彼方をじっと見据えている。

 ざわつく周囲の声はレンの耳には届かず、まるで遠くの音のようにかすんでいった。彼の思考は昨夜のスメラギの異変に強く囚われていた。


 ──ミナトさんの様子は、あまりにも不自然だった。


 蒼白い顔に、熱を押し殺すように浅く乱れる呼吸。余裕は消え、自嘲を帯びた笑みが残るのみ。だが、それも虚勢に過ぎなかった。

 レンが部屋を訪れた時、頬はのぼせたように紅潮していたが、別れ際には彼の白磁のように滑らかな肌色へ戻っていた。しかしレンには、それも単なる変化とは思えなかった。

(……あれはただの発熱じゃない。もっと奥深くの、深いところだ)

 心の奥底を冷たく、重く、何かが引きずり出していく感覚。魂を攫われるような、逃れようのない恐怖。昨夜、スメラギの“内側”に触れかけた刹那、レンは確かにそれを感じ取っていた。

(あんな感覚は初めてだ。ミナトさんは「魔素が落ち着かない」と言っていたけれど……あれは、それを超えた何かだ)

 胸の奥に焼きついた、不気味でざらつく余韻。吐息のようでありながら、遠くから囁く声にも似た響きは、今もレンの中に微かに残っている。

(それに……あの痣……多分見間違えじゃ、ない)

 スメラギの首筋に一瞬見えた、花のような跡。まるで何かの印のようにうっすらと光っていた。スメラギの言うように、ただ魔素の昂りの影響だけなら、それで良い。
 ——だが……

 ざわつく胸が締めつけられ、底なしの不安が波紋のようにじわじわと広がっていく。

 この穏やかな海も、明るい日差しも、楽しげな笑い声も、すべてがまるで虚像のように感じられた。

 まるで、この先に忍び寄る暗い影を覆い隠すために存在しているかのように。

 嫌な予感がレンの心から離れなかった。


 ⸻

 
 どこからともなく陰鬱で薄気味悪い囃子の音が鳴り響いた。
 平穏だった眠りは妨げられ、スメラギはゆっくりと目を開く。
 それと同時に、否応なしに身体の奥から鈍く迫り上がってきた快楽の音が混ざり始めた。

「……!?……この、疼き……またっ……」

 スメラギは己を支配されるもどかしさに、ベッドの上で身をよじっていた。
 額ににじむ汗粒が冷たい空気に触れてはじわりと溶けていく。腰の奥で燻る熱に身体は火照り、呼吸は浅く、早く。まるで追い立てられるかのように乱れていた。
 昨夜よりも、もっとひどくもっと強い。
 耐え難い苦痛を伴うほどに。

 彼の視線は虚ろに宙を彷徨う。それでもかろうじて理性は保たれていた。

(……これは、ただの熱じゃない……)

 首筋に浮かぶ花を模った印が、まるで生き物のようにゆっくりと脈を打つ。
 それは麻薬のような甘美さでスメラギの全身を覆い、静かに、しかし確実に身体の芯を侵していく。

(体の奥が……灼けるっ……意識が……、持たなっ……)

 下腹部を押し上げるような疼きに身を焦がしながらも、彼はその感覚に抗おうとしていた。

「ん……ぁ、……レン……」

 無意識に呼んでいた。今すぐあの手のひらで触れて欲しい。苦痛が水面に散っていくように、優しく溶かしてくれるあの手のひらに。

 スメラギが体を強張らせシーツを掴んだ。

 部屋の空気が変わったのは、その瞬間だった。

 空気の変化は音もなく──まるで時が止まったかのように──異様な気配となって部屋の隅々に染み渡っていく。

 開け放たれた窓の外からひんやりした風が吹き込み、カーテンがわずかに揺れる。だが、その風に混じるのは冷たく、深く、得体の知れない“何か”の気配だった。

 その気配は、扉の隙間からも、部屋の影の中からも、ゆっくりと広がっていく。

 一切の音が消え失せた。

 見えない触手の幻影が、まるで獲物を狙う捕食者のように、じわじわとスメラギの身体へ這い寄っていた。


 ——花嫁……、我の、美しき——


 声が響く。その声と共に、触手はなおもスメラギの体を弄り這い回る。
 それはスメラギの肉体ではなく、その奥底――魂の根源に触れようとしていた。

「……結界が……っ、機能して……いない……?」

 魔素の乱れを感じ、焦りが彼の胸を締めつける。

 朦朧とした意識の中、結界を再構築しようとするが、熱に浮かされた脳は働かず、手足も思うように動かなかった。


 ——婚姻を……、魂を………契りを——


 その隙を縫うように、触手はスメラギの肌の上を這い回り、淫紋へとじわりと迫っていく。


「あっ、く、……やめ、ろ……っ、“そこ”には……いない……ッ、ああっ……!」


 触手が淫紋に触れた。
 同時にミナトの身体がびくりと震え、その瞳は大きく見開かれた。

「——ッッ!!」

 その両目は星の輝きを閉ざし、代わりに血に濡れたような朱殷の色が宿っている。

 スメラギの意識がほとんど囚われかけた時だ。
 静かに扉が開いた。

 音もなく忍び入るように、紅衣の神官たちが姿を現す。

 彼らの仮面は感情を隠し、姿は非人間的な冷たさを放っていた。

「お迎えに上がりました。“ホシハミの花嫁様”。」

 その言葉に、ミナトは苦悶の色を浮かべながら鋭く睨み返す。

「……なんの話だ……んんっ、……あ、ぅ……」

 神官たちは悲しげに首をかしげるが、淡々と告げる。

「あなた様は神獣の花嫁として選ばれました。長きに渡り待ち望まれた、真の花嫁でございまする」

「く……、俺は、その役目を……受けた覚えは、なっ……ぁあっ、……俺に触るなっ!!」

 触手が再び彼の肌を這い回り、弄ぶように蠢く。

「ひっ、あっ……やめっ、やめろっ——!」

 そのたび彼の身体は細かな震えを上げ、抗おうとする理性は熱の波に押し流されていった。

「星剣に選ばれしお方が城内におります。もしあなた様が拒めば、彼が“供物”となる。――島の掟により、魂は“喰われる”のです」

 その言葉に、ミナトの全身から血の気が引いていく。

(レンが……)

 ぐらりと身体を起こし、よろめきながらも立ち上がる。

「……誓え。お前たちの言う通りに同行する。代わりにっ……、あの子には一切、手を、出さないとッ——」

 神官たちは礼をし、静かに応じた。

「神獣様は、花嫁のみを求めております」

 神官が言った。その無機質で機械的な言葉が、どこか喜びを宿している。

封結環エーテル・バインダーは外されよ。抵抗されては、困りまする」

 スメラギは小さく息を吐き、震える指先でゆっくりと左手からエーテル・バインダーを外した。

 それは床に落ち、微かな音を立てる。

(レンッ……)

 その名を心の奥底に深く刻み込みながら、スメラギは神官たちのもとへと、自らの意志で、しかし重く一歩ずつ歩みを進めた。



 ⸻



 瑞火城に到着したレンは、クラスメイトたちと共に、ガイドの案内で見学を始めた。
 朱塗りの柱が厳かに並び、風に揺れる軒先の紅が陽光を受けて艶やかに煌めいている。
 城内の古びた石畳を踏みしめるたび、かすかに湿気を帯びた足音が回廊に響いた。ガイドの歴史解説はどこか遠く、靄がかったように耳に届いてくる。

 ふと、胸の奥がざわついた。

 ――呼ばれた気がした。助けを請われているような、そんな感覚だった。

 レンは無意識のうちに列を離れ、誰にも気づかれないよう足音を殺して、城内の閉ざされた展示区画へと足を踏み入れた。

 薄暗い室内には、時間の堆積そのもののような静寂の香りが満ちていた。
 冷えた空気に混じり、微かな埃の匂い。何かを封じ込めた気配が漂っている。
 ガラスケースにずらりと並ぶのは、黄ばんだ絵巻と古文書。黙して語らぬそれらの記録のなかに、何かが潜んでいる――そう思わせる、不穏な気配。

 その一つの巻物の前で、レンの足が止まった。

 《島の神獣・星喰み──魂を喰らうもの。かつて幾人もの花嫁が捧げられし》

 《神獣は触腕を持ち、肌開きて契りを交わし、花嫁の“奥”へと進み、魂と婚姻す》

「……肌開きて、魂と……婚姻……?」

 思わず漏れた声は、空気に触れた途端、凍りついたかのように響いた。
 背筋に氷の刃が這い、体内を冷たい液体が逆流するような感覚が全身を打ち抜く。
 見てはならない。読んではならない。
 けれど、目が離せなかった。

 その言葉に宿る意味が、レンの中で静かに形を成していく。
 それは──スメラギを、直接連想させた。

 視線を横に移した瞬間、展示室の一角に飾られた屏風絵が目に飛び込んできた。
 “四百年前の神獣の花嫁儀式”と題されたそれは、白い装束の黒髪の人物が異形の影の前に跪く姿を描いていた。
 その首筋には、赤黒く蠢く文様──まるで生きているかのように艶やかな痕が刻まれている。

(……この文様……)

 昨日、スメラギの首筋にほんの一瞬だけ浮かんだ“花びら”のような痕──それと酷似している。
 胸の奥を掻き毟られるような焦燥が込み上げた。

(偶然なんかじゃない。やっぱり見間違いじゃない!!!……ミナトさん……!)

 じっとりと汗が噴き出し、こめかみを伝う。
 早鐘のように高鳴る心臓の音が、耳の奥で暴れ出す。

 ──そして、聴こえた。

 ふいに、誰かの声が耳元に落ちてきた。

 レンは反射的に振り返り、何かに導かれるように足を動かした。

 ——

 朱の鮮やかさが、歩を進めるごとに褪せていく。
 周囲から人の気配がすっと消え、空間が静寂に飲み込まれていく。

 ここは、神域。
 祭祀のためだけに守られた、神聖なる区画。

 石の床はわずかに湿り、どこか重く澱んだ気配が空気を満たしている。
 鼻腔をくすぐるのは、香の残り香と冷たい苔の匂い。
 不思議な緊張感が、肌に薄膜のようにまとわりついた。

 その奥から──かすかに、祝詞のような声が聴こえてきた。

 けれど、それは耳元で囁くような音律。
 どこか歪んでいて、言葉として意味を成しているようで、理解はできない。
 低く濁り、ドロドロと楽器のような地響きを伴うそれは、まるでこの世のものではない音だった。

 レンは身を屈め、声のする方へと進み、やがて一枚の古びた扉の隙間にたどり着く。

 その向こうに広がっていたのは──

 神殿の奥。
 淡く燻された香が空間に満ち、甘くも澱んだ匂いが鼻をついた。
 床一面に描かれた複雑な術式陣。
 その中心で、巫女装束の少女たちが身を伏せ、祈るように、服従するようにひれ伏していた。

 神聖さと淫靡さが共存する空間。
 婚礼のようでいて、どこか狂気じみた神事の気配。
 空間そのものが、別の世界へと繋がっているかのような感覚に、レンは息を呑んだ。

(これって……)

「濡羽の髪、白磁の肌。失われし花嫁が、今、舞い戻った──」

 神官のひとりが恍惚と呟いた。
 まるで信仰に酔うような、喜びに打ち震える声音で。

「今こそ、ホシハミ様のお怒りを鎮める刻。そして、星縫に永遠の繁栄を──」

 巫女たちが一斉に声を揃える。
 その声はまるで、儀式を呼び覚ます呪言のように、空気を震わせた。

「婚儀の支度を。星の瞳を持つ花嫁は、もうまもなく……」

 その言葉を聞いた瞬間、レンの鼓動が跳ね上がった。


(星の……瞳……っ、)


 レンの脳裏に、いつか見たスメラギの本当の目の色が思い出される。
 吸い込まれそうな、夜空の星の瞬き。レンが美しいと思った、彼だけの特別な色。
 
ぐらりと、眩暈のような感覚が襲いかかる。
 視界が歪み、空間が一瞬、反転した。

 ──白装束を纏い、虚ろな目で、神獣に捧げられるスメラギの姿。
 その星のような瞳は色を失い、まるで命を手放すように、静かに閉じられていった。

 レンのエーテル・バインダーが、突如として煌めいた。
 それは、星剣が強制的に告げた“未来の断片”。
 ただの幻ではない。警告だ。

(……ミナトさんっ!!)

 レンの喉が渇く。
 心が叫ぶ。

 気がつけばすでに、走り出していた。
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