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真麻一花

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囚心

7


「佐藤さん、この前のあれ、どういうつもり」

 あの合コンを見せつけられた日から三日が経っていた。さすがにもう沸き上がるような怒りはなかったが、涼子に対してにこやかになれるほど落ちついているわけでもなかった。

「どういうつもりって……、仕返しに決まってるでしょ」

 涼子がいかにも楽しそうにクスクスと笑った。その様子に雅貴は苛立ちを隠しきれないまま呟く。

「佐藤さんに仕返しされる覚えはないんだけど」
「あれは、井上くんへの手助けよ。ヒント」

 イラッと来て、「はぁ?」と低い声で詰め寄りそうになるのを必死でこらえる。息をゆっくりと吐きながら、どこまでも感情を逆なでるのが上手な女だと雅貴は思った。

「だから。井上くん、分かってないみたいだから、ヒントをあげたのよ」

 どこまで本気で言っているのか分からないその言葉の後に、涼子が挑戦するように笑いかけて来た。

「井上くん、怒ってるみたいだけど、どうして怒ってるの? 騙した私への怒り? それとも、嫉妬?」
「……え?」

 思いがけない問いかけに一瞬ひるむ。

「百聞は一見にしかず、ってね。井上くん、あなたあの時のこと、怒る権利あると思ってるの?」

 目の前で涼子がじんわりと笑った。視線は雅貴よりも低いというのに、見下ろされているような錯覚に陥る。

「あるだろう。佐藤さんは待ち合わせに来なかったじゃないか」

 わざと話をずらした雅貴に、涼子が笑みを深めた。

「そうね、それは悪かったと思ってるわ。でも私『待ってて』とは言ったけど、私も行くとは言ってないんだけどね。勘違いをさせたことは、悪かったと思っているのよ」

 彼女は話をずらした雅貴の話に乗っては来たが、全く悪いとは思っていない謝罪はおもしろくない。怒る権利の話をはぐらかしたことを追求されることはなかったが、ほっとする反面、屈辱的にも感じた。
 どこまでもイライラする女だと思った。

「……まあ、なんにせよまだまだね。それじゃあ、井上くん。私は仕事に戻るから」

 涼子が笑って背を向けた。
 雅貴は彼女の後ろ姿から目をそらし、拳を強く握った。
 苛立ちが、少しずつ、少しずつ降り積もっていくようだった。



 家に帰ると、雅貴は深く息を吐き、ようやく肩の力が抜ける安堵感を覚えた。
 三匹の家族が雅貴を温かく迎えた。
 彼らがいる。そして、今はここに帰る場所がある。落ち着ける場所がある。
 その安心感を雅貴は噛み締めた。

 家を購入したのは三年ほど前になる。
 家を出たのは一七才の頃。もう、九年が経つのか、と雅貴は家を出てからのことを思い返した。
 家を出るきっかけとなった、義理の母親に押し倒されたあの日がよぎる。

 あの時、義母の拘束から逃げた雅貴に彼女が言った。

父親かれに言おうなんて考えない事ね。あなたが、私を襲ったのよ。彼は、どちらを信じるかしら?」

 嘲笑うような彼女の顔は、今もまだ脳裏に焼き付いている。

 あの日のことを思い出せば、あの時のどうしようもない怒りもまたよみがえる、今も尚忘れられぬ怒りだ。
 高校二年生の頃、義理の母親にレイプされかけた。体がある程度できあがっていた雅貴が、それから逃げるのは容易かったが、一度逃げれば終わる問題ではない。
 彼女の近くにいることがどうしようもなく不快だったし、一緒に暮らすなどとてもではないが出来るはずもない。雅貴はその足で家を出るためにアパートを探した。

 そして父親には理由らしい理由も言わず、気を使うからと逃げるように家を出た。
 そんな息子の態度をどう思ったのか、それとも彼女から何かを聞いていたのか、その時、父親は何も言わずにアパートを借りることを了承した。
 家を出てほっとしたのと同時に、どうしようもない空虚さがおそった。とはいえ、気が楽になったのは間違いのないことであったのだが。

 家を出てほっとしたのもつかの間、すぐに家に置いてきた犬たちのことが心配になった。家にいる犬は全て雅貴が拾ってきた犬だった。そして、母親が死んだとき、仕事ばかりで帰ってこない父よりも、ずっと雅貴の支えになったのが犬たちだった。

『あなたが責任を持つのよ』

 子供だった雅貴にそう何度も繰り返し言ったのは、犬の飼い方を教えてくれた母親だった。だから、母親の死後はどんなに嫌でも、どんなにやる気がなくても、母親との約束と思い、犬の世話だけはかろうじてしていた。そしてそんな雅貴に、犬たちはそれまで以上に懐くようになった。
 それまでは犬たちが最も懐いていたのが母親だった。お互い、亡くした彼女を補うように、雅貴は犬たちをかわいがり、犬たちは母親に懐いていたように雅貴に懐くようになった。
 犬がいなければ、雅貴が立ち直るにはもっと時間がかかったかもしれなかった。

 だから、犬たちを置いて家を出た時、残していく彼らのことだけが心配だった。義理の母親がまともに犬の世話をするとも思えない。雅貴はすぐにペット可のアパートを探し、父親に了承させた。
 けれど、ワンルームで3匹が雅貴を待って暮らすのには窮屈そうだった。何より、親に家賃を出してもらって暮らす部屋であると思うと、落ち着かなかった。
 義理の母親はもとより、父親も信用できない。父親は、何一つ聞かずに家から出ると言った雅貴を捨てた。
 そう、あれは捨てたのだと雅貴は思っている。会話すら成り立たぬ息子が、家を出たいと言ったのを良いことに、金だけ出せばいいと、捨てたのだ。
 彼はろくに話もしない煩わしい息子より、若くてきれいな妻を選んだのだ。

 捨てた息子に、父親がどれだけのことを融通するかなど、とてもではないが、信用できない。いつ、援助が打ち切られてもおかしくない。雅貴にはそう思えた。
 雅貴の生活の基盤は、自分を疎ましく思っている彼らの考え一つで揺らぐのだ。
 それを肌で感じ、ぞっとした。
 それからだった。
 雅貴は自分の家が欲しいと考えるようになった。犬たちがそれなりに不自由なく暮らせる、そして自分の力で手に入れた、自分の帰る家を求めた。

 バカみたいにアルバイトしながら、気晴らしがてら手当たり次第に女と付き合っていた当時を思い出す。
 あの頃は、それこそ犬たちがいなかったら自分はダメになっていたかもしれないと雅貴は本気で思っている。
 自分の帰りを待つ彼らがいたから、なんだかんだと遊んでも夜には家に帰ったし、朝はどんなに寝不足でも起きて散歩に連れて行っていた。彼らを窮屈なアパート暮らしから開放するためにも、まともな職に就きたかったから勉強もした。あの頃の、まともに生活する意味は、共に暮らしていた犬たちにのみ存在していたのかもしれない。
 犬たちがいなかったら、途中で家が欲しいという執着さえなくしていたかもしれないとさえ思う。

 雅貴は、当時からいる二匹の犬を見つめる。一番辛い時期を支えてくれていた犬たち。

「お前らがいなかったら、俺はどうしてただろうな」

 頭を撫でながら部屋の中を見渡す。
 今の家を手に入れたのは社会人になって二年目のことだった。高校と大学時代にアルバイトで貯めた金と給料とを頭金に、ようやくこの家を購入した。
 古いが、庭の広い、犬たちを安心して飼える家だ。
 それは、ようやく手に入れた、雅貴の帰る場所だった。
 誰に頼ることなく得た、帰ってこられる場所。誰にも奪われることのない場所、大切な犬たちがある程度の自由さを得られる場所。
 ようやく得たこの家は、雅貴の唯一落ち着ける、救いの場所となっている。
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