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しおりを挟む左の薬指にはめたリングは、未練の証。外す事が出来ない、自分から切る事の出来なかった絆。未だ、そのリングにすがりついている。いつか再会できると信じて。
ふっと息を吐く。自分の左の薬指に光るリングに、よみがえる記憶、脳裏をよぎる影。未だに捨てられぬ恋の形見。
忘れられない、恋をした。
後悔ばかりが胸に残る恋だった。
けれど、思い出せば痛いほどに切なく、甘く胸を刺す。五年が経った、今もなお。
届かない声、つながらない電話、所在もわからず、全ての手がかりが途絶えたあの日。
何度も忘れようとした。心の中で何度もなじった。この手が届かない苦しみが辛くて、忘れたかった。けれど、それさえ叶わないのだと、つのる想いに思い知らされた。
今もまだ、求めている。
もし、もう一度、偶然に出会えたなら。
そんな夢を見ている。
まだ、諦めきれずに。
最低の恋をした。忘れられないような、悲惨な思い出しか残っていない恋。
ひどい男だった。浮気を繰り返し、こちらの都合など考えず、嘘ばかりつく、自分勝手な男だった。
けれど、時折すごく優しくて、それがすごくうれしくて、好きで好きでたまらずに尽くして、そして私の心は空っぽになった。どんなに好きでも、どんなに尽くしても、私の心が届く事のなかった恋だった。
このままでは自分がダメになると思って、あの日、私は全てを切り捨てて彼から逃げた。何も言わずに彼の前から姿を消した。
あの日から、私の心は、どこか欠けている。
あの決断を間違ったとは思っていない。あれは、最低の男だった。だから、もう、恋なんて信じない。アレは、自分をダメにする、甘い、甘い麻薬。
もう、二度と会う事のない人だ。
未だに思い出すのは、あんな男に尽くしたという不快感、自分への嫌悪感、無知だった自分が許せないだけ。……ただ、それだけ。
そのとき、なぜ振り返ったのかわからない。
けれど人の流れに流されていた私は、思わず振り返っていた。すれ違ったスーツの男性に何の興味を引かれたわけでもない。でも、なぜか気になった、それだけなのに、吸い寄せられるように振り返ってその姿を追った。
「……留衣?」
視線の先で、その男性が立ち止まり、振り返って私を見るとつぶやいた。
「……上岡、さん」
再会は、突然だった。
五年前、私は大学の入学を機に、彼の前から姿を消した。
上岡孝介、彼は当時付き合っていた五歳年上の恋人だった。彼は、最低の男だった。
繰り返される浮気に、重ねられてゆく嘘。さんざん振りまわされては、都合の良い言葉ばかりでごまかしてばかりの、私に対しては口先だけの男だった。
上岡を忘れるために費やしたような大学時代。ようやく吹っ切って過去の事に出来たと感じるまでに三年かかった。就職して一年が経ち、ようやく、彼の事は過去の事になっていた。
痛い思い出だったせいか、時折フラッシュバックをするように思い出す事があったけれど、ただ、それだけの事。
だから、彼の事忘れられなかった訳じゃない。彼を吹っ切れずにいたわけでも、また会いたいなどと思ったわけでもなかった。
なのに。
会社からの帰り道、私は、振り返ってしまった。知らずその姿を追いかけてしまっていた。
「留衣?」
驚いた顔で私を見た彼に、私は呆然と彼の名前をつぶやいた。
「上岡、さん」
突然の再会に、私は言葉を失った。
後で思えば、このとき、いっそ逃げ出してしまえば良かったのだ。
けれど、私は逃げなかった。逃げるという発想さえなかった。もう二度と会う事はないと思っていた人だったから。その状況に、心も体もついて行けずに、ただ呆然と立ちすくんでしまっていたのだ。
「久しぶりだな、元気だった?」
記憶の中とはずいぶんと違う、落ち着いた穏やかな口調だった。けれど声は記憶のまま。
「仕事帰りか? 俺は帰るところだけど、もし、時間があったら、良かったら一緒に食事でも……」
少し遠慮がちに、そして見た事がないほど穏やかな口調で、人当たりが良さそうにしゃべる目の前の男を見ながら、私は、わずかに後ずさる。
私に歩み寄ろうとしていた彼の遠慮がちな笑顔が、わずかに固まった。
「……ごめん。留衣は、俺にあんまり良い思い出はないもんな」
そう言って彼は切なげに微笑んだ。
こんな穏やかに微笑んでしゃべる男なんて、知らない。
私は訳も分からずに、言葉を紡ぐ彼を見る。
「……あのときの事、謝らせてもらいたかっただけなんだ。少しだけ、話し、出来ないかな。食事とか嫌なら、せめてジュースでもおごらせて。自販機の飲み物でも……留衣が好きだった、イチゴミルクでも……ほら、すぐ近くにコンビにあるし」
知らない人のようだった。五年前のような押しつけがましさも、強引さもない。気遣うように、言葉を選びながら私の気持ちを推し量るような距離感。
本当に彼だろうか、とまず疑りたくなるような、それほどの違いがあった。けれど、彼であることは間違いない。顔も声も確かに彼で、そして話している内容もつじつまが合っている。
じゃあ、どうしてこんなに彼は別人のようなのだという疑問が今度はわいてくる。
私をだますための手口じゃないかとか、なんか裏があるのだろうかと私は迷わずに考える。私は、彼に、そう思うだけの事をされてきた。
けれど別人のような彼に、あの頃とは違う好感を覚えていたのも事実だった。
「少しだけで良いから」
私は懇願する彼を前に、うなずく事も、拒否する事も出来ずに立ちすくんでいた。
ゴクリと唾液を飲み込む。
穏やかで優しそうな、かつては恋人だった男を前に、私はおびえていたのだ。
逃げよう、と、ようやく思い至る。
「……ジュース買ってくるから。……待ってて?」
彼は少し寂しそうにつぶやくと、コンビニへと足を向けた。駆け足で店に向かう彼の背中を見ながら、このまま帰ってしまおうと思った。
もう、過去の人だ。話す事なんてない。待つ必要なんてない。
私はゴクリともう一度唾液を飲み込んだ。のどが、からからだった。
震える手を重ねて握りしめる。足が思うように動かない。
早く、早く逃げよう。
そう思うのになかなか体が動かない。話したいと、謝りたいと言った彼の言葉に興味がないわけでもなかった。私は、逃げるのを心のどこかでためらっていた。
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