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心と体
小さな逃走
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新しい仕事にすぐに慣れるのは難しく、1ヶ月経ってもうまく仕事が回せないこともあった。
『最初は誰でもそんなもんよ』
と大河さんが励ましてくれるけど、小夜ちゃんはわたしより覚えが早くて、テキパキ仕事をこなしていく。差がついてしまうんじゃないかと必死になって仕事に慣れようとしていた。
それと……
薬の副作用が強く出た。
婦人科からもらった薬の影響で、吐き気と下腹部に痛みがあった。
一度、仕事中に吐き気が出て、立っていられなくなくなったことがあった。
「すみません、大河さん……ちょっと座っていいですか……?」
「?! のんちゃん、顔色悪いわよ! いいよいいよ、休みな!」
何かあって、みんなに迷惑かけちゃだめだ。
そんなふうに思って病気のことを職場で明かした。それがかえってみんなに気を遣わせているようで、申し訳なかった。
「のんちゃん、それわたしも一緒にやるよ」
終わらない仕事があると、よく小夜ちゃんが手伝ってくれた。
「……ごめん、いつも」
「いいんだよ! のんちゃんの方が大変そうだし」
そう言って、小夜ちゃんは文句も言わずにわたしの分まで仕事を引き受ける。
「あー、のんちゃん!その荷物、置いといていいよ! 重いから、俺持つよ」
坂井さんも手伝ってくれる。
わたし、みんなに迷惑かけてるかも……。
そんなことを思う日が増えてきていた。
1ヶ月がたち、診察の日がやってくる。
内科で血液検査を受けて、婦人科で診察を受ける日。
仕事終わりに受けに来るように言われていたけど、なんだか嫌になってしまって、今日はそのまま帰ろうと思った。
薬を飲み始めて1ヶ月経っても、身体は薬になれなかった。
どうせ良くなってなんかない。
そんなふうに思って、こっそり罪悪感を持ちながら帰路に着く。
住んでいるアパートのエントランスまで着くと、さすがに誰にも会わないなと思って、少しほっとしていた。
エレベーターを待つ間、スマホを確認する。
……誰からも連絡なし。
ほっとして顔を上げようとした時、ちょうどエレベーターの扉が開いた。
乗っている人がいる、避けなきゃな。
無意識にはけると、その乗っていた人が、思いもよらずわたしに声をかけた。
「あれ、のんちゃん」
耳慣れた声に、はっとして目を合わせる。
エレベーターからまさに今、降りようとしていたのは……
陽太先生だった。
え、うそ、なんでここに……?!
声が出ずに、目を見開く。
心臓の音がとにかく早くなって、体は固まった。
「のんちゃんもここに住んでたんだ」
「は、……はい」
のんちゃん『も』
ということは、陽太先生『も』
ここに住んでいるということであることを理解するには数秒かかった。
そう、社宅なのである。
初日に母が言ってたことが思い出されて、よりによって陽太先生がその、『お医者様』だなんて思いもせずに……1ヶ月以上過ごしていた。
よく見たら陽太先生はいつもの白衣ではない。
Tシャツにジーンズという、ありふれた格好だったけど、人の目を引くくらいには……なんというか、かっこよかったのである。
確か今日は、陽太先生は食堂には顔を出さなかった。当直明けか休みかもしれない、そう思っていた。
……姿が見えなくて、少し寂しかったけど……。
受診をさぼっている後ろめたさと、突然出会った私服の陽太先生にたじたじになってしまい、なんと挨拶していいかわからなかった。
「あ、えーっと……お疲れ様です」
「うん、お疲れ様。身体はつらくない?」
いちばんに、身体のことを心配してくれる。
「……はい」
……本当はかなりつらい。副作用に振り回された身体は、疲れていた。
「そっか。無理せずね」
「あの、それじゃあーーーー」
早々に話を切り上げ、エレベーターに乗り込んで、部屋のある階へ行こうとした時だった。
陽太先生が、わたしの腕を掴まえる。
「ところでのんちゃん、今日、帰ってくるには早くない?」
乗り逃したエレベーターは上の階へ動き出す。
「えっ…」
わたしの手を離すと、陽太先生が正面に向き合った。
「今日、受診じゃなかったっけ?」
「あー……えーっと、そうだった、かな……」
「昨日、吹田先生と大海先生が話してたから」
「……」
なんて言おう、なんて言ったら。
陽太先生が腕時計を見る。きっと18時を回った頃だろう。
「……行こうか、病院。まだ間に合うよ」
陽太先生が、外の方へ顔を向ける。
夕暮れで西日が入るエントランスに、黙り込んだわたしが立ち尽くす。
「……」
なんて言ったら、この状況から逃げられるんだろうか。
「一緒に行こう」
もう一度、陽太先生が言う。
「いや、でもーーーー」
「でも、なに? なんて言おうとしてる?」
被せるように、少し強い声で陽太先生が言った。
「……」
用事があって。って言ったら……。
苦し紛れに言葉を繋げようと考える。
でも、それはすごく浅はかな考えだった。
「嘘つこうとしてたら、怒るよ。怒られたいなら言いな」
真剣にこちらを見つめる陽太先生の目。
ぴしゃりと言い放たれた言葉に、わたしは俯くことしかできなかった。
陽太先生には、わたしの気持ちが手に取るようにわかるようだった。
いつか、小さい頃に怒られたことを思い出す。
身がすくむような思いに、胸が詰まる。
……何も変わっていない、わたしは。
「……」
「のんちゃん、顔上げて」
恐る恐る、顔を上げる。
想像したより、優しい目をした陽太先生が、わたしのことをしっかり見つめていた。
「本当は、身体もだけど、心の方もつらくなってきてるんじゃないの?」
陽太先生は、わたしの胸の真ん中を指差した。
ずっと心の中に渦巻いていた気持ちを指摘されたみたいだった。陽太先生は、そこに目が向いている。その声を聴こうとしている。わたしの心の声を。
苦しい。
本当は苦しいのだ。
好きな仕事に就いたはずなのに。
みんなに迷惑かけて、小夜ちゃんとも差がついて、こんな身体じゃなかったらって、苦しい、悔しい。
ぼろぼろと、涙が勝手にこぼれる。
「ね、本当は自分の心と身体なのに、言うこときかなくて、困ってるんでしょ」
頷く。ようやく本当のことを意思表示できた。
陽太先生は、立ち尽くして涙をこぼすことしかできないわたしに、ポケットからハンカチを差し出した。
「頑張ってるなぁってずっと思ってたよ、みんな心配してた。先生達もさ」
手渡されたハンカチで、目元を抑える。
いつも白衣から香る柔軟剤と同じ匂いがして、なんだか懐かしい気持ちになった。昔から変わらない匂いだったから。
陽太先生に優しく頭を撫でられて、優しい言葉をかけられて、乾いた心が潤っていく。
「だーれものんちゃんに苦しい思いしてほしいと思ってないんだよ」
苦しくて、喉の奥が潰れそうになった。
「……ごめんな……さい……わた…し……わたし……」
「うん?」
「好きな……仕事……ついたのに……楽しくなくて……」
「うん」
「病気のせいで……みんなに……迷惑……かけて……」
「そっかそっか、つらかったね」
こんなに、つらかったんだ。
「落ち着いたら、一緒に病院行こう」
陽太先生はわたしの背中を撫でながら、落ち着くのを待ってくれたのだった。
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