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第九章 語られるは、楔の呪い
85 開いたのは、真実の扉
しおりを挟む診察室に、深く重たい沈黙が満ちていた。
椅子に浅く腰掛けたままスメラギはほとんど意識を失っている。
その頬には、一筋の涙の跡。冷えきった肌に刻まれたそれは、もう乾きかけていた。
レンはその身体を、まるで壊れ物のように抱きかかえたまま、微かに揺らしていた。
幼子をあやすように、そっと、ゆっくりと。
呼びかけることも、泣き声を上げることもせず、ただ静かに——。
カナメも、キュウビも、言葉を失っていた。
あまりにも深い真実を前に、踏み込んでしまったという後悔だけが胸の奥で膨らんでいく。
何もできなかった。
いや、“何かをしてしまった”からこそ、動けなかった。
二人が呆然と立ち尽くしているときだった。
乾いた音が、空気を切った。
アクタビが、手を一つ、軽く打ち鳴らす。
「はいはい、解散」
あまりに場違いな調子で始まったその声に、思わず誰もが顔を向けた。
「坊や、スメラギをそこのベッドに寝かせてくれる? キュウビに、子猫ちゃん。あんたらは、とりあえず向こうの部屋に行ってな。邪魔だよ」
その言い草は、まるで日常の延長だった。
いつもと変わらぬ、気の抜けた口調。
けれど不思議と、誰一人として逆らおうとしなかった。
そう——それがアクタビ・ガラスという存在の、本質だった。
「それとね……そのままじゃ潰れるよ、あんた達」
メガネの奥の視線が、じっとカナメとキュウビを射抜いた。
その目に浮かぶ真意は、誰にも読みきれない。
「選んだことを後悔しても、もう、仕方がない」
静かに。けれど、否応なしに心に突き刺さるように。
誰も言葉を返せない。
その場の空気ごと、感情がすべて固まっていた。
アクタビは最後に、ぽつりと続けた。
「……ここにいる皆、今夜はウチに泊まりな。知ってしまった事実に、若い心が押し潰されないように。これは命令だ、いいね」
その“気遣い”のような一言が、かえって残酷に響いた。
⸻
診察室を後にしたカナメとキュウビは、並んで歩くことすらできなかった。
無理もなかった。
背負った現実の重さが、まだ身体に馴染まない。
ただ押しつぶされまいと、立っているだけで精一杯だった。
「……わたし……なんてことを……」
ぽつりと漏れたカナメの独白に、キュウビの肩がわずかに揺れた。
彼の瞳に、鋭い閃光のような怒りと後悔が走る。
けれど、それを飲み込むようにして、彼は唇を強く噛みしめた。
「……違ぇ……」
掠れた声が、空気を震わせる。
けれど誰にも向けられたものではなかった。
「違う……俺は、あいつを、追い詰めるつもりなんかじゃ……なかった……ッ!」
俯いたその顔には、苦悶の色が濃く滲んでいた。
「……でも……ほんの一瞬でも……俺の中に、“まさか”って思いが……あったんだよ……!」
言葉が怒号へと変わる。
怒鳴るように吐き出した次の瞬間、キュウビは振り上げた拳を壁に叩きつけた。
乾いた衝撃音。
石膏の壁に血が滲む。拳は白く、微かに震えていた。
「なんで……なんで、俺は……ミナトを……一瞬でも疑っちまったんだ……、どうしてっっ!」
その叫びは、誰にも届かない。
だからこそ、それは呪いのように、キュウビの心に深く刻まれていく。
⸻
その隣で、カナメは、ただ静かに地に座り込んでいた。
もう言葉を発することさえ、怖かった。
喉の奥が焼けつくように痛む。
それでも、どうしても声が出てしまう。
「……私が……訊かなければ……」
それは、崩れそうな声だった。
「……何も……壊れなかったのに……」
頬に手を当てる。けれど、震えが止まらない。
誰かの腕にすがろうとして、空を掴んだ手が宙で止まる。
その手は、ただ静かに落ちた。
そして代わりに、頬を涙が伝う。
拭おうとしない。
涙はただ、現実を静かに肯定するように、流れ続けた。
⸻
――そして、彼らの心の中には、深く、長く、暗い影が、落ちた。
それはすぐには癒えない。
けれど、それでもなお彼らは、真実の扉を、開けてしまったのだった。
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