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第21話 正道院のカリカリラスク 2
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エレノアとカミラはキッチンで、パンを切り分けていく。
どうやって切るか悩んだのだが、薄く切れば食べやすいが割れやすい。個包装が出来ないため、四角形に切り分けていく。
こうすれば、袋に入れて持ち運ぶことが出来るからだ。
「こうやって切ったのをオーブンで乾燥させていくの。その間に味付けの準備をしましょうね」
バターと砂糖を溶かしたもの、バターと塩にバジルを加えたもの、二種類の味をエレノアは用意した。バジルは先日、第一庭園から貰ってきたものを乾燥させたものを使う。ハーブを使いたいというエレノアに驚いたものの、ラディリスたちはバジルを分けてくれたのだ。
バターに入れた砂糖もしっかりと溶かす。エレノアとカミラは刷毛でそれを、乾燥させたパンに塗って再び、オーブンへと入れた。
まずは甘いラスクから焼き始める。
「こんがりと色がついて美味しそうですね」
「これはラスク、二度焼きするっていうのが語源だそうよ。甘いのもいいけど、しょっぱいのもいいかと思って二種類にしたの」
オーブンに入れたラスクは焼けて、甘い香りを漂わせる。
キャラメル状にしても良いのだが、食べやすさと買いやすさを今回は重視した。
エレノアとしても、街の人々に菓子を食べて欲しいという気持ちがあったのだ。
そこで、ラスクが浮かんだ。甘いものではあるが、パンから出来ているため満足度も高い。そんなラスクであれば、抵抗感も薄れるのではとエレノアは考えたのだ。
「懐かしいな。昔、良く作ったっけ」
小さな声でエレノアは呟く。
幼い頃、祖母が余った食パンやパンの耳を揚げたり、トースターで焼いてくれた。
スーパーで買える菓子も嬉しかったが、祖母が作ってくれるということは幼いハルにとって特別なことだった。
そんな思い出がハルが菓子作りにハマっていくきっかけでもあったのだ。
《おい、清らかな魂の子! そろそろ、良いのではないか?》
「あ、本当だわ。流石、よく鼻が利くわね!」
《我は犬や狐では……うむ、だが良い香りだな!》
今日もまたドアの隙間から覗くシルバーは、鼻を覗かせ、しっぽをぱたぱたと揺らす。その様子にくすりと笑いながら、エレノアはオーブンの様子を確かめる。
シルバーの嗅覚通り、ちょうど良い焼き加減のラスクにエレノアはオーブンを開ける。二段重ねのオーブンなので、一度にたくさん焼けるのだ。
次はバターと塩、バジルで味を付けて、再びオーブンに入れた。
甘い方は金網の上で粗熱を取る。
出来栄えは上々で、見た目もこんがりと食欲を誘う。何より、パンであることでや家族と分け合えることで、マドレーヌより買い求めやすくなるはずだ。
オーブンでは次のラスクが焼けていく。
待ち遠しそうにオーブンを覗くエレノアの姿に、カミラもくすくすと笑うのだった。
*****
焼きあがったラスクをエレノアとカミラは試食する。
カミラがいれた紅茶の香りと甘いラスクはよく合う。
ビスケットのように厚めに切ったラスクはざくざくとした食感と、バターの風味が良い。バジルを使った方はしょっぱさと香草の風味、バターが染みて味わい深い。
「どちらも良い味だわ。お菓子というと間食になるけれど、これなら軽食代わりにもなりそうだわ」
「はい。甘いものはもちろん、酒を嗜む者でしたら、こちらの塩気のあるものも人気が出ると思います」
「まぁ、それは私にはなかった視点だわ。ありがとう、カミラ」
「いえ、お役に立てて何よりです……!」
甘味と塩気、二種類の味があることでマドレーヌ以外の選択ができる。
見た目が華美でないことで、気軽に買えそうな雰囲気になるだろう。何より、仕入れ過ぎたパンで作ったのだ。価格も抑えられるのが魅力である。
「これなら、購入しやすくなるんじゃないかしら」
《うむ、ここに足を運び、神に願う人々が増えると世界は安定し、我の力も増える! でかしたぞ、清らかな魂の子!》
ぱたぱたと嬉しそうにしっぽを振るシルバーは、甘いラスク、しょっぱいラスクと交互に食べている。
「神に祈る人が増えると世界は安定に向かう」それは以前聞いたが、シルバーの力が増えるというのは初耳である。
詳しく聞きたいエレノアだが、シルバーはラスクに夢中である。
《甘いのを食べるとしょっぱいのが欲しくなるし、しょっぱいのを食べると甘いのが欲しくなる! くっ、なんて罪深い食べ物なのだ……!》
サクサクガリガリと頬張る姿を止めるのは忍びなく、エレノアはシルバーには次の機会に聞けばいいと紅茶をもう一口飲むのだった。
その夜、再びエレノアはカミラと共に使用人用の厨房へと向かう。
なかなか、カミラ以外の者と話す機会のないエレノアにとって、菓子作りを共にしたマーサたちは貴重な話し相手でもある。
今日は二種のラスクも持って来た。感想を聞くためでもあり、彼女たちを気にしてのことだ。エレノアは初めて会ったとき、硬いパンを分け合おうとしていた三人の食事状況が気になっていた。
「今夜も誰かが祈っているのね……ねぇ、カミラ。これを一つあちらに置いてきてはくれないかしら」
そう言ってエレノアは袋に入ったラスクをカミラに一つ差し出す。
ここを通るたび、祈っている誰かの存在はエレノアにとっても気にかかるものだった。幸い試作のラスクはまだ十分にある。
「ですが、お一人で厨房まで向かわれるのは……」
「もうすぐそこでしょう? 大丈夫よ。カゴだって一人で持てるわ」
「かしこまりました。すぐ戻りますので」
足早にカミラは祈祷舎に向かい、エレノアは使用人用の厨房へと向かう。
そこにはいつもと同じように灯りが見えた。
カゴに入ったラスクを抱きしめたエレノアの口元には、自然と笑みが浮かぶ。
小さくドアをノックして、エレノアは使用人用厨房のドアを開けた。
「美味しそうです! 本当に頂いていいんですか!?」
「マーサ……少しは遠慮をなさい」
満面の笑顔でラスクを受け取るマーサを、ペトゥラが嗜める。その後ろでエヴェリンはこちらに申し訳なさそうな視線を向ける。
だが、エレノアとしてはマーサの反応は嬉しいものだ。自分の作った菓子を喜んでもらえる。それは幼いエレノアが菓子作りにハマったきっかけでもあった。
「いいのよ。試作品だから、味を確認して貰えると嬉しいわ。片方は甘くって、もう片方はバジルと塩で味付けしているの」
「じゃあ、ご飯の代わりにもなりますね! 私たち、あんまり食事が出来ないから助かります」
「マーサ! ……あ、あの、忙しいので食事をする時間がないのです」
なぜかペトゥラは慌てたように理由を説明するが、マーサはおろおろと口元を押さえる。その様子にエレノアはある疑問が浮かぶ。
マーサたちが仕えているのはクーパー侯爵家だと先日、彼女たちから聞いた。
であれば、多忙であっても食事に困ることはないはずだ。
にもかかわらず、出会った日も彼女たちは貴族用厨房から余った固いパンを貰ってきたのだ。その理由がエレノアにはわからない。
にこにこと嬉しそうに紙袋に入れられたラスクを抱えるマーサに、それ以上追及することも出来ず、しばらく話をしたのち、迎えに来たカミラと共にエレノアは厨房を後にするのだった。
*****
自室に戻ったエレノアの腕の中にはシルバーが納まっている。
椅子に腰かけると、カミラにクーパー侯爵家の状況について尋ねる。
エレノアとしての記憶にもクーパー侯爵家の情報はあまりないのだ。
侯爵家という身分でありながらも、あまり目立たない印象で自身より少し上の年齢にスカーレットという名の令嬢がいることくらいしか、エレノアの記憶にはない。
そう告げるとカミラは僅かに困ったような表情を浮かべる。
「……それは旦那さまもカイルさまも、エレノアさまを大事にお思いのため、お耳に入れたくないご様子でしたので」
「クーパー侯爵家は有名だったかしら?」
頬に手を当て、記憶を辿ろうとするエレノアだが、やはり思い出せない。
クーパー侯爵家はその爵位の高さの割に、目立った功績は近年ない。その分、安定して領地経営も役職も務めていたはずだ。
おそらくスカーレットが正道院に送られる出来事が問題なのだろう、そうエレノアは推測する。
だが、その話はどうやら父も兄が周囲に言い聞かせたのか、エレノアの耳には入って来ていない。
「いえ、有名になってしまった、というのが正しいでしょうね」
クーパー家が注目されたのには、ある理由がある。
それはこの聖リディール正道院に、娘スカーレットが過ごす原因ともなった事件にあった。
しかし、それならば他の令嬢たちも同じ状況、なぜこの話を周囲が伏せたのか。エレノアにはそれがわからないのだ。
「スカーレット侯爵令嬢が、婚約者相手に刃傷事件を起こしました」
「にんじょうじけん……」
いまいちピンと来ていないエレノアに、仕方なくもう少し詳しく事件についてカミラは説明をする。同じ正道院内で過ごしているのだから、会う可能性もある。何より、マーサたちはそのスカーレット侯爵令嬢のお付きの者なのだ。
「当時の婚約者を刺そうと、刃物を持ち出したそうです」
「……えぇ……?」
エレノアは無意識にぎゅっと白い狐を抱きしめる。
攻撃魔法を行使しようとしたエレノアだが、あれはあくまで脅しであり抗議の意思だ。エレノアとて、本当に使うつもりではなかったのだ。
ましてや、婚約者となれば家格も同じ、家同士の問題にも発展しかねない。
「その事件でお相手はひどく抗議なさって、その影響は他の貴族にも及び、多くの貴族研修士とその使用人から距離を置かれている――私にはそのように見受けられました」
その言葉に先程、使用人用の厨房でエレノアの抱いた疑問が解ける。
高位貴族であるはずのクーパー侯爵家へは、元婚約者の影響もあり、風当たりが強いのだろう。
そんな影響をここにいる間、使用人であるマーサたちも受けているのだ。
真夜中の菓子作りはエレノアにとって、気の休まる時間だった。
そんな時間を共に過ごした三人の状況を知り、エレノアは長い睫毛を伏せる。
試作品のラスクは少しでも彼女たちの役に立つのだろうか。
無邪気なマーサの笑顔を思い出し、エレノアは胸が痛むのであった。
どうやって切るか悩んだのだが、薄く切れば食べやすいが割れやすい。個包装が出来ないため、四角形に切り分けていく。
こうすれば、袋に入れて持ち運ぶことが出来るからだ。
「こうやって切ったのをオーブンで乾燥させていくの。その間に味付けの準備をしましょうね」
バターと砂糖を溶かしたもの、バターと塩にバジルを加えたもの、二種類の味をエレノアは用意した。バジルは先日、第一庭園から貰ってきたものを乾燥させたものを使う。ハーブを使いたいというエレノアに驚いたものの、ラディリスたちはバジルを分けてくれたのだ。
バターに入れた砂糖もしっかりと溶かす。エレノアとカミラは刷毛でそれを、乾燥させたパンに塗って再び、オーブンへと入れた。
まずは甘いラスクから焼き始める。
「こんがりと色がついて美味しそうですね」
「これはラスク、二度焼きするっていうのが語源だそうよ。甘いのもいいけど、しょっぱいのもいいかと思って二種類にしたの」
オーブンに入れたラスクは焼けて、甘い香りを漂わせる。
キャラメル状にしても良いのだが、食べやすさと買いやすさを今回は重視した。
エレノアとしても、街の人々に菓子を食べて欲しいという気持ちがあったのだ。
そこで、ラスクが浮かんだ。甘いものではあるが、パンから出来ているため満足度も高い。そんなラスクであれば、抵抗感も薄れるのではとエレノアは考えたのだ。
「懐かしいな。昔、良く作ったっけ」
小さな声でエレノアは呟く。
幼い頃、祖母が余った食パンやパンの耳を揚げたり、トースターで焼いてくれた。
スーパーで買える菓子も嬉しかったが、祖母が作ってくれるということは幼いハルにとって特別なことだった。
そんな思い出がハルが菓子作りにハマっていくきっかけでもあったのだ。
《おい、清らかな魂の子! そろそろ、良いのではないか?》
「あ、本当だわ。流石、よく鼻が利くわね!」
《我は犬や狐では……うむ、だが良い香りだな!》
今日もまたドアの隙間から覗くシルバーは、鼻を覗かせ、しっぽをぱたぱたと揺らす。その様子にくすりと笑いながら、エレノアはオーブンの様子を確かめる。
シルバーの嗅覚通り、ちょうど良い焼き加減のラスクにエレノアはオーブンを開ける。二段重ねのオーブンなので、一度にたくさん焼けるのだ。
次はバターと塩、バジルで味を付けて、再びオーブンに入れた。
甘い方は金網の上で粗熱を取る。
出来栄えは上々で、見た目もこんがりと食欲を誘う。何より、パンであることでや家族と分け合えることで、マドレーヌより買い求めやすくなるはずだ。
オーブンでは次のラスクが焼けていく。
待ち遠しそうにオーブンを覗くエレノアの姿に、カミラもくすくすと笑うのだった。
*****
焼きあがったラスクをエレノアとカミラは試食する。
カミラがいれた紅茶の香りと甘いラスクはよく合う。
ビスケットのように厚めに切ったラスクはざくざくとした食感と、バターの風味が良い。バジルを使った方はしょっぱさと香草の風味、バターが染みて味わい深い。
「どちらも良い味だわ。お菓子というと間食になるけれど、これなら軽食代わりにもなりそうだわ」
「はい。甘いものはもちろん、酒を嗜む者でしたら、こちらの塩気のあるものも人気が出ると思います」
「まぁ、それは私にはなかった視点だわ。ありがとう、カミラ」
「いえ、お役に立てて何よりです……!」
甘味と塩気、二種類の味があることでマドレーヌ以外の選択ができる。
見た目が華美でないことで、気軽に買えそうな雰囲気になるだろう。何より、仕入れ過ぎたパンで作ったのだ。価格も抑えられるのが魅力である。
「これなら、購入しやすくなるんじゃないかしら」
《うむ、ここに足を運び、神に願う人々が増えると世界は安定し、我の力も増える! でかしたぞ、清らかな魂の子!》
ぱたぱたと嬉しそうにしっぽを振るシルバーは、甘いラスク、しょっぱいラスクと交互に食べている。
「神に祈る人が増えると世界は安定に向かう」それは以前聞いたが、シルバーの力が増えるというのは初耳である。
詳しく聞きたいエレノアだが、シルバーはラスクに夢中である。
《甘いのを食べるとしょっぱいのが欲しくなるし、しょっぱいのを食べると甘いのが欲しくなる! くっ、なんて罪深い食べ物なのだ……!》
サクサクガリガリと頬張る姿を止めるのは忍びなく、エレノアはシルバーには次の機会に聞けばいいと紅茶をもう一口飲むのだった。
その夜、再びエレノアはカミラと共に使用人用の厨房へと向かう。
なかなか、カミラ以外の者と話す機会のないエレノアにとって、菓子作りを共にしたマーサたちは貴重な話し相手でもある。
今日は二種のラスクも持って来た。感想を聞くためでもあり、彼女たちを気にしてのことだ。エレノアは初めて会ったとき、硬いパンを分け合おうとしていた三人の食事状況が気になっていた。
「今夜も誰かが祈っているのね……ねぇ、カミラ。これを一つあちらに置いてきてはくれないかしら」
そう言ってエレノアは袋に入ったラスクをカミラに一つ差し出す。
ここを通るたび、祈っている誰かの存在はエレノアにとっても気にかかるものだった。幸い試作のラスクはまだ十分にある。
「ですが、お一人で厨房まで向かわれるのは……」
「もうすぐそこでしょう? 大丈夫よ。カゴだって一人で持てるわ」
「かしこまりました。すぐ戻りますので」
足早にカミラは祈祷舎に向かい、エレノアは使用人用の厨房へと向かう。
そこにはいつもと同じように灯りが見えた。
カゴに入ったラスクを抱きしめたエレノアの口元には、自然と笑みが浮かぶ。
小さくドアをノックして、エレノアは使用人用厨房のドアを開けた。
「美味しそうです! 本当に頂いていいんですか!?」
「マーサ……少しは遠慮をなさい」
満面の笑顔でラスクを受け取るマーサを、ペトゥラが嗜める。その後ろでエヴェリンはこちらに申し訳なさそうな視線を向ける。
だが、エレノアとしてはマーサの反応は嬉しいものだ。自分の作った菓子を喜んでもらえる。それは幼いエレノアが菓子作りにハマったきっかけでもあった。
「いいのよ。試作品だから、味を確認して貰えると嬉しいわ。片方は甘くって、もう片方はバジルと塩で味付けしているの」
「じゃあ、ご飯の代わりにもなりますね! 私たち、あんまり食事が出来ないから助かります」
「マーサ! ……あ、あの、忙しいので食事をする時間がないのです」
なぜかペトゥラは慌てたように理由を説明するが、マーサはおろおろと口元を押さえる。その様子にエレノアはある疑問が浮かぶ。
マーサたちが仕えているのはクーパー侯爵家だと先日、彼女たちから聞いた。
であれば、多忙であっても食事に困ることはないはずだ。
にもかかわらず、出会った日も彼女たちは貴族用厨房から余った固いパンを貰ってきたのだ。その理由がエレノアにはわからない。
にこにこと嬉しそうに紙袋に入れられたラスクを抱えるマーサに、それ以上追及することも出来ず、しばらく話をしたのち、迎えに来たカミラと共にエレノアは厨房を後にするのだった。
*****
自室に戻ったエレノアの腕の中にはシルバーが納まっている。
椅子に腰かけると、カミラにクーパー侯爵家の状況について尋ねる。
エレノアとしての記憶にもクーパー侯爵家の情報はあまりないのだ。
侯爵家という身分でありながらも、あまり目立たない印象で自身より少し上の年齢にスカーレットという名の令嬢がいることくらいしか、エレノアの記憶にはない。
そう告げるとカミラは僅かに困ったような表情を浮かべる。
「……それは旦那さまもカイルさまも、エレノアさまを大事にお思いのため、お耳に入れたくないご様子でしたので」
「クーパー侯爵家は有名だったかしら?」
頬に手を当て、記憶を辿ろうとするエレノアだが、やはり思い出せない。
クーパー侯爵家はその爵位の高さの割に、目立った功績は近年ない。その分、安定して領地経営も役職も務めていたはずだ。
おそらくスカーレットが正道院に送られる出来事が問題なのだろう、そうエレノアは推測する。
だが、その話はどうやら父も兄が周囲に言い聞かせたのか、エレノアの耳には入って来ていない。
「いえ、有名になってしまった、というのが正しいでしょうね」
クーパー家が注目されたのには、ある理由がある。
それはこの聖リディール正道院に、娘スカーレットが過ごす原因ともなった事件にあった。
しかし、それならば他の令嬢たちも同じ状況、なぜこの話を周囲が伏せたのか。エレノアにはそれがわからないのだ。
「スカーレット侯爵令嬢が、婚約者相手に刃傷事件を起こしました」
「にんじょうじけん……」
いまいちピンと来ていないエレノアに、仕方なくもう少し詳しく事件についてカミラは説明をする。同じ正道院内で過ごしているのだから、会う可能性もある。何より、マーサたちはそのスカーレット侯爵令嬢のお付きの者なのだ。
「当時の婚約者を刺そうと、刃物を持ち出したそうです」
「……えぇ……?」
エレノアは無意識にぎゅっと白い狐を抱きしめる。
攻撃魔法を行使しようとしたエレノアだが、あれはあくまで脅しであり抗議の意思だ。エレノアとて、本当に使うつもりではなかったのだ。
ましてや、婚約者となれば家格も同じ、家同士の問題にも発展しかねない。
「その事件でお相手はひどく抗議なさって、その影響は他の貴族にも及び、多くの貴族研修士とその使用人から距離を置かれている――私にはそのように見受けられました」
その言葉に先程、使用人用の厨房でエレノアの抱いた疑問が解ける。
高位貴族であるはずのクーパー侯爵家へは、元婚約者の影響もあり、風当たりが強いのだろう。
そんな影響をここにいる間、使用人であるマーサたちも受けているのだ。
真夜中の菓子作りはエレノアにとって、気の休まる時間だった。
そんな時間を共に過ごした三人の状況を知り、エレノアは長い睫毛を伏せる。
試作品のラスクは少しでも彼女たちの役に立つのだろうか。
無邪気なマーサの笑顔を思い出し、エレノアは胸が痛むのであった。
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