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第九章 語られるは、楔の呪い
89 逃避の終焉
しおりを挟む「……ありがとう、みんな」
そう呟いたスメラギの微笑みに、部屋の空気がふわりと和らいだ。
昨日までの重たく沈んでいた気配が、まるで夢だったかのように――
今は、ただただ穏やかで、あたたかい。
その真ん中で、レンが嬉しそうにスメラギの隣へ腰を下ろす。
カナメもキュウビも、どこか照れくさそうにしながら、それでも静かに微笑んでいた。
「……俺の弟子たちは、いったん決めたら意地でも譲らない。……ほんと、どうしようもない頑固者ばかりだよ」
微笑とともにこぼれたその言葉に、診察室の空気がぴしりと反応した。
次の瞬間、レン、カナメ、キュウビの声が揃った。まるで合言葉のように。
「それ、先生にだけは言われたくない!!」
「それ、ミナトにだけは言われたくないんだけど?」
最後尾、ちょっと遅れて聞こえたキュウビのひと言が加わり、言い終わった直後に互いの顔を見合わせ、三人同時に小さく咳払いする。
わざとらしすぎたのか、それとも本当にタイミングが完璧すぎたのか――
思わず、アクタビが吹き出しそうになるのをこらえている。
しばしの沈黙のあと、部屋に笑いが湧いた。
あたたかくて、優しくて、そしてほんの少しだけ切ない――
それでも確かに、長く続いた仄暗い夜は終わり、彼らは今、新しい歴史の黎明に向かって歩み出していた。
けれど今は、このささやかな時間に祝福を。
ひとしきり笑い合って、静かに落ち着いたあと。
ふと、やさしい静寂が訪れる。
そして、数秒。
その“静寂”を最初に破ったのは――アクタビだった。
「よしッ!!!」
唐突に、手をパンと鳴らして立ち上がる。
全員がビクリと肩を跳ねさせ、揃って彼女を見た。
「万事まるっと丸く収まったと! いやぁ素晴らしいねぇ、青春だねぇ、ああ美しい、ワタシ泣いちゃう!」
満面の笑みで両腕を広げ、いまにも回転しそうな勢いでデスクをぐるりと回りながら叫ぶアクタビ。興奮のあまり、目の端には涙さえにじんでいた。
「……なんか、イヤな予感がする……」
キュウビが低く呟いた。狐面の下で、口角が引きつっている。
「そんな君たちに――朗報だよっ♡」
アクタビは朗々と声を張りながら、カップを掲げるようにして嬉々として宣言する。
「……」
誰も口を開かない。ただ、全員の脳内に警報が鳴っていた。
「今日はなんとッ! 月曜日! そう、平日!」
全員、呆気に取られた。
「学生! 学校! 社畜! 出勤!」
アクタビの無慈悲な声が響くたびに、誰かの肩がピクリと跳ねる。
「誰も逃げられない、現実逃避の終焉ッ! ああ無常! さあ支度しなッ!!」
アクタビ以外の全員が、息を呑んだ。
それは絵に描いたような、衝撃と沈黙。
そして。
次の瞬間、悲鳴と混乱が爆発した。
「えっ、マジか……!?」
レンが身を乗り出し、目をまんまるに見開いて叫ぶ。
動揺した様子で、スメラギを見つめた。
「そ、そんな……テスト範囲まだ見てない……!」
カナメが慌ててスケジュール帳を開き、ページをばらばらとめくりながら顔を上げた。
額には冷や汗、目は半分涙目になっている。
「あーーくっそ、任務入ってた……!!俺のミナトとの二人きりの時間がっ!!」
キュウビが頭を抱え、椅子の背にもたれながら思いきりのけぞる。
狐面の奥、その目元には“この世の終わり”みたいなうんざり感が滲んでいた。
「誰が誰のだって!? 勘違いもほどほどにしろよ!」
レンがカッと声を上げてテーブル越しにキュウビを睨む。
その口調は明らかに怒りをはらんでいたが、隠しきれない嫉妬の色が混ざっていた。
だが、キュウビも引く気はない。
「あぁん? 聞こえなかったか? ポンコツ。ミナトが俺のつったんだよ」
狐面の下で口元が不敵に歪む。
ちらりと覗いた犬歯が光り、その余裕の笑みはまるで勝ち誇った野狐そのものだった。
「んああ!! 兄弟子もイシミネも!! しょっぱい争いしてる場合じゃないよ!!
あぁあ!! 点数落としちゃぅううう!!」
普段は冷静なカナメが、今や完全に錯乱状態。
手帳を振り回しながら半泣きで走り回る姿は、もう完全にテンパった受験生の図。
「……俺、もう一回寝ていいか?」
そんな阿鼻叫喚のカオスを前にして、
スメラギはただぽつりと、限界ギリギリの呟きを落とした。
肩はだらんと落ち、視線は空中を彷徨い、
もはや立ち上がる意思すら感じられない。
明らかに、精神がどこか遠くへ行っていた。
「ダーメ♡ 逃げることは許しません♡ これが社会という名の呪いです♡」
アクタビが天を指さし、女神のようなポーズで宣言する。
その口調は愉快で華やかだが、言っている内容はあまりにも現実的だった。
アクタビの宣告に、部屋の空気は一瞬で喧騒に包まれた。
悲鳴と諦念と笑い声が交錯するなか、スメラギはその輪の中心から、ほんの少し距離を取った場所で静かにそれを見つめていた。
笑っている。騒いでいる。誰も彼もが、昨日までのようには見えなかった。
けれど、その温かな風景のなかに、自分が本当に居ていいのか――その思いは、まだ胸の奥にわだかまっている。
それでも。
今はただ、この賑やかな空気に身を預けていたいと、そう思えた。
心のどこかに残る迷いごと、そっと陽だまりの中に隠すように。
一度閉ざした扉は、まだ少しぎこちなく軋んでいるけれど。
それでも確かに、開きはじめている。
だからせめて今だけは、
このささやかな喧騒に、微かな赦しと救いを感じながら――
もう少しだけ、この余韻に、甘えていたかった。
——
……そう、思ったのも束の間。
「――あっ! 先生! テスト準備してます!? 高校の方!!」
突如として飛んできたカナメの声に、場が一瞬静まった。
スメラギの肩が、ぴくりと揺れる。
「………………」
沈黙。
「……完全に忘れてる顔ですよそれ!!!」
レンがもう一歩、身を乗り出す。
その顔は完全に確信犯を捉えた顔だった。彼の目には“これはやらかしてる”と書いてあった。
「えっ先生マジ!? 今日試験監督じゃないの!?」
カナメが青ざめた顔でスケジュール帳を再確認する。
ページをめくる指先が震えている。
「地獄じゃん」
キュウビが低く吐き出すように言った。
肩を落としながら、どこか満足そうでもあるのはなぜだろう。
「高校生、容赦ないねぇ……」
アクタビは相変わらず涼しい顔で、コーヒーカップをくるくると回していた。
目元は楽しげに細まり、涙ぐんでいるのは、たぶん笑いすぎたせいだ。
あっという間に笑いが弾け、ミナトの小さな嘆息がそれに溶ける。
静けさは、音を立てて崩れ去った。
それでも、いい。
こんなふうに、無遠慮に踏み込んでくれる声があるなら――
彼の世界は、まだきっと、大丈夫だ。
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