6 / 21
悪役令息(泣き虫)は心溶かされる
しおりを挟む
馬車の扉が開かれると同時に、辺境の空気がふわりと流れ込んできた。花の香りと土の匂い、遠くで鳴く小鳥の声までもがやさしく、まるでひとつの調べのように、フェリクスの胸を満たしていく。
柔らかな足取りで一歩、また一歩と外へ降り立つ。緊張で少し震える足先を、見守るようにアーチェがその傍を並んで歩く。
砂利を踏みしめる音が、やけに大きく耳に届いた。
玄関へと続く道の先、白い外壁と赤茶の屋根瓦を湛えた邸宅の扉が、ゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは──
「ようこそいらっしゃいました。アーチェのお友達ね」
やわらかな微笑みとともに出迎えたのは、一人の女性だった。
亜麻色の髪は、光を受けて絹糸のようにきらめいている。肩から背中に流れるその髪を、飾り気のない編み込みでまとめた姿には、落ち着きと上品さがあった。紫の瞳はどこか懐かしさを帯び、見つめられるだけで不思議と肩の力が抜けていく。
(あ、似ている。アーチェ嬢に、すごく)
その気づきが、緊張の上に重なるようにして、胸の奥にじわりと広がった。
「お母様、ただいま帰りました」
「ええ、おかえりなさい、アーチェ。お疲れさま。……そして、そちらが」
エリスの視線が、ゆっくりとフェリクスに向けられる。
彼は反射的に一歩前に出て、ぎこちない所作で頭を下げた。自分でも顔が強張っているのがわかる。手のひらに汗が滲むのを感じながら、恐る恐る名乗ろうとした。
「……フェリクス……・リタ、ウ……」
声が、詰まった。
喉の奥がひゅっとすぼまり、姓の半ばで言葉が崩れていく。
名乗ってよいものか、わからなかった。リタウェルの名は、もはや彼にとって呪縛のようだった。
戸惑いと羞恥が混ざったまま顔を上げると、エリスは一瞬だけ目を見開いた──けれど、すぐに柔らかな笑みに戻る。
「ええ、フェリクス様。お話は聞いているわ。ようこそいらっしゃいました。私はエリス・ロシェット。アーチェの母です。ごめんなさいね、不便な旅だったでしょう?」
「……い、いえ……その……」
フェリクスは思わず視線を落とした。けれど次の瞬間、ふわりと肩に添えられた手が、全ての緊張をほぐすようにそっと降りてきた。
「どうぞ、そんなにかしこまらないで。さ、長旅でお疲れでしょう。お茶の支度をしてありますの。よろしければ、庭で少し休んでいってくださいね」
エリスは、まるで我が子にするように自然な笑顔で言った。その言葉に導かれるように、フェリクスはこくりと頷いた。
庭の白いパーゴラの下に置かれたティーテーブルには、香り高い紅茶と焼き菓子が並べられていた。ティーカップを持つ手にすら、緊張の気配を滲ませながらも、フェリクスは時折、アーチェの隣で目を細める。
空は高く、風はやわらかい。
色とりどりの花が咲き乱れるその庭は、どこを見渡しても穏やかで、静かだった。
「……本当に、きれいな庭ですね……」
ぽつりと漏らしたフェリクスの言葉に、エリスがそっと目を細めた。
「ありがとう。ここはアーチェもよく庭造りを手伝ってくれるのよ。特にこの時期は、春の草花が競い合うように咲いてくれるから、とてもにぎやかでしょ」
「にぎやか……でも、うるさくはなくて、やさしい……そんな感じがします」
「ええ、ありがとう。アーチェもこの庭が好きなの。あなたも気に入ってくれてよかったわ」
その何気ない一言が、胸の奥に静かに落ちてくる。まるで、誰にも言われたことのない肯定を、初めて受け取ったような感覚だった。
けれど──
「……あの、ぼく……」
カップを両手で持ったまま、フェリクスは唇を震わせた。
「ぼく、なにか……なにか、お役に立てたらって……。あの、ここに……居候させていただくのに……ただ何もせずにいるなんて……申し訳なくて……」
そう言ったとたん、アーチェがすっと身を乗り出して、そっと彼の手に自分の手を添えた。
「フェリクス様、いいのよ。今はたくさん休むんでいいの」
その言葉は、決して否定ではなかった。
むしろ、彼の気持ちを受け止めた上で、それでも「今は」とやさしく言ってくれたのだ。
「あなたは、きっとずっと頑張ってきたのよね。だからね、今は、ちゃんと息を抜いていいの。……そのために、ここに来たんでしょう?」
「……でも、ぼく……落ち着かなくて……こうしてるのも、夢みたいで……」
すると、アーチェはふっと目を細めて、言った。
「だったら──明日の朝、私と一緒にお散歩してみる? 毎朝してるの。空気が澄んでいて、気持ちがいいのよ」
フェリクスの胸の奥に、またひとつ、小さな灯が灯った。
断る理由なんて、見つからなかった。
「……はい。……ぜひ……」
震えながらも、確かに頷いたその顔は、ほんの少しだけ、いつもの怯えた表情よりも穏やかだった。
花の香りが、そよ風とともに揺れた。
フェリクスの心の中にも、ほんのりと、春が咲き始めていた。
柔らかな足取りで一歩、また一歩と外へ降り立つ。緊張で少し震える足先を、見守るようにアーチェがその傍を並んで歩く。
砂利を踏みしめる音が、やけに大きく耳に届いた。
玄関へと続く道の先、白い外壁と赤茶の屋根瓦を湛えた邸宅の扉が、ゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは──
「ようこそいらっしゃいました。アーチェのお友達ね」
やわらかな微笑みとともに出迎えたのは、一人の女性だった。
亜麻色の髪は、光を受けて絹糸のようにきらめいている。肩から背中に流れるその髪を、飾り気のない編み込みでまとめた姿には、落ち着きと上品さがあった。紫の瞳はどこか懐かしさを帯び、見つめられるだけで不思議と肩の力が抜けていく。
(あ、似ている。アーチェ嬢に、すごく)
その気づきが、緊張の上に重なるようにして、胸の奥にじわりと広がった。
「お母様、ただいま帰りました」
「ええ、おかえりなさい、アーチェ。お疲れさま。……そして、そちらが」
エリスの視線が、ゆっくりとフェリクスに向けられる。
彼は反射的に一歩前に出て、ぎこちない所作で頭を下げた。自分でも顔が強張っているのがわかる。手のひらに汗が滲むのを感じながら、恐る恐る名乗ろうとした。
「……フェリクス……・リタ、ウ……」
声が、詰まった。
喉の奥がひゅっとすぼまり、姓の半ばで言葉が崩れていく。
名乗ってよいものか、わからなかった。リタウェルの名は、もはや彼にとって呪縛のようだった。
戸惑いと羞恥が混ざったまま顔を上げると、エリスは一瞬だけ目を見開いた──けれど、すぐに柔らかな笑みに戻る。
「ええ、フェリクス様。お話は聞いているわ。ようこそいらっしゃいました。私はエリス・ロシェット。アーチェの母です。ごめんなさいね、不便な旅だったでしょう?」
「……い、いえ……その……」
フェリクスは思わず視線を落とした。けれど次の瞬間、ふわりと肩に添えられた手が、全ての緊張をほぐすようにそっと降りてきた。
「どうぞ、そんなにかしこまらないで。さ、長旅でお疲れでしょう。お茶の支度をしてありますの。よろしければ、庭で少し休んでいってくださいね」
エリスは、まるで我が子にするように自然な笑顔で言った。その言葉に導かれるように、フェリクスはこくりと頷いた。
庭の白いパーゴラの下に置かれたティーテーブルには、香り高い紅茶と焼き菓子が並べられていた。ティーカップを持つ手にすら、緊張の気配を滲ませながらも、フェリクスは時折、アーチェの隣で目を細める。
空は高く、風はやわらかい。
色とりどりの花が咲き乱れるその庭は、どこを見渡しても穏やかで、静かだった。
「……本当に、きれいな庭ですね……」
ぽつりと漏らしたフェリクスの言葉に、エリスがそっと目を細めた。
「ありがとう。ここはアーチェもよく庭造りを手伝ってくれるのよ。特にこの時期は、春の草花が競い合うように咲いてくれるから、とてもにぎやかでしょ」
「にぎやか……でも、うるさくはなくて、やさしい……そんな感じがします」
「ええ、ありがとう。アーチェもこの庭が好きなの。あなたも気に入ってくれてよかったわ」
その何気ない一言が、胸の奥に静かに落ちてくる。まるで、誰にも言われたことのない肯定を、初めて受け取ったような感覚だった。
けれど──
「……あの、ぼく……」
カップを両手で持ったまま、フェリクスは唇を震わせた。
「ぼく、なにか……なにか、お役に立てたらって……。あの、ここに……居候させていただくのに……ただ何もせずにいるなんて……申し訳なくて……」
そう言ったとたん、アーチェがすっと身を乗り出して、そっと彼の手に自分の手を添えた。
「フェリクス様、いいのよ。今はたくさん休むんでいいの」
その言葉は、決して否定ではなかった。
むしろ、彼の気持ちを受け止めた上で、それでも「今は」とやさしく言ってくれたのだ。
「あなたは、きっとずっと頑張ってきたのよね。だからね、今は、ちゃんと息を抜いていいの。……そのために、ここに来たんでしょう?」
「……でも、ぼく……落ち着かなくて……こうしてるのも、夢みたいで……」
すると、アーチェはふっと目を細めて、言った。
「だったら──明日の朝、私と一緒にお散歩してみる? 毎朝してるの。空気が澄んでいて、気持ちがいいのよ」
フェリクスの胸の奥に、またひとつ、小さな灯が灯った。
断る理由なんて、見つからなかった。
「……はい。……ぜひ……」
震えながらも、確かに頷いたその顔は、ほんの少しだけ、いつもの怯えた表情よりも穏やかだった。
花の香りが、そよ風とともに揺れた。
フェリクスの心の中にも、ほんのりと、春が咲き始めていた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】転生したら悪役継母でした
入魚ひえん@発売中◆巻き戻り冤罪令嬢◆
恋愛
聖女を優先する夫に避けられていたアルージュ。
その夜、夫が初めて寝室にやってきて命じたのは「聖女の隠し子を匿え」という理不尽なものだった。
しかも隠し子は、夫と同じ髪の色。
絶望するアルージュはよろめいて鏡にぶつかり、前世に読んだウェブ小説の悪妻に転生していることを思い出す。
記憶を取り戻すと、七年間も苦しんだ夫への愛は綺麗さっぱり消えた。
夫に奪われていたもの、不正の事実を着々と精算していく。
◆愛されない悪妻が前世を思い出して転身したら、可愛い継子や最強の旦那様ができて、転生前の知識でスイーツやグルメ、家電を再現していく、異世界転生ファンタジー!◆
*旧題:転生したら悪妻でした
完【恋愛】婚約破棄をされた瞬間聖女として顕現した令嬢は竜の伴侶となりました。
梅花
恋愛
侯爵令嬢であるフェンリエッタはこの国の第2王子であるフェルディナンドの婚約者であった。
16歳の春、王立学院を卒業後に正式に結婚をして王室に入る事となっていたが、それをぶち壊したのは誰でもないフェルディナンド彼の人だった。
卒業前の舞踏会で、惨事は起こった。
破り捨てられた婚約証書。
破られたことで切れてしまった絆。
それと同時に手の甲に浮かび上がった痣は、聖痕と呼ばれるもの。
痣が浮き出る直前に告白をしてきたのは隣国からの留学生であるベルナルド。
フェンリエッタの行方は…
王道ざまぁ予定です
私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約してました~
marumi
恋愛
大国、セレスティア帝国に生まれた皇女エリシアは、争いも悲しみも知らぬまま、穏やかな日々を送っていた。
しかしある日、帝都を揺るがす暗殺事件が起こる。
紅蓮に染まる夜、失われた家族。
“死んだ皇女”として歴史から名を消した少女は、
身分を隠し、名前を変え、生き延びることを選んだ。
彼女を支えるのは、代々皇族を護る宿命を背負う
アルヴェイン公爵家の若き公子、ノアリウス・アルヴェイン。
そして、神を祀る隣国《エルダール》で出会った、
冷たい金の瞳をした神子。
ふたつの光のあいだで揺れながら、
エリシアは“誰かのための存在”ではなく、
“自分として生きる”ことの意味を知っていく。
これは、名前を捨てた少女が、
もう一度「名前」を取り戻すまでの物語。
※校正にAIを使用していますが、自身で考案したオリジナル小説です。
恋心を封印したら、なぜか幼馴染みがヤンデレになりました?
夕立悠理
恋愛
ずっと、幼馴染みのマカリのことが好きだったヴィオラ。
けれど、マカリはちっとも振り向いてくれない。
このまま勝手に好きで居続けるのも迷惑だろうと、ヴィオラは育った町をでる。
なんとか、王都での仕事も見つけ、新しい生活は順風満帆──かと思いきや。
なんと、王都だけは死んでもいかないといっていたマカリが、ヴィオラを追ってきて……。
幼い頃に、大きくなったら結婚しようと約束した人は、英雄になりました。きっと彼はもう、わたしとの約束なんて覚えていない
ラム猫
恋愛
幼い頃に、セリフィアはシルヴァードと出会った。お互いがまだ世間を知らない中、二人は王城のパーティーで時折顔を合わせ、交流を深める。そしてある日、シルヴァードから「大きくなったら結婚しよう」と言われ、セリフィアはそれを喜んで受け入れた。
その後、十年以上彼と再会することはなかった。
三年間続いていた戦争が終わり、シルヴァードが王国を勝利に導いた英雄として帰ってきた。彼の隣には、聖女の姿が。彼は自分との約束をとっくに忘れているだろうと、セリフィアはその場を離れた。
しかし治療師として働いているセリフィアは、彼の後遺症治療のために彼と対面することになる。余計なことは言わず、ただ彼の治療をすることだけを考えていた。が、やけに彼との距離が近い。
それどころか、シルヴァードはセリフィアに甘く迫ってくる。これは治療者に対する依存に違いないのだが……。
「シルフィード様。全てをおひとりで抱え込もうとなさらないでください。わたしが、傍にいます」
「お願い、セリフィア。……君が傍にいてくれたら、僕はまともでいられる」
※糖度高め、勘違いが激しめ、主人公は鈍感です。ヒーローがとにかく拗れています。苦手な方はご注意ください。
※『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。
番など、今さら不要である
池家乃あひる
恋愛
前作「番など、御免こうむる」の後日談です。
任務を終え、無事に国に戻ってきたセリカ。愛しいダーリンと再会し、屋敷でお茶をしている平和な一時。
その和やかな光景を壊したのは、他でもないセリカ自身であった。
「そういえば、私の番に会ったぞ」
※バカップルならぬバカ夫婦が、ただイチャイチャしているだけの話になります。
※前回は恋愛要素が低かったのでヒューマンドラマで設定いたしましたが、今回はイチャついているだけなので恋愛ジャンルで登録しております。
死に戻ったら、私だけ幼児化していた件について
えくれあ
恋愛
セラフィーナは6歳の時に王太子となるアルバートとの婚約が決まって以降、ずっと王家のために身を粉にして努力を続けてきたつもりだった。
しかしながら、いつしか悪女と呼ばれるようになり、18歳の時にアルバートから婚約解消を告げられてしまう。
その後、死を迎えたはずのセラフィーナは、目を覚ますと2年前に戻っていた。だが、周囲の人間はセラフィーナが死ぬ2年前の姿と相違ないのに、セラフィーナだけは同じ年齢だったはずのアルバートより10歳も幼い6歳の姿だった。
死を迎える前と同じこともあれば、年齢が異なるが故に違うこともある。
戸惑いを覚えながらも、死んでしまったためにできなかったことを今度こそ、とセラフィーナは心に誓うのだった。
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる