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第1部序章
第1話:聖なる泥濘の英雄
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聖暦514年11月12日
ヒサデイン帝国の心臓たるコンスタン宮、玉座の間。
磨き抜かれた大理石の床に、分厚い鋼の膝当てがぶつかる鈍い音が響いた。
立ち込める乳香の煙を切り裂くように、血と鉄の匂いを染み込ませた男が平伏している。
北方ブルガリ王国との国境線を血で染め上げ、帝都へ帰還した若き英雄。
二十七歳にして将軍の座に上り詰めた下級貴族、フラウィウス・プルケリア。
彼の背中を、居並ぶ大貴族たちの値踏みするような視線が、無数の矢のように突き刺さっていた。
「――見事な武勲である、フラウィウスよ。テンプレ神もそなたの忠誠を嘉(よみ)せられよう」
頭上から降ってきたのは、絶対的な権力者の重い声だった。
テオ・クラウディウス皇帝。その眼光は、檻の中の猛獣を観察するような底知れぬ冷たさを孕んでいる。
「望みを申せ。肥沃な領地か、山ほどのソリドゥス金貨か。あるいは、更なる地位か」
皇帝の言葉に、玉座の間の空気が物理的な重圧となって将軍の両肩にのしかかった。
フラウィウスは、自身の太い指先が微かに汗ばんでいるのを感じた。
数万の敵軍を前にした時すら波立たなかった鼓動が、分厚い胸板を内側から強く叩いている。
革手袋の中で拳を握り込むと、使い込まれた剣の柄が軋む音が鳴った。
脳裏をよぎるのは、三年前。あの冷たい回廊で、侍女を救うために毅然と立ち塞がった、凛烈な氷の瞳。
「恐れながら……。身の程を弁えぬ願いであることは、重々承知しております」
乾いた砂を噛むように喉が鳴る。だが、将軍の低い声は、至高神正統教の祭壇をも震わせるほど強固な響きを伴っていた。
「どうか、アエリア皇女殿下を、妻に賜りたく」
刹那。
コンスタン宮の広大な空間が、急速に冷凍されたかのように静まり返った。
諸侯の呼吸音が止まり、揺れていた蝋燭の炎すらもが凍りついた錯覚。
やがて、その張り詰めた静寂は、腐った果実が弾けるような不快な音に変わった。
絹の扇子やベルベットの手袋で口元を隠し、貴族たちが毒液のような囁きを交わし始める。
「……正気か? 成り上がりの野良犬が、あの『血を汚した皇女』を望むとは」
「テンプレ神の教えに背いた『姦通者』がお似合いだということだろう。売女には野良犬を。相応しいではないか」
クスクスという忍び笑いと、不浄な者へ投げられる言葉の石打ち。
ここにはいない、後宮の奥で幽閉同然に扱われている女への、容赦ない罵倒。
フラウィウスはピクリとも動かず、その冷たい泥の雨をただ広い背中で受け止めていた。
だが、玉座から放たれた言葉は、誰の予想とも異なっていた。
「――よかろう。我が娘アエリアを、そなたに与えよう」
怒号でも、呆れ声でもない。それは、厄介な重荷をようやく処分できた安堵にも似た、乾いた響きを持っていた。
周囲の嘲笑が、見えない巨大な手に首を絞められたようにピタリと止まる。
「……本気で、おっしゃっておられるのですか?」
フラウィウスは思わず顔を上げ、皇帝を凝視した。軍人としての本能が、この即答の背後にある「巨大な陥穽」を察知して警鐘を鳴らしている。
だが、その懸念を上回る歓喜が、彼の胸の奥を焼いた。
手が届くはずもなかった気高き氷の刃を、ついに己の懐へ収める権利を得たのだ。
フラウィウスは再び深く頭を垂れた。
だが、彼はまだ気づいていなかった。
眼前の玉座で彼を見下ろすテオ皇帝の瞳の奥に、娘を不用品として投げ捨てる冷酷な光が宿っていたことに。
そして――。
退出する彼の背中を、柱の影から見つめる外務卿の濁った瞳。
その唇が、腐肉を漁る鴉(からす)のような笑みに歪んでいたことに、まだ、誰も気づいていなかった。
ヒサデイン帝国の心臓たるコンスタン宮、玉座の間。
磨き抜かれた大理石の床に、分厚い鋼の膝当てがぶつかる鈍い音が響いた。
立ち込める乳香の煙を切り裂くように、血と鉄の匂いを染み込ませた男が平伏している。
北方ブルガリ王国との国境線を血で染め上げ、帝都へ帰還した若き英雄。
二十七歳にして将軍の座に上り詰めた下級貴族、フラウィウス・プルケリア。
彼の背中を、居並ぶ大貴族たちの値踏みするような視線が、無数の矢のように突き刺さっていた。
「――見事な武勲である、フラウィウスよ。テンプレ神もそなたの忠誠を嘉(よみ)せられよう」
頭上から降ってきたのは、絶対的な権力者の重い声だった。
テオ・クラウディウス皇帝。その眼光は、檻の中の猛獣を観察するような底知れぬ冷たさを孕んでいる。
「望みを申せ。肥沃な領地か、山ほどのソリドゥス金貨か。あるいは、更なる地位か」
皇帝の言葉に、玉座の間の空気が物理的な重圧となって将軍の両肩にのしかかった。
フラウィウスは、自身の太い指先が微かに汗ばんでいるのを感じた。
数万の敵軍を前にした時すら波立たなかった鼓動が、分厚い胸板を内側から強く叩いている。
革手袋の中で拳を握り込むと、使い込まれた剣の柄が軋む音が鳴った。
脳裏をよぎるのは、三年前。あの冷たい回廊で、侍女を救うために毅然と立ち塞がった、凛烈な氷の瞳。
「恐れながら……。身の程を弁えぬ願いであることは、重々承知しております」
乾いた砂を噛むように喉が鳴る。だが、将軍の低い声は、至高神正統教の祭壇をも震わせるほど強固な響きを伴っていた。
「どうか、アエリア皇女殿下を、妻に賜りたく」
刹那。
コンスタン宮の広大な空間が、急速に冷凍されたかのように静まり返った。
諸侯の呼吸音が止まり、揺れていた蝋燭の炎すらもが凍りついた錯覚。
やがて、その張り詰めた静寂は、腐った果実が弾けるような不快な音に変わった。
絹の扇子やベルベットの手袋で口元を隠し、貴族たちが毒液のような囁きを交わし始める。
「……正気か? 成り上がりの野良犬が、あの『血を汚した皇女』を望むとは」
「テンプレ神の教えに背いた『姦通者』がお似合いだということだろう。売女には野良犬を。相応しいではないか」
クスクスという忍び笑いと、不浄な者へ投げられる言葉の石打ち。
ここにはいない、後宮の奥で幽閉同然に扱われている女への、容赦ない罵倒。
フラウィウスはピクリとも動かず、その冷たい泥の雨をただ広い背中で受け止めていた。
だが、玉座から放たれた言葉は、誰の予想とも異なっていた。
「――よかろう。我が娘アエリアを、そなたに与えよう」
怒号でも、呆れ声でもない。それは、厄介な重荷をようやく処分できた安堵にも似た、乾いた響きを持っていた。
周囲の嘲笑が、見えない巨大な手に首を絞められたようにピタリと止まる。
「……本気で、おっしゃっておられるのですか?」
フラウィウスは思わず顔を上げ、皇帝を凝視した。軍人としての本能が、この即答の背後にある「巨大な陥穽」を察知して警鐘を鳴らしている。
だが、その懸念を上回る歓喜が、彼の胸の奥を焼いた。
手が届くはずもなかった気高き氷の刃を、ついに己の懐へ収める権利を得たのだ。
フラウィウスは再び深く頭を垂れた。
だが、彼はまだ気づいていなかった。
眼前の玉座で彼を見下ろすテオ皇帝の瞳の奥に、娘を不用品として投げ捨てる冷酷な光が宿っていたことに。
そして――。
退出する彼の背中を、柱の影から見つめる外務卿の濁った瞳。
その唇が、腐肉を漁る鴉(からす)のような笑みに歪んでいたことに、まだ、誰も気づいていなかった。
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