星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第九章 語られるは、楔の呪い

87 それぞれの決意の朝

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 カーテンの隙間から、柔らかな朝の光が静かに差し込んでいた。
 遠くで鳥の囀りがひとつ、ふたつ、響いている。

 スメラギは、ゆっくりと目を覚ました。
 ぼんやりと天井を見つめる。体が重く、意識はまだ霞んでいる。
 夜の記憶は曖昧だった。だが直感的に、自分は正気を保てずにひっくり返ったのだろうと感じていた。
 この重さは、鎮静剤の副作用だ。よほどのことだったのだろう。
 アクタビが、患者の体よりも薬の効果を優先するのは珍しいことだ。

 ふと、スメラギの鼻腔を優しくくすぐる香りがあった。
 それは、この部屋にいつも漂う薬草や防腐液の匂いではない。

 バターの香り。焼けたパンの香ばしさ。
 そして、温かいスープの匂いが、どこか懐かしく心を温める。

「……?」

 呻くように小さな声を漏らし、額に手を当ててゆっくりと身を起こす。
 冷たく硬い床の感触が足に伝わる。
 立ち上がり、ゆっくりと扉を開ける。
 気圧の変化と共に動いた室内の空気が、やわらかな朝の香りを運んできた。

 ⸻

「先生!おはよ!」

 フライパンの向こう側から、笑顔のレンが声をかけた。
 ジュッ、と音を立てる目玉焼き。ぷるりと輝く黄身が食欲をそそる。

「おぉぉん坊や~!ワタシの甘美な薬草と毒草の香りを、健全な朝食の匂いで完全に台無しにするとは~……」

 アクタビの嘆き声が耳に入るが、どこか楽しげで力の抜けた響きだった。

 薬を煮込むためのかまどは今、レンの指示で操られるキュウビの火の魔法によって自在に調節されていた。

 その傍らでは、カナメが完成した七草スープを慎重に味見し、
 キュウビは人数分の器とカトラリーを丁寧に並べている。
 サラダの上で瑞々しく切り分けられた冷たいヒナ胡瓜を摘み食いしたキュウビは、すかさずカナメに叱られていた。

 一方アクタビは、珍しくも丁寧に茶葉を選び、とっておきの紅茶を淹れている。

 この空間にいる全員が、今この“朝”という時間を穏やかに生きていた。

 ⸻

 スメラギは扉の近くで、言葉を失い立ち尽くした。
 この光景は、千年もの記憶のどこにも存在しなかった。

 出来立ての食事。
 囲む温もり。
 そして、拒まず受け入れてくれる“場所”。

 ⸻

「顔、洗ってきますか? 終わったら朝ごはんにしましょう?」
 レンの声が自然に、彼を現実の世界に繋ぎ止める。

 スメラギは戸惑いながらも、一度視線を伏せて言った。

「……イシミネ。気持ちは嬉しい。……でも俺は、食事を取る必要が……その、ないから、だから……」

 呪われた体。繋ぎ止められた器。
 生きるための食事さえも、もうずいぶん長い間、ほとんど口にしていなかった。
 自分がまだ生きているのかさえも、わからなくなっていた。

 ⸻

「ふぅん。じゃ、必要ないだけで食べられないわけじゃないんでしょ? ね? 一緒に食べよ?」

 レンの声は明るい。
 まるでただの誘いのように、何気ない一言のように響く。

 けれど、そこには決して軽くない何かがあった。
 拒絶されたとしても、決して引かない。
 引き止めるでもなく、ただ“隣にいる”という選択。

 それが彼のやり方だった。

 その言葉に、ふと視線を上げる。
 キュウビもカナメもこちらを見つめていた。
 どこか、許しを乞うような、懇願にも似た瞳で。

 ──それは、謝罪の形だった。

(……どうして、そんなに、……)



 ⸻

 それはスメラギが目を覚ます少し前のこと。

 診察室の扉が、きぃ、と静かに開く。

 漂う空気がわずかに揺れ、そこにレンが姿を現した?
 疲労と緊張が色濃く滲んだ顔。それでも、彼の足取りはしっかりとしていた。
 背筋を伸ばし、確かな意志をもって、こちらに歩いてくる。

 カナメ、キュウビ、そしてアクタビが、その気配に顔を上げた。

「……先生、どう?」

 カナメが震えるような声で口を開いた。
 不安と後悔が、喉をかすれさせている。
 それでも、目を逸らさなかった。逃げなかった。

「私が、あんなこと訊かなければ……あんな顔をさせなければ……」

 声の端に滲むのは、自責と苦しみ。
 カナメの表情は、ずっと深い悲しみに縛られたままだ。

 レンは一度、目を伏せる。
 そのまま数秒、言葉を選ぶように沈黙して――それから、強く首を横に振った。

「……ヒウラのせいじゃないよ」

 視線をまっすぐカナメに向けて、はっきりとした言葉を投げる。
 その声には、揺るぎない思いが宿っていた。

「スメラギ先生は、きっと怒ってない。……むしろ、“ありがとう”って言うんじゃないかな」

 レンの唇に浮かんだのは、静かな微笑みだった。
 それは締めつけられるほどに優しくて、どこまでも真っ直ぐで――
 想いの深さが、痛いほど伝わる。

「……言葉にしなきゃ、きっとずっと、自分を許さなかったと思うから」

 その言葉に、カナメはこらえきれず、目元をぬぐった。
 泣いてるわけじゃない。そう言い聞かせるように。
 でもその仕草は、静かに彼女の涙を認めていた。

 再び、沈黙が場を満たす。

 ──だが、それを断ち切ったのはキュウビの声だった。

「……これからどうするべきか。俺たちは、考える必要がある」

 低く、抑えた声音。
 言葉の奥にあるのは怒りではなく、強い責任と覚悟だった。

 包帯で巻かれた拳が、音もなくぎゅっと握られている。

「千年前の真実も、ミナトの立場も、今の世界も――全部知ってる俺たちが、これからどうするかを、決めなきゃならねぇ」

 紫紺の瞳が、ゆるがぬ決意を宿して光っている。

「中途半端なまま引くには、深く知りすぎた。……だからと言って、俺はアイツを断罪する気はさらさらねぇ」

 言葉が一度、そこで途切れる。

 そしてぽつりと、まるで呟くように付け加えた。

「……それ以上のもんを、際限なく貰っちまってるんだよ」

 言葉に宿るのは、ただの悔しさや憤りではない。
 深い愛情と、長い時間を通して育まれた絆。
 キュウビの胸の奥から、静かに零れ出た本心だった。

 レンも、カナメも、その言葉を否定しなかった。
 ただ、黙って頷いた。

 夜明け前の空気が、しんと静まりかえる。
 けれどその静けさには、希望の前触れのような強さがあった。

 そして。

 長椅子の背に寄りかかっていたアクタビが、ゆっくりと身を起こす。

「ふふ。やっと“物語”の続きに、目を向ける気になったかい」

 笑っている。けれど、その声音には覚悟と慈しみが混ざっていた。

 彼女は知っているのだ。
“見守る者”の立場でありながら、時にそれがいちばん苦しいということを。

「ならワタシから言えるのは、ひとつだけ」

 アクタビは深く息を吐き、眼鏡の奥の瞳で三人を見つめた。

「――スメラギは、まだ何も“赦されてない”と思ってる」

 静かな声だった。だが、その響きは真っ直ぐに心に届く。

「だからね、今からキミたちがするのは、“どうやって赦すか”っていう話じゃない」

「“どうやって寄り添うか”ってことだよ」

 それぞれの胸に残るもの。
 それは、想い。そして責任。そして、未来。

 誰もがまだ、傷を抱えている。
 けれど、だからこそ。

 夜明けの空が、ようやく白くにじみはじめていた。
 誰かの想いを照らすように――新しい朝が、ゆっくりと世界を包もうとしていた。
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