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雨の中
窓の外はしとしとと雨が降り続いている。
長雨の季節に入り、制服の袖丈が短く身軽になった。しかし、未だに俺は抱えた自身の問題を重苦しく背負ったまま過ごしている。
殿下と離れて早くもひと月が経った。ここまで放置してしまえば、「自然消滅」の文字が脳裏を過るどころか、どっしりと座り込んでその存在で俺をどこまでも憂鬱にさせた。
以前シリルくんに事実確認をしろと再三焚き付けられた結果、不承不承何度か学院内で殿下と話を取り持とうとしたのだが、殿下とまともに会話する事は一度も叶っていない。
それは、外野からの邪魔が入るとかそういうややこしい話ではなく、単純に“俺が殿下に避けられている”からだ。初めはとても自然な所作でもって避けられていたのだが、俺が柄にもなく自棄を起こして対面も繕わず殿下を追い回したところ、次第に嫌な顔を殿下は隠さないようになった。
そしてあまりの俺の身勝手さに業を煮やしたのだろう。終いにはあの優しく穏やかな殿下が、酷く憎らしい気に俺を睨み、脅すような低い声でただ一言「私に関わるな」と告げたのだ。
何の否定のしようもない、完璧なまでの拒絶だった。
その時息もできない程に抉り取られた胸が、どうあがいても塞がらないまま延々と痛んでいる。
もしかして、俺は自覚のない妄想癖持ちか白昼夢を見る質で、殿下と付き合っていたと思い込んでいるだけなのではないだろうか。何度も何度もそう疑ってしまうくらい、あの時の殿下の目はよく研がれた鋭利さを持っていた。未だに思い出して恐怖が体を震わす。
あの優しい殿下が、別れを告げる事すら嫌になる程に俺を嫌っている。何をやらかしてしまったのかわからないが、きっと俺はとんでもないことをしてしまったのだろう。殿下には本当に申し訳ない。
もう、殿下の為にも自分の為にも彼を忘れるべきだ、と毎日思う。でも、とろりととろけるヘーゼルグリーンを思い出しては、やはりどうしようもなく恋しい、と毎日思う。その繰り返しだ。
その日は休日だったが、学院内の図書館で資料を集めつつレポートを作成していた。自らに視野狭窄の精神系魔法術をかけて勉学に没頭する。そうしていると胸の痛みを感じず静かに過ごせるのだ。
ひと区切りついたところで、一人掛けの閲覧机に小山を作っている書籍たちを抱えて、返却棚にそれらを返す為席を離れた。
雨音に閉ざされる図書館内は、人影まばらで閑散としている。
手近の返却棚に積み重ねた書籍をまとめてどさりと乗せると、その拍子に棚の別段から重厚な革装丁の書籍が一冊床に落ちた。それを気だるい気持ちで拾い上げると、近代王家の歴史書だった。通りで重いわけだ。
そして何と無しに、探せばミラード殿下の名もこの中にあるのだろうな、と性懲りも無い事を考えてしまった。
物心つく頃にはエゼキエルの記憶を夢で見ていた。俺はエゼキエルの記憶と共に生きてきた、と言って過言でない。最初は特に、ミラード殿下と過ごした何気ない幸せな記憶ばかりを繰り返し見ていたように思う。
俺の幼少期は決して長閑なものではなかった。生まれた年にはすでに国は開戦していたし、親と死に別れた事をうまく理解できないまま孤児院に保護され、枯れる気がしなかった涙は、飢えで苦しくてすぐに出なくなった。孤児仲間たちがひとり、ふたり、と死んでいくのを見送りながら、死んだ仲間を憂う事より、自分は死にたくないと意地汚く命に縋り付いていた。
そんな仄暗い子供時代、ミラード殿下との幸せな記憶が唯一の光だった。つらくて心がひしゃげてしまいそうな時は、エゼキエルの中の幸せな気持ちを思い出して心を満たした。
そして、夢の記憶は遠い過去の事なのではないかと気づき始めた頃、エゼキエルについて神殿内の書館に何度か忍び込んで調べた事がある。ただ、知れたのは“特別位神官”という役職が約300年前までは本神殿には存在していたという事だけだった。
でも、当時の俺にはそれで十分だった。
愛おしいあの人にはもう会えなくても、俺の中にある愛し愛された記憶が全くの妄想や嘘ではなさそうだ、というあやふやな肯定状態が一番心の救いになったからだ。
真実を深追いして、万が一この幸せな記憶たちが不幸な子供のただの空想で、この世に有りもしない幻だと突きつけられるのが怖かった。
図書館の窓を叩く雨音が急激に強まっていく。雨に臆した生徒たちが、ひとりふたりと席を離れていくのが視界の端に映る。夕刻にはまだ早いというのに、厚く垂れ込める雲の為に、窓の外に暗幕を落とされたように薄暗い。
先程拾い上げた、ずしりと重さのある歴史書をぱらりぱらりと捲る。
“それ”は知ろうと思えばいつだって簡単に知れた事なのだ。
ただ、ずっと気が進まず避けていた。
どこまでも真っ直ぐな「君」の事だから、きっと“そうなのだろう”と思っていたから。
飽くまでこれは確認作業だ。
知っても何ができるわけでもない、始末に負えない話なのだが、エゼキエルの責任だから、いつかは知っておくべきなんだろうと思う。
近代王家の家系図に、彼の名前はあった。その下に控えめに記された行年は、エゼキエルが最後に記憶していた彼の年齢――24と一致していた。
―――彼は、ミラード殿下はエゼキエルの後を追うように亡くなっている。
「やっぱり」
唇の内側で吐息だけで呟いた声は、何もかもを責めるように打ち据える雨音に掻き消された。
あの人は、過去も今も変わらない。顔立ちや体格、声も、折り目正しい所作も、王族にしては優し過ぎるお人好しな所も、愛を囁く時とろりととろけるように笑う所も。
ただ、明らかに違うと感じる所もある。ひたすら優しく気遣わし気にエゼキエルを抱くミラード殿下に対して、ジェラード殿下は俺から自由を奪うように荒々しく性行為を行う。
何故か、だなんて今まで深く考えなかった。考えてしまえば、どうしようもない現実に直面してしまいそうだったからだ。「ミラード殿下はエゼキエルを愛していたが、ジェラード殿下が俺に求めていたのは、一時的な性欲処理の相手だ」と。
レポートをほぼほぼ完成させ、最後に参考文献を一覧に書き写す。視野狭窄をかけた脳みそが、ふと一件の引用元の書き漏らしを見つける。文献名は記憶していたが、編者名が不確かだ。面倒だが地下書庫まで確認に行かねばならない。帰宅する前に気づけたのは、僥幸だ。
私物を帆布の鞄に詰めて肩にかけ、書きかけの紙類は上に乗った数本の筆記用具ごと丸めてそのまま鞄の上部に挟み込むように突っ込む。閲覧机の上に何も残っていない事を目視して、地下書庫への階段に向かった。
図書館の中でも中世代文献など、希少性が高いが使用頻度の低い文献は何ヶ所かに別れた地下書庫に格納されている。俺が探しているものは、一番奥まった図書館北側の地下階段からしか行けない最下層で、滅多に人の通らない場所だ。今日は、その階段に向かうまでの間にも誰ともすれ違わなかった。世界にただ一人になったような妙な居心地の悪さがある。
階段を二、三歩降りた所で、雨音が遠ざかった代わりに人の声を聞いた気がして心臓がぞわりと浮いた。
いや、何を驚いているんだ、と詰まりかけた息を吐く。図書館に人がいて何も不思議はない。今までこの地下書庫で人とかち合った事はほとんどないが、どうやら今日は珍しく先客がいたようだ。
今は誰の顔も見たくない気分だったので、一瞬出直そうかとも思ったが、編者名一つ確認する為だけにそこまでする事はないだろう。誰がいようと他人だ。顔を伏せさっさと目的を済ませてしまえばいい。
一歩一歩進むごとに、魔法術で管理された空調設備の駆動音に混じって聞こえてくる声が鮮明になっていく。必要以上に内容を拾ってしまう事のないように、意識的に思考を逸らして足を進めていた。だから、気づくのがやや遅れてしまった。その声が耳に馴染んだものだと気づいた瞬間、身体が雷に貫かれたように硬直した。
今、最も聞きたくない、でも最も愛おしい声。
指先までじわりと冷たい汗をかく。
「…で、何も問題はない。全てが終わりさえすれば、後の事はどうとでもなる」
「そおんな事言ってもー、さすがに焦り過ぎじゃない?それにお前がそこまで捨て身にならなくてもなんとかなるんじゃない?」
淡々とした殿下と、ひどく焦ったようなアレクス先輩の声がはっきりと聞こえてくる。
これは、聞いていいものだろうか。立ち去るべきか、と思いつつそれを躊躇ってしまう。その間にも二人の会話は進む。
「必要はある。最優先事項だ」
「最優先って、うーん…」
言い切る殿下に、アレクス先輩が困り果てたとばかりに口ごもる。
「俺の命より大事な事だ」
一際強い口調は怒気すら含んでいるようで、部外者の俺ですら身がすくむ。
“殿下にとって命より大事なもの”は、俺ではない。つまり、それは。
「やっと手に入れたんだ。絶対に手放さない」
頑なな殿下の態度に、アレクス先輩が盛大に溜め息をつく。
「わかったよお。じゃあもう止めない。で、“ジェラード殿下とガブリエル・フローレス令嬢の婚約”の打診はどこまで進んでるの?」
視界が眩み、全ての音が遠くなった。
そうか。二人は結婚するのか。あの二人ならきっと、おとぎ話のように末永く幸せを築くだろう。
口元に自然と自嘲が浮かぶ。誰が見ているわけでもないので、遠慮なく顔を歪めた。眼窩が熱を持ってそれが目端から雫となって湧き出して、いくらでもこぼれ落ちていく。
諦めろ。
「公爵家当主には、陛下の名の元に正式な書簡で登城要請をする。それも二日以内には整うだろう。それはつい先刻ガブリエル嬢にも伝えてある」
「おお~。付き合わされるガブちゃんが可哀想なくらい気がはっやいなあ。もう必死だねえ」
「当たり前だ」
毛足の豊かな絨毯は、俺のしょうもない涙も、全て吸い込んでくれる。
諦めろ。忘れろ。
「白百合は俺のものだ。誰にも渡さない」
なるほど、と俺は内心深く深く納得した。
ガブリエルを姫小百合ではなく白百合と称するという事は、“ジェラード殿下は、ミラード殿下の記憶を持っている”のだ。
だから、きっとひと目でエゼキエルと瓜二つのガブリエルに心惹かれ、出会ってひと月程にも関わらず急性に囲い込もうとしているのだ。
やはり俺に付け入る隙なんて微塵もなく、俺は最初の最初から勘違い野郎だったわけだ。特にここ数日の俺の努力は相当に空回りで、殿下からすればどれ程にうざったらしいものだっただろう。
出来るなら、もっと早くに知りたかったな。
震える身体を叱咤して、ゆっくりと踵を返す。笑いそうになる膝を、漏れそうになる醜い嗚咽を、奥歯を強く噛み締めて堪え続ける。
人影の一つもない、広く淋しい図書館内を足早に縦断して外に出る。直ぐ様、強い雨足に全身が容赦なく嬲られるが、熱したように熱い瞼と頬にはちょうど良かった。全てを打ち付ける雨音は嗚咽を遠くまで届ける事無く隠したまま押し流して行く。
大丈夫。俺は大丈夫だ。諦められる。
手に入らないものに想いを残すな。今までそうやって生きてきたじゃないか。
未練を残さず諦めろ。感情を殺せ。
大丈夫。俺ならできる。
何度も言い聞かせる。
願わくば、殿下への想いが雨で流れて行けばいいと心の底から思う。
「うう、く……っ、ふっ……でんかあ」
ごめんなさい、殿下。愛しています。
殺しても殺しても、心が膿落ちていく痛みに俺は抗えずにその場に崩れ落ち、喉が錆焦げるまで泣いた。
長雨の季節に入り、制服の袖丈が短く身軽になった。しかし、未だに俺は抱えた自身の問題を重苦しく背負ったまま過ごしている。
殿下と離れて早くもひと月が経った。ここまで放置してしまえば、「自然消滅」の文字が脳裏を過るどころか、どっしりと座り込んでその存在で俺をどこまでも憂鬱にさせた。
以前シリルくんに事実確認をしろと再三焚き付けられた結果、不承不承何度か学院内で殿下と話を取り持とうとしたのだが、殿下とまともに会話する事は一度も叶っていない。
それは、外野からの邪魔が入るとかそういうややこしい話ではなく、単純に“俺が殿下に避けられている”からだ。初めはとても自然な所作でもって避けられていたのだが、俺が柄にもなく自棄を起こして対面も繕わず殿下を追い回したところ、次第に嫌な顔を殿下は隠さないようになった。
そしてあまりの俺の身勝手さに業を煮やしたのだろう。終いにはあの優しく穏やかな殿下が、酷く憎らしい気に俺を睨み、脅すような低い声でただ一言「私に関わるな」と告げたのだ。
何の否定のしようもない、完璧なまでの拒絶だった。
その時息もできない程に抉り取られた胸が、どうあがいても塞がらないまま延々と痛んでいる。
もしかして、俺は自覚のない妄想癖持ちか白昼夢を見る質で、殿下と付き合っていたと思い込んでいるだけなのではないだろうか。何度も何度もそう疑ってしまうくらい、あの時の殿下の目はよく研がれた鋭利さを持っていた。未だに思い出して恐怖が体を震わす。
あの優しい殿下が、別れを告げる事すら嫌になる程に俺を嫌っている。何をやらかしてしまったのかわからないが、きっと俺はとんでもないことをしてしまったのだろう。殿下には本当に申し訳ない。
もう、殿下の為にも自分の為にも彼を忘れるべきだ、と毎日思う。でも、とろりととろけるヘーゼルグリーンを思い出しては、やはりどうしようもなく恋しい、と毎日思う。その繰り返しだ。
その日は休日だったが、学院内の図書館で資料を集めつつレポートを作成していた。自らに視野狭窄の精神系魔法術をかけて勉学に没頭する。そうしていると胸の痛みを感じず静かに過ごせるのだ。
ひと区切りついたところで、一人掛けの閲覧机に小山を作っている書籍たちを抱えて、返却棚にそれらを返す為席を離れた。
雨音に閉ざされる図書館内は、人影まばらで閑散としている。
手近の返却棚に積み重ねた書籍をまとめてどさりと乗せると、その拍子に棚の別段から重厚な革装丁の書籍が一冊床に落ちた。それを気だるい気持ちで拾い上げると、近代王家の歴史書だった。通りで重いわけだ。
そして何と無しに、探せばミラード殿下の名もこの中にあるのだろうな、と性懲りも無い事を考えてしまった。
物心つく頃にはエゼキエルの記憶を夢で見ていた。俺はエゼキエルの記憶と共に生きてきた、と言って過言でない。最初は特に、ミラード殿下と過ごした何気ない幸せな記憶ばかりを繰り返し見ていたように思う。
俺の幼少期は決して長閑なものではなかった。生まれた年にはすでに国は開戦していたし、親と死に別れた事をうまく理解できないまま孤児院に保護され、枯れる気がしなかった涙は、飢えで苦しくてすぐに出なくなった。孤児仲間たちがひとり、ふたり、と死んでいくのを見送りながら、死んだ仲間を憂う事より、自分は死にたくないと意地汚く命に縋り付いていた。
そんな仄暗い子供時代、ミラード殿下との幸せな記憶が唯一の光だった。つらくて心がひしゃげてしまいそうな時は、エゼキエルの中の幸せな気持ちを思い出して心を満たした。
そして、夢の記憶は遠い過去の事なのではないかと気づき始めた頃、エゼキエルについて神殿内の書館に何度か忍び込んで調べた事がある。ただ、知れたのは“特別位神官”という役職が約300年前までは本神殿には存在していたという事だけだった。
でも、当時の俺にはそれで十分だった。
愛おしいあの人にはもう会えなくても、俺の中にある愛し愛された記憶が全くの妄想や嘘ではなさそうだ、というあやふやな肯定状態が一番心の救いになったからだ。
真実を深追いして、万が一この幸せな記憶たちが不幸な子供のただの空想で、この世に有りもしない幻だと突きつけられるのが怖かった。
図書館の窓を叩く雨音が急激に強まっていく。雨に臆した生徒たちが、ひとりふたりと席を離れていくのが視界の端に映る。夕刻にはまだ早いというのに、厚く垂れ込める雲の為に、窓の外に暗幕を落とされたように薄暗い。
先程拾い上げた、ずしりと重さのある歴史書をぱらりぱらりと捲る。
“それ”は知ろうと思えばいつだって簡単に知れた事なのだ。
ただ、ずっと気が進まず避けていた。
どこまでも真っ直ぐな「君」の事だから、きっと“そうなのだろう”と思っていたから。
飽くまでこれは確認作業だ。
知っても何ができるわけでもない、始末に負えない話なのだが、エゼキエルの責任だから、いつかは知っておくべきなんだろうと思う。
近代王家の家系図に、彼の名前はあった。その下に控えめに記された行年は、エゼキエルが最後に記憶していた彼の年齢――24と一致していた。
―――彼は、ミラード殿下はエゼキエルの後を追うように亡くなっている。
「やっぱり」
唇の内側で吐息だけで呟いた声は、何もかもを責めるように打ち据える雨音に掻き消された。
あの人は、過去も今も変わらない。顔立ちや体格、声も、折り目正しい所作も、王族にしては優し過ぎるお人好しな所も、愛を囁く時とろりととろけるように笑う所も。
ただ、明らかに違うと感じる所もある。ひたすら優しく気遣わし気にエゼキエルを抱くミラード殿下に対して、ジェラード殿下は俺から自由を奪うように荒々しく性行為を行う。
何故か、だなんて今まで深く考えなかった。考えてしまえば、どうしようもない現実に直面してしまいそうだったからだ。「ミラード殿下はエゼキエルを愛していたが、ジェラード殿下が俺に求めていたのは、一時的な性欲処理の相手だ」と。
レポートをほぼほぼ完成させ、最後に参考文献を一覧に書き写す。視野狭窄をかけた脳みそが、ふと一件の引用元の書き漏らしを見つける。文献名は記憶していたが、編者名が不確かだ。面倒だが地下書庫まで確認に行かねばならない。帰宅する前に気づけたのは、僥幸だ。
私物を帆布の鞄に詰めて肩にかけ、書きかけの紙類は上に乗った数本の筆記用具ごと丸めてそのまま鞄の上部に挟み込むように突っ込む。閲覧机の上に何も残っていない事を目視して、地下書庫への階段に向かった。
図書館の中でも中世代文献など、希少性が高いが使用頻度の低い文献は何ヶ所かに別れた地下書庫に格納されている。俺が探しているものは、一番奥まった図書館北側の地下階段からしか行けない最下層で、滅多に人の通らない場所だ。今日は、その階段に向かうまでの間にも誰ともすれ違わなかった。世界にただ一人になったような妙な居心地の悪さがある。
階段を二、三歩降りた所で、雨音が遠ざかった代わりに人の声を聞いた気がして心臓がぞわりと浮いた。
いや、何を驚いているんだ、と詰まりかけた息を吐く。図書館に人がいて何も不思議はない。今までこの地下書庫で人とかち合った事はほとんどないが、どうやら今日は珍しく先客がいたようだ。
今は誰の顔も見たくない気分だったので、一瞬出直そうかとも思ったが、編者名一つ確認する為だけにそこまでする事はないだろう。誰がいようと他人だ。顔を伏せさっさと目的を済ませてしまえばいい。
一歩一歩進むごとに、魔法術で管理された空調設備の駆動音に混じって聞こえてくる声が鮮明になっていく。必要以上に内容を拾ってしまう事のないように、意識的に思考を逸らして足を進めていた。だから、気づくのがやや遅れてしまった。その声が耳に馴染んだものだと気づいた瞬間、身体が雷に貫かれたように硬直した。
今、最も聞きたくない、でも最も愛おしい声。
指先までじわりと冷たい汗をかく。
「…で、何も問題はない。全てが終わりさえすれば、後の事はどうとでもなる」
「そおんな事言ってもー、さすがに焦り過ぎじゃない?それにお前がそこまで捨て身にならなくてもなんとかなるんじゃない?」
淡々とした殿下と、ひどく焦ったようなアレクス先輩の声がはっきりと聞こえてくる。
これは、聞いていいものだろうか。立ち去るべきか、と思いつつそれを躊躇ってしまう。その間にも二人の会話は進む。
「必要はある。最優先事項だ」
「最優先って、うーん…」
言い切る殿下に、アレクス先輩が困り果てたとばかりに口ごもる。
「俺の命より大事な事だ」
一際強い口調は怒気すら含んでいるようで、部外者の俺ですら身がすくむ。
“殿下にとって命より大事なもの”は、俺ではない。つまり、それは。
「やっと手に入れたんだ。絶対に手放さない」
頑なな殿下の態度に、アレクス先輩が盛大に溜め息をつく。
「わかったよお。じゃあもう止めない。で、“ジェラード殿下とガブリエル・フローレス令嬢の婚約”の打診はどこまで進んでるの?」
視界が眩み、全ての音が遠くなった。
そうか。二人は結婚するのか。あの二人ならきっと、おとぎ話のように末永く幸せを築くだろう。
口元に自然と自嘲が浮かぶ。誰が見ているわけでもないので、遠慮なく顔を歪めた。眼窩が熱を持ってそれが目端から雫となって湧き出して、いくらでもこぼれ落ちていく。
諦めろ。
「公爵家当主には、陛下の名の元に正式な書簡で登城要請をする。それも二日以内には整うだろう。それはつい先刻ガブリエル嬢にも伝えてある」
「おお~。付き合わされるガブちゃんが可哀想なくらい気がはっやいなあ。もう必死だねえ」
「当たり前だ」
毛足の豊かな絨毯は、俺のしょうもない涙も、全て吸い込んでくれる。
諦めろ。忘れろ。
「白百合は俺のものだ。誰にも渡さない」
なるほど、と俺は内心深く深く納得した。
ガブリエルを姫小百合ではなく白百合と称するという事は、“ジェラード殿下は、ミラード殿下の記憶を持っている”のだ。
だから、きっとひと目でエゼキエルと瓜二つのガブリエルに心惹かれ、出会ってひと月程にも関わらず急性に囲い込もうとしているのだ。
やはり俺に付け入る隙なんて微塵もなく、俺は最初の最初から勘違い野郎だったわけだ。特にここ数日の俺の努力は相当に空回りで、殿下からすればどれ程にうざったらしいものだっただろう。
出来るなら、もっと早くに知りたかったな。
震える身体を叱咤して、ゆっくりと踵を返す。笑いそうになる膝を、漏れそうになる醜い嗚咽を、奥歯を強く噛み締めて堪え続ける。
人影の一つもない、広く淋しい図書館内を足早に縦断して外に出る。直ぐ様、強い雨足に全身が容赦なく嬲られるが、熱したように熱い瞼と頬にはちょうど良かった。全てを打ち付ける雨音は嗚咽を遠くまで届ける事無く隠したまま押し流して行く。
大丈夫。俺は大丈夫だ。諦められる。
手に入らないものに想いを残すな。今までそうやって生きてきたじゃないか。
未練を残さず諦めろ。感情を殺せ。
大丈夫。俺ならできる。
何度も言い聞かせる。
願わくば、殿下への想いが雨で流れて行けばいいと心の底から思う。
「うう、く……っ、ふっ……でんかあ」
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