星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第九章 語られるは、楔の呪い

88 言葉が、見つからない

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 少しばかりの沈黙が、朝食の香りとともに漂っていた。
 キッチンに立つレンは、フライパンを器用に操りながら、ちらりとスメラギの様子をうかがう。
 カナメもキュウビも、どこか居心地が悪そうだったが、それでもこの、痛みさえ孕んだ沈黙の中から、誰一人として逃げようとはしなかった。

 それは、目を逸らしてはいけない何かが、そこにあると分かっていたからだった。



 ――あんた、思ったより慕われてるんだからさあ。無駄に全部抱え込むの、そろそろやめたら?――


 いつかアクタビが、ふと何気なく、笑い交じりに言っていた言葉が蘇る。
 スメラギはその記憶を反芻し、ふ、とわずかに口元を緩めた。乾いた風が通るような、かすかな微笑だった。

 そして、ぽつりとつぶやく。

「……スープは、ぬるめにしてくれ。熱いのは……苦手なんだ」

 それだけの一言だった。けれど、それが場の空気を優しくほどいた。
 ピンと張り詰めていた糸が、ふわりと緩む。

「もちろん!」

 レンが元気よく返事をし、明るい笑顔でフライパンの黄身を裏返す。
 少し焦げた目玉焼きの香ばしい匂いが、静かに朝の食卓に溶けていった。

 ⸻

 食卓には、食べ終えた器と、まだかすかに残る温もりだけがあった。
 外では鳥のさえずりが聞こえ、柔らかな朝の光がカーテン越しに差し込んでいる。

 片付けを終えたカナメが、そっと立ち上がった。
 その動きは控えめながらも、何かを決意した者の、それだった。
 彼女は一度深呼吸し、姿勢を正して、まっすぐにスメラギを見つめる。

「先生、私……ちゃんと謝らせてください」

 空気がふわりと揺れる。
 言葉が空間の重力を変える。

 スメラギは一瞬だけ目を伏せ、けれどすぐに微笑んだ。

「……気にするな。君は悪くない」

 その声は穏やかだった。だが、伏せられた視線の奥にあるものまでは、簡単には見えない。
 優しさに覆われたその表情は、どこか影を落としていた。
 責めていない。ただ、抱えている。それだけのことが、かえって胸を締めつける。

 カナメは、息を整え、言葉を選びながら、静かに続けた。

「私は……ヒウラ・クウガの子孫っていうことが、本当に苦しかった。
 自分は“誰かの代わり”でしか生きられないんじゃないかって、ずっと思ってきたんです」

 その告白に、スメラギの指がわずかに揺れる。
 伏せられたまつ毛が震え、彼の感情が水面のようにわずかに波立ったのが分かった。

「でも……先生は、そんな私を“私”として見てくれた。
 あなたを傷つけた人の血を引く私を、それでも温かく接してくれた。
 ……私は、先生の優しさに応えたいんです」

 スメラギが顔を上げた。
 カナメの表情はまっすぐで、凛としていた。迷いはなかった。
 その瞳に映る光は、もう過去に縛られていない。

 続いて、キュウビが、いつになく真面目な声音で口を開く。

「……あのな、ミナト」

 その声に、スメラギが目を向ける。

「俺の愛はな、千年だろうが一万年だろうが、ぶち抜いてくぜ。
 あんたが……今の俺を作った。命懸けで、進むべき道を示してくれた」

 キュウビは拳を握りしめ、口元を引き結ぶ。

「だから今さら、“過去”を盾にして逃げるな。
 俺は、“今のあんた”が欲しいんだ」

 言い終えると、ばつが悪そうに少しだけ顔をそらした。
 その背中は、どこまでも真っ直ぐだった。

 最後に、レンがゆっくりと微笑んだ。
 その笑みは、まるで太陽のようにあたたかい。

「ミナトさんを守りたいって気持ち、変わってないよ」

 まっすぐな鳶色の瞳が、スメラギを見つめる。
 どこまでも真剣で、どこまでも純粋な眼差し。

「だから……怖がらないで。俺たちを、信じてほしい」

 スメラギはゆっくりと皆の顔を見渡した。
 一人ひとりの想いを、胸の奥で受け止めるように――そして、もう一度、そっと目を伏せた。

 その指先が、かすかに震える。

「……まいったな」

 小さく、呟くように。けれど、その声には確かに微かな安堵が滲んでいた。

「どんな言葉を返せばいいか……見つからないよ」

 それは彼なりの降参の言葉だった。
 長く閉ざされていた心の扉が、音もなく軋みながら、静かに開きはじめた瞬間だった。

 誰も、それ以上は何も言わなかった。
 ただそこにあったのは――赦しと、始まりと、微かな陽光。

 静かで、優しい、朝の一幕だった。
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