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第九章 語られるは、楔の呪い
86 夜を越えて
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診察室の明かりは落とされ、常夜灯の微かな光だけが、室内をぼんやりと照らしていた。
レンは、スメラギの身体をそっと抱き上げたまま、ベッドへと歩を運ぶ。
腕の中の体は軽く、そして、異様に冷たかった。
ゆっくりと寝かせたあとも、離れることができず、そのままベッド脇の椅子に腰をかける。
スメラギの呼吸は浅く、不安定に胸が上下している。
閉じられた瞼はぴくりとも動かず、その横顔は、まるで命の火が細くなっているように儚かった。
レンは拳を握りしめ、心の底から願った。
――この人の抱えるものを、少しでも背負えたらいいのに。
千年前からの孤独。誰にも言えなかった真実。
図らずも世界を陥れてしまった罪。たった一つの愛を欲しがったが故の。
手に入れたと思ったものの裏切り。それすらも、己の過ちだと責めて。
そんな数多のものを、こんな身体に、たった一人で抱えてきたなんて。
(……それなら、俺が)
レンは、そっとスメラギの手を取った。
冷たい。まるで人の体温を忘れてしまったかのように、熱がなかった。
それでも、レンは離さない。握った手を、ただ静かに、優しく包み込む。
「……ミナトさん、大丈夫。俺がいる」
言葉は小さく、けれど、ひとつぶも揺らがなかった。
「もう、一人になんて、しないから」
誰に聞かせるでもなく、神にもすがらず、ただその人に届くように。
レンは、スメラギの眠る手のひらに向かって、祈りを込めた。
言葉よりも深く。願いよりも強く。
静かに椅子に腰掛けたまま、少しでも動けば夢から彼を醒ましてしまう気がして。
「……ミナトさんは、今……何を見てるんだろうな……」
声は独り言のようで、けれど誰かに聞いていてほしい心でもあった。
――俺が、そばにいる。
もうずっと。
絶対に。
この人を、ひとりきりになんて、させない。
そう決めた。
そしてその決意は、ただの少年の叫びではなく、
この夜を越えた先へと続く“約束”になった。
スメラギのかすかな吐息が、安らかに整っていく。
レンは、その手を離さなかった。
夜が明けるまで、ずっと。
⸻
夜の薬草園には、淡く、ほのかな光が咲いていた。
宵の風に揺られた魔草たちが、しゃらり、しゃらりと葉を触れ合わせ、微かな音を奏でている。
耳に届くのは、その静かな音だけだった。虫の声もない、どこか切なく、痛みに寄り添うような夜。
キュウビは、園の片隅の石壁にもたれ、煙管煙草をくゆらせていた。
拳に巻かれた包帯は、幾重にも重なっている。殴りつけた壁の冷たさと硬さで、皮が裂け、骨にまでヒビが入った。
だが、痛みはなかった。
いや、痛みなんて、とうの昔に置き去りにしてきた。
「……俺はな」
煙の向こう、呟くような声が零れる。
「信じたかったんだよ、アイツを。……どこの誰が見放したって、何度でも、俺を信じ続けてくれた……あの人をさ」
紫煙が揺れ、キュウビの瞳を隠す。
「それなのに……なんで……俺は……」
言葉の輪郭が、濁った。
それは笑いにもならず、怒りにもならず、ただ無力な魂が吐き出した、敗北の声だった。
少し離れた場所では、カナメがしゃがみ込み、膝を抱えるようにしてうずくまっていた。
視線の先には、咲きかけた“夜の風草”。
揺れるたびに淡く光るその花は、まるで彼女の内側の震えを映しているようだった。
「……私が訊かなければ」
ぽつりと、涙の代わりに落ちた言葉。
「先生は……あんな顔、しなかったのに」
震える声。震える肩。
「でも……でも、“訊かなきゃよかった”なんて……そんな風に逃げたくない……。私……っ」
喉に詰まった思いが、そこで途切れた。
思考も感情も、行き場を失って、彼女を内側から引き裂いていた。
震える手を伸ばしても、誰の背中にも届かない。
だから彼女は、ただ膝を抱きしめることしかできなかった。
二人の間に降りた沈黙は、冷たいものではなかった。
風に揺れる魔草たちの呼吸のように、優しく、けれど寂しく、その場を包み込む。
誰も何も癒せないまま、
それでも、ほんの少しだけ——夜に溶けていく。
⸻
私室の灯りは、一本のランプだけ。
柔らかな灯りが書類の山を照らし、蒸気の抜けた茶のカップには、微かに紅の縁が残っている。
冷えた空気が、夜の終わらなさを静かに物語っていた。
アクタビは、スメラギが残した術式の図面を指先で持ち上げ、ふと視線を窓の向こうへとやった。
そこには、遠いどこかで見た夜空によく似た、淡い星の連なりがあった。
懐かしいようで、まるで別物のようで。
けれど、それでも変わらない星のまたたき。
アクタビは小さく、ため息のように笑った。
その笑みには、拭えぬ寂しさと、それでもなお人を想う者の、どこかあたたかい影が滲んでいた。
「……物語ってのは、時に、残酷すぎるよね」
誰にも届かぬような独り言。
「それでもさ、歩くんだよ。誰も彼も。あの子たちも、スメラギも」
「“結末を知らずに”進むんだ。……だから、見てなきゃ」
手にしていた図面をそっと机に戻す。
乾いた紙の手触りが、ひどく遠く感じられた。
アクタビは身を屈め、ランプの光の下でそっと額を机に預ける。
「……見守る者ってのも、楽じゃないねぇ……」
疲れた声だった。
でもその奥には、どこか優しい覚悟があった。
夜は、まだ、終わらない。
けれど、その向こうにはきっと、“朝”がある。
そして、それを誰よりも信じているのが、彼女だった。
だから、見ている。
誰よりも遠く、
誰よりも近くで。
⸻
夜の帳が深く降り、すべてを静かに包み込んでいる。
聞こえるのは、壁の向こうで揺れる草木の音と、スメラギの浅い呼吸だけ。
その枕元に、レンがそっと身を寄せていた。
闇に溶け込むように、静かに手を伸ばす。
ふれたのは、スメラギの頬——その肌はまだ冷たく、けれど確かに、生きていた。
「……大丈夫」
囁くような声だった。
でも、その声には、揺るがない温もりがあった。
「先生が、全部話してくれて……俺は、すげぇ、嬉しかったよ」
言葉の意味が届いているかはわからない。
それでも、レンはまっすぐにそう伝えた。
「だから……もう、一人で悲しまないで」
そのときだった。
スメラギのまぶたが、かすかに——ほんのわずか、揺れたように見えた。
ほんの一拍。夢かもしれない。見間違いかもしれない。
それでも、レンの心には確かに、その瞬間の温度が触れていた。
目を閉じたままのスメラギの表情が、どこか少しだけやわらいで見える。
夜は、静かに、深く、沈んでいく。
けれどその底には、確かに灯るものがあった。
小さな、小さな火。
手のひらに包めるほどの希望の灯が、そこに、ほんのわずか——確かに、あった。
そしてそれは、また訪れる朝へと、繋がっていく。
この夜を越えたら、きっと彼らはもう前のようには戻れない。
でも、“進むしかない”ことも分かっている。
それでも、希望はどこかに残る。
この夜が、誰かの“想い”によって救われたから。
レンは、スメラギの身体をそっと抱き上げたまま、ベッドへと歩を運ぶ。
腕の中の体は軽く、そして、異様に冷たかった。
ゆっくりと寝かせたあとも、離れることができず、そのままベッド脇の椅子に腰をかける。
スメラギの呼吸は浅く、不安定に胸が上下している。
閉じられた瞼はぴくりとも動かず、その横顔は、まるで命の火が細くなっているように儚かった。
レンは拳を握りしめ、心の底から願った。
――この人の抱えるものを、少しでも背負えたらいいのに。
千年前からの孤独。誰にも言えなかった真実。
図らずも世界を陥れてしまった罪。たった一つの愛を欲しがったが故の。
手に入れたと思ったものの裏切り。それすらも、己の過ちだと責めて。
そんな数多のものを、こんな身体に、たった一人で抱えてきたなんて。
(……それなら、俺が)
レンは、そっとスメラギの手を取った。
冷たい。まるで人の体温を忘れてしまったかのように、熱がなかった。
それでも、レンは離さない。握った手を、ただ静かに、優しく包み込む。
「……ミナトさん、大丈夫。俺がいる」
言葉は小さく、けれど、ひとつぶも揺らがなかった。
「もう、一人になんて、しないから」
誰に聞かせるでもなく、神にもすがらず、ただその人に届くように。
レンは、スメラギの眠る手のひらに向かって、祈りを込めた。
言葉よりも深く。願いよりも強く。
静かに椅子に腰掛けたまま、少しでも動けば夢から彼を醒ましてしまう気がして。
「……ミナトさんは、今……何を見てるんだろうな……」
声は独り言のようで、けれど誰かに聞いていてほしい心でもあった。
――俺が、そばにいる。
もうずっと。
絶対に。
この人を、ひとりきりになんて、させない。
そう決めた。
そしてその決意は、ただの少年の叫びではなく、
この夜を越えた先へと続く“約束”になった。
スメラギのかすかな吐息が、安らかに整っていく。
レンは、その手を離さなかった。
夜が明けるまで、ずっと。
⸻
夜の薬草園には、淡く、ほのかな光が咲いていた。
宵の風に揺られた魔草たちが、しゃらり、しゃらりと葉を触れ合わせ、微かな音を奏でている。
耳に届くのは、その静かな音だけだった。虫の声もない、どこか切なく、痛みに寄り添うような夜。
キュウビは、園の片隅の石壁にもたれ、煙管煙草をくゆらせていた。
拳に巻かれた包帯は、幾重にも重なっている。殴りつけた壁の冷たさと硬さで、皮が裂け、骨にまでヒビが入った。
だが、痛みはなかった。
いや、痛みなんて、とうの昔に置き去りにしてきた。
「……俺はな」
煙の向こう、呟くような声が零れる。
「信じたかったんだよ、アイツを。……どこの誰が見放したって、何度でも、俺を信じ続けてくれた……あの人をさ」
紫煙が揺れ、キュウビの瞳を隠す。
「それなのに……なんで……俺は……」
言葉の輪郭が、濁った。
それは笑いにもならず、怒りにもならず、ただ無力な魂が吐き出した、敗北の声だった。
少し離れた場所では、カナメがしゃがみ込み、膝を抱えるようにしてうずくまっていた。
視線の先には、咲きかけた“夜の風草”。
揺れるたびに淡く光るその花は、まるで彼女の内側の震えを映しているようだった。
「……私が訊かなければ」
ぽつりと、涙の代わりに落ちた言葉。
「先生は……あんな顔、しなかったのに」
震える声。震える肩。
「でも……でも、“訊かなきゃよかった”なんて……そんな風に逃げたくない……。私……っ」
喉に詰まった思いが、そこで途切れた。
思考も感情も、行き場を失って、彼女を内側から引き裂いていた。
震える手を伸ばしても、誰の背中にも届かない。
だから彼女は、ただ膝を抱きしめることしかできなかった。
二人の間に降りた沈黙は、冷たいものではなかった。
風に揺れる魔草たちの呼吸のように、優しく、けれど寂しく、その場を包み込む。
誰も何も癒せないまま、
それでも、ほんの少しだけ——夜に溶けていく。
⸻
私室の灯りは、一本のランプだけ。
柔らかな灯りが書類の山を照らし、蒸気の抜けた茶のカップには、微かに紅の縁が残っている。
冷えた空気が、夜の終わらなさを静かに物語っていた。
アクタビは、スメラギが残した術式の図面を指先で持ち上げ、ふと視線を窓の向こうへとやった。
そこには、遠いどこかで見た夜空によく似た、淡い星の連なりがあった。
懐かしいようで、まるで別物のようで。
けれど、それでも変わらない星のまたたき。
アクタビは小さく、ため息のように笑った。
その笑みには、拭えぬ寂しさと、それでもなお人を想う者の、どこかあたたかい影が滲んでいた。
「……物語ってのは、時に、残酷すぎるよね」
誰にも届かぬような独り言。
「それでもさ、歩くんだよ。誰も彼も。あの子たちも、スメラギも」
「“結末を知らずに”進むんだ。……だから、見てなきゃ」
手にしていた図面をそっと机に戻す。
乾いた紙の手触りが、ひどく遠く感じられた。
アクタビは身を屈め、ランプの光の下でそっと額を机に預ける。
「……見守る者ってのも、楽じゃないねぇ……」
疲れた声だった。
でもその奥には、どこか優しい覚悟があった。
夜は、まだ、終わらない。
けれど、その向こうにはきっと、“朝”がある。
そして、それを誰よりも信じているのが、彼女だった。
だから、見ている。
誰よりも遠く、
誰よりも近くで。
⸻
夜の帳が深く降り、すべてを静かに包み込んでいる。
聞こえるのは、壁の向こうで揺れる草木の音と、スメラギの浅い呼吸だけ。
その枕元に、レンがそっと身を寄せていた。
闇に溶け込むように、静かに手を伸ばす。
ふれたのは、スメラギの頬——その肌はまだ冷たく、けれど確かに、生きていた。
「……大丈夫」
囁くような声だった。
でも、その声には、揺るがない温もりがあった。
「先生が、全部話してくれて……俺は、すげぇ、嬉しかったよ」
言葉の意味が届いているかはわからない。
それでも、レンはまっすぐにそう伝えた。
「だから……もう、一人で悲しまないで」
そのときだった。
スメラギのまぶたが、かすかに——ほんのわずか、揺れたように見えた。
ほんの一拍。夢かもしれない。見間違いかもしれない。
それでも、レンの心には確かに、その瞬間の温度が触れていた。
目を閉じたままのスメラギの表情が、どこか少しだけやわらいで見える。
夜は、静かに、深く、沈んでいく。
けれどその底には、確かに灯るものがあった。
小さな、小さな火。
手のひらに包めるほどの希望の灯が、そこに、ほんのわずか——確かに、あった。
そしてそれは、また訪れる朝へと、繋がっていく。
この夜を越えたら、きっと彼らはもう前のようには戻れない。
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それでも、希望はどこかに残る。
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