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01. 真夜中の金曜日

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『 …、っ…ぁ 』



暗い部屋に響く乱れた声。


火照った肌を吸われる度に身体が敏感に反応し大きな孤を描く。それを楽しむかのように彼の愛撫は止まることなく、野獣と化した狼のようにワタシという獲物を無心で貪る。
この日のために買った白のワンピースも、朝出掛ける前にセットした髪も汗でぐちゃぐちゃなってしまった。彼の前では綺麗なままでいたかったのに。


でも今はそんなことどうでもいい。
暗闇でお互いの顔が見えなくても、今の彼はワタシだけを見てくれている。最初に感じた鈍い痛みも、突然目から零れ落ちた熱い涙も、全部快感に変わっていく。



『 …き、…あなたが、すき… 』



声にならない声でそう囁くと彼は優しいキスで応えてくれる。ワタシもそれに応えて彼を強く抱きしめる。


どうかこの夢が現実になりますように。
今はただそれだけを願う。





***





「アタシこの映画嫌いなのよね」



スクリーンに映し出された男女を横目で見ながら呟くと、カウンター越しでグラスを磨いていた人物の手がピタリと止まる。



「嫌なら消しましょうか?」



白のシャツに黒のチョッキを着た典型的なバーのマスターのような中年の男がそう尋ねると私は小さく首を横に振った。



「いいわ。そのままで」



どうせ観ている人なんていないだろうし。
視線をスクリーンから目の前に置かれたグラスへと移し柄に手をかける。洒落た細長いグラスに注がれた淡い琥珀色の液体。底から上へと列になって上がっていく小粒の泡をじっと眺めていると思わず気の抜けた溜め息が漏れた。


店内に流れる音楽に混じって微かに聞こえるリップ音と熱をもった男女の甘い声。ラストオーダーの時間が近づくとこの店のオーナーが気まぐれで自分の好きな映画をBGM感覚で流している。映画を流すことには何の不満もないのだが、見ての通り映画の内容に色々と不満があった。


1人の少女がある男に恋をする。
はじめて人を好きになった無垢な少女。しかしその男は綺麗なものしか興味がない変わり者で、少女は男に気に入られようと自分が持つ財産すべてを美に注ぎ込んだ。
数年後、少女は誰もが目を追うほどの美しい大人の女へと姿を変え、好きだった男にも気に入られ、夢を手にいれる。


という恋愛映画にありがちなベタなラブストーリーなのだが、オーナーがチョイスしてくるものときたら男女が無駄に激しく絡み合う甘ったるいものばかり。いくらこの店が夜の店で、来る客のほとんどが男だとしても、この暗く狭い空間で一晩中働いている私達にはいい迷惑だった。



「ホントそういうのしか興味ないんだからあのエロオヤジ」
「まぁそれがオーナーですから」



ブツブツと文句を言う私にマスターが苦笑いを浮かべる。
普段は物静かなマスターもこの店に来たばかりの頃はそういうシーンが流れる度に動揺してグラスを何個も床に落として割っていたが、3年も経った今では顔色ひとつ変えず淡々と仕事をこなしている。今も耳だけ私のほうに傾けて黙々とグラスを磨いている。



「よぉ、シェリー」



突然名前を呼ばれ肩越しに降り返ると、紫色の瞳に質の良さそうなスーツを着た若い男が背後に立っていた。
見覚えのある顔が満面な笑顔でこっちを見た瞬間、私の眉間にシワが寄り「げっ」という言葉の後に崩れていた接客スマイルがさらに崩れた。



「おいおい、何だよその顔。それが客に対する態度かー?」



癇に障るヘラヘラした顔を近づけてくるその男に「うるさいわね」と短く切り捨てると目を合わせないよう正面へと向き直る。
彼の名はキース。この店の常連客で、古くから私の客。顔も身なりも良く羽振りも良いことから店の女の子達に人気で、いつも彼の周りには花が咲いている。まぁ彼との付き合いが長い私から言わせてもらえば、酒と女が好きなどこにでもいるただの遊び人とあまり変わらない男だ。



「アンタこそこんな時間に何しに来たのよ」



時計の針はすでに午前0時をまわっている。いつもなら仕事が終わった後即効で店に飛んで来るはずの彼が今日は随分と遅い来店だった。



「そりゃあもちろん女王様のご機嫌伺いに♪」



そう言って隣の椅子に腰かけると、無防備だった私の手を取りそっと手の甲に唇を寄せた。これが彼なりのご挨拶。こういうキザで紳士的な振舞いに他の女の子達は骨抜きにされ気付いた時には彼の虜になっている。
でも私は違う。そこらへんの安っぽい女と一緒にしないでほしい。



「で?アタシに何の用だって?」



彼を軽く睨みつけ握られた手を振り解くと、傍らに置いてあった濡れタオルで唇が触れた部分を念入りに拭き取る。



「ちぇ、相変わらず可愛くないヤツ」



私にその気がないと分かると、キースは普段女の子達の前では絶対見せないような不良ヅラを浮かべ軽い舌打ちをした。そしておもむろに取り出したタバコを口に咥えライターで火をつける。



「別に。たまたま今日が金曜日で、たまたま行きつけの店がどこも閉まってて、たまたま開いてる店がここだけだったから来ただけさ」



ふーっと天井に向かって吐き出したタバコの煙が宙を舞う。
そういえば今日は金曜日。この日だけは決まって彼はいつも仕事で遅くなる。仕事後の疲れているのか、それとも夜遊びのし過ぎなのか、彼の目の下には薄っすらと疲れがでていた。



「忙しいなら無理して来なくてもいいわよ」
「バーカ。お前のためなんかじゃねーよ」





一応彼のことを気遣ってかけた言葉のはずなのに、無碍にも彼はそれを鼻で笑った。



「俺はただマスターの酒が飲みたくて来ただけだ。なぁ、マスター?」



その言葉に目の前でリズミカルにシェーカーを振っていたマスターがニコリと笑う。振り終わるとシェーカーのトップを外し、手際良く中に入っていた液体をグラスの中へと注ぐ。



「いつものでよろしかったでしょうか?」
「さすがマスター。分かってる♪」



カウンターに出されたのはキンキンに冷えたマティーニ。透き通った透明の液体の底にはピンに刺さったオリーブが沈んでいる。



「1杯だけなら奢ってやってもいいぜ」
「あら嬉しい」



さっきまで私が飲んでいたグラスが空になっているのに(一応)気付いていたらしく、でもそれはマスターも同じで、すぐに私の分のマティーニも出てきた。でも私のマティーニはキースのとは違う、ほんのりピンク色に色づいたマスターが私のためにいつも作ってくれるオリジナル。
底に沈んだオリーブを口に含むとすかさずグラスの縁に口付け一気に喉へと流し込む。喉が焼けるように熱い。



「そんな一気飲みしてツラくねーの?」
「平気よこれぐらい」



普通の女の子ならピンクやオレンジなんかの可愛らしい色の甘いお酒を好むんだろうが、そんな子供が飲むようなジュースじゃ私は満足しない。
この店のマティーニは他の店よりも度数も高めで味も辛口。今は色んなお酒があって、マティーニを好んで頼む客も最近は少なくなり、私やキースを含めた一部のカクテルファンがたまに飲んでいるのを見かけるぐらいだった。


ジンジンと喉から伝わってくる心地よい熱。今まで色んなお酒を飲んできたが、マスターが作ってくれるこのオリジナルが私の1番のお気に入りだった。



「やべっ、もうこんな時間っ」



すると私そっちのけにマスターと2人で世間話をしていたキースが腕時計の文字盤を見た途端慌てた様子で席を立った。



「もう帰るの?」
「あぁ。明日朝から仕事なんだよ」



珍しい。いつもなら閉店ギリギリまで飲んでいるような男なのに。
本当ももう少し彼の奢りで飲んでいたかったが(1杯だけとか言われたけど)、仕事なら仕方ないかと一言「あ、そう」と言って空になったグラスの縁を指でなぞる。



「お前も今日は早めに帰ったほうがいいぜ。予報じゃこれから朝方まで天気荒れるらしいから」
「え?」



その言葉に思わず後ろを振り返り窓を見る。ずっと店の中にいたせいで気付かなかったが、大きな窓ガラスが雨風に打たれカタカタと音をたてながら揺れていた。嵐でも近付いてきているのだろうか。遠くでゴロゴロと雷が鳴っているのが聞こえた。



「大荒れにならないうちに帰るわ。気が向いたら来週の金曜日も来てやるよ」
「だから来なくていいって言ってるでしょ」



彼が2人分の代金をテーブルに置くと、そう言って私とマスターに手を振りそそくさと店を出て行った。
その数分後、キースの言う通り天気はさらに悪化し、バケツを引っ繰り返したような大雨が振ってきた。



「すごい雨」



容赦なく店の屋根を叩きつける雨とすぐそこまで近付いてきた雷の音が店内に響く。この天気を察してか、気付けば客は1人も残っておらず私とマスターだけしかいなかった。



「マスターは帰らないの?」
「このグラスを磨き終えたら帰りますよ」



家で妻が寝ずに待っていますから、と遠まわしに惚気を呟くマスターに今度は私が苦笑いを浮かべる。



「シェリーさんは今日もお店に泊まっていかれるんですか?」



その言葉に一瞬身体がピクリと反応する。首を傾げこっちを見るマスターに私は無言で視線を逸らす。
別にこの後何かあるわけではないが、何となく金曜日の夜は家に帰りたくなくなる。それにこんな大雨の中を歩いて帰れば全身びしょ濡れになるのは目に見えているし、それなら雨が上がるまで店にいたほうが安全だ。


急に静かになった私を見て察したのかマスターはそのまま口を閉じ、最後のグラスを棚に戻すと店の外に出て扉のドアノブにかけてあった看板をopenからcloseにひっくり返し内側から鍵をかける。扉を開けた瞬間、強い風と雨が店の中に吹き込みマスターの服と髪を濡らす。



「本当すごい雨ですね。私も早く帰らないと」



マスターはカウンターの上に店の鍵を置くと「最後戸締りと灯りの確認だけお願いしますね」と言って静かにバックヤードへと消えていった。マスターが去った後カウンターを照らしていた黄色い灯りも消え、店内がまた一段と薄暗くなる。



「………はぁ」



周りに誰もいなくなると脱力感と共に疲れを身体に感じる。
席を立ち大きく伸びをすると、ふと静まり返ったホールに目をやる。ほのかな暖気とアルコール臭が漂うホールには、4人掛けのテーブル席が数席とスポットライトに照らされた小さなステージがある。今は誰もいないこのホールもついさっきまでは全席が埋まるほどの客と賑わいがあった。


客のお目当てはもちろん、女。
綺麗なドレスを着て、ステージで踊りを披露する女を酒の肴に彼等は集まる。中でも<女王>と呼ばれる女は踊り以外にも生まれながらの美貌を売りに多くの客から人気を集めている。


そう、それが私。
かれこれ5年ちかく<女王>としてステージで踊り続けている。男が喜びそうな大胆な衣装も靴擦ればかりしていたヒールの高い靴も今は自分の身体にしっくりと馴染んでいる。


この店が、あのステージが、私が自身を魅せられる唯一の居場所。子供の時から憧れていた私の夢。


でも私は知っている。
夢はいつか終わる儚いものだと。



『 嘘つき! 』



静まり帰ったホールに響く高い怒声。すっかり忘れていたが店内にはまだあの映画が誰にも観られることなく流れ続けていた。


スクリーンのほうに目を向けると、映画はクライマックスを迎えていた。何回も観せられたおかげで内容も台詞もすべて覚えてしまったが、やっぱり何度観てもこの映画は好きにはなれなかった。
この映画が嫌いな理由、それはこの物語がハッピーエンドで終わらないということ。


男にはもう1人別の女がいた。
特別綺麗なわけでも醜いわけでもないごく普通の、子供の頃から好きだった幼馴染が。
それを知った少女は当然激怒。そこに愛らしい少女の面影はなく、男の瞳に映るのは怒りと殺意に狂った女の顔だった。



『 ワタシのこと好きだって言ったくせに…っ 』


女の手にはナイフが握られ、ギラリと鋭く光る刃は真っ直ぐ男のほうへと向けられている。
少しずつ前へと進み寄る女と、恐怖のあまり腰を抜かし後ろ向きに地面を這いずる男。そして男の背中が壁にぶち当たり逃げ場がなくなると、女はその瞬間口元に微かな笑みを浮かべた。そしてナイフを高く振りかざし-、





プツンッ―、





突然スクリーンが真っ暗になり、ホールに静寂が流れる。



「ホントくだらない」



嫉妬に溺れた女の末路など見て何が面白いのか。思わず映画を映し出していたプロジェクターのコードごと足で抜いて切ってしまう。



「だから男は嫌いなのよ」



何も映っていないスクリーンに向かってそう吐き捨てると、項垂れるようにテーブル席のふかふかのソファに腰掛けた。
耳触りな声が消え、窓を叩く雨と風の音だけがホールに響く。その音が妙に心地よく聞こえ、だんだん瞼が下に下がってくる。


最後に飲んだオリジナルのお酒が効いたんだろうか。いつもなら余裕で夜通し起きていられるのに今日はやけに眠気を感じる。


髪をまとめていた紐と薔薇の髪飾りを取り履いていたヒールを無動作に脱ぐと、そのまま倒れこむようにソファに横たわる。こんなだらしない姿店の誰かに見られたら、と一瞬脳裏を横切るが一度横になってしまうともう身体が言うことを聞かない。横向きの姿勢からゴロリと仰向けになり、黒い天井からぶら下がった悪趣味なシャンデリアンを見つめた後そっと目を閉じる。


真夜中の金曜日。
時刻は午前1時をまわったところ。


ここにはもう誰も来ない。 
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