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しおりを挟む「今帰り? 戸島は?」
「あたし達さっきまでずっとアパートにいたんだよね。で、今は見送ってきた帰り」
「そうなんだ」
美咲の口ぶりから、夏弥は察する。
きっとスタバのあと、美咲と芽衣はすぐにアパートへ向かったのだろう。
夕暮れ色に染まる道を歩いてきていた美咲は、どことなく儚い印象があった。
それがアスファルトを這って伸びていた影のせいなのか、オレンジ色に染まりつつある彼女のショートボブのせいかはわからない。
でも夏弥は、今目の前にいる鈴川美咲が、朝の彼女とは少しだけ違う女の子のようにも見えていた。
「あ。それ、今日の晩ごはん?」
美咲は夏弥の手からさがっているビニール袋を見つめている。
「ああ。帰り道のついでに買ってきた」
「袋、持つよ?」
「いや、いいよ」
「なんで? 夏弥さん鞄も持ってるし、重そうじゃん」
「大丈夫。そんな重くない」
「……そう」
(気さくに手を貸してくれようとしてるのは、やっぱり戸島にツーショットを送ってしまった罪悪感から……?)
美咲はいつも、理由なく自分に手を貸してくれることなんてない。
美咲にあるのは打算や罪滅ぼしだ。と、夏弥は思い込もうとしていた。
美咲自身が何か失敗を犯したり、誰かに借りを作った時、彼女は自分の気持ちを軽くするために行動する。もしくは、利害があるから行動する。
「今日、料理教えてね」
「……わかった」
「……?」
美咲と日々の時間を過ごしていく中で、夏弥はそういった法則みたいなものが彼女のなかにあるのだと思い込んでいた。
美咲がただの好意で自分に近付いたり、話し掛けたりすることはないのだと。
(勘違い男ってイタイしな……。そういう思い上がりだけは避けたい。何より、幼馴染である以上、好意というよりはただの親しさからなんだろうし)
鈴川家のアパートまで、二人は並んで歩いた。
前にも後ろにも人影はなかった。
夏の空は雲とカラスで彩られていた。
ずっと遠くまで空に並ぶ雲。その下を滑っていくカラスの群れ。雑多なそれらだ。
「今までずっとあっちのアパートに居たの?」
ふと、そんな風に切り出してきたのは美咲の方だった。
「ん。秋乃が珍しく誘ってきたからな」
「え? 誘うって?」
「アニメだよアニメ。一緒に観ようって言われてさ。どうせ時間あったし、半分惰性だったけど二人で観てたんだ」
「ふぅーん。……ねぇ、夏弥さん。前から思ってたんだけど、夏弥さんと秋乃って、かなり仲良い兄妹だよね?」
「そうか……?」
「そうでしょ。あたしは洋平と仲良くないから、夏弥さんと秋乃の感覚がわからないけど。……でも仲良しな兄妹とかいう都市伝説が、どんな感じなのか、興味はある」
「都市伝説って……。大袈裟じゃね? 第一、小さい頃から俺達のこと知ってんじゃん」
「…………」
「そんなに興味があるなら洋平と仲良くしてみればいいだろ? 期限決めてないけど、俺達の交換生活が終わったら美咲はまた洋平と一緒に暮らすわけだし」
「……」
美咲は俯きがちに視線をさげ、しばらく無言のままでいた。
きっと彼女の考えていることが読めるなら、こんな時にどんな声をかければいいのか、簡単に答えが出せそうなものだ。
一緒に家路につく隣の美少女へ目を向けながら、夏弥はそんなことを思っていた。
すっきりとしたその子の顔立ちは、やっぱりファッションモデルの仕事をしていても違和感がなさそうだし、どこかメランコリックなその表情は依然男心をくすぐる。
(たぶん俺が幼馴染みじゃなかったら、簡単に一目惚れしていたんだろうな)
続けて、夏弥は思った。
(美咲と高校で初めて出会うような人生だったら、俺はこうして今、肩を並べて歩いていないはずだ。特に女子と関わることもなく、平凡な非モテ男子のスクールライフを適当に過ごしていたんじゃないか?)
夏弥が自分のことを振り返っているあいだ、美咲はこの沈黙をどうしようか悩み続けていた。
それから空気を替えるためとばかりに、彼女は違う話題を持ち出す。
「そういえばさ。スタバのラテ、夏弥さんの分も買ってあるんだよね」
「え? もしかして巨峰なんちゃら?」
「そう。巨峰たっぷり生クリームブルーラテ。最初は芽衣に誘われて渋々って感じだったんだけど、飲んでみたら案外これがイケてて」
そう言いつつ、美咲は夏弥にスマホをググっと見せつける。
そこに映る紫色の飲み物は、確かにぶどうの王様を名に冠するだけの存在感があるようだった。
「へぇ~。巨峰か……。えっと? 巨峰たっぷりの……なんだっけ?」
「巨峰たっぷり生クリームストロングラテ」
「え。そんな強そうな名前だったっけ?」
「今回めっちゃ美味しかったからね。マジでヤバいよ? 飲んだらテンションだだ上がりだから」
「それってちゃんと合法的な飲み物なんだよな……?」
もちろん、スタバ(※正式名称:スッタバックス)は大変健全なコーヒーショップである。
◇ ◇ ◇
(なつ兄にあんなこと、訊くんじゃなかったなぁ……)
さて、藤堂家のアパートでは、その後も秋乃が延々とアニメ『にゃん〇い!』を観続けていた。
観続けつつ、少し後悔していた。
(そりゃ困惑するよね。妹から急にああいう話されたらさ)
夏弥が把握していたように、藤堂秋乃はネット界隈における下ネタにかなり精通している女子だった。博学であり、耐性もある。
日頃からパソコンでネットと繋がり、動画サイトや掲示板を漁っては、新境地に胸を高鳴らせたりなどしている。
一学期の途中、学校でも指折りのイケメン、幼馴染で一つ年上の鈴川洋平となぜか同居することになったのだけれど、それは秋乃にとっての転機だったのかもしれない。
「ただいま~」
「あ、洋平おかえりー」
藤堂家のアパートに鈴川洋平が帰ってきた。
時刻は夕方の六時を回ったところだった。
ナチュラルパーマの当てられた茶髪と、切れ長で綺麗な瞳が特徴的な稀代のイケメン君。そんな鈴川洋平は「あ~、家は涼しいな~」と声を漏らしながら、汗に濡れたシャツを指でつまんでいた。
パタパタと音を立てて、服の中に空気を含ませたりしていて。
そして今日は珍しく、他の女子を誰一人連れてきていなかった。
玄関で靴を脱ぎながら、洋平は脱衣室のほうへと向かう。
「秋乃ー、先に風呂入っていい?」
「全然いいよー」
「ありがと。ふぅー。最近マジで暑すぎんだよなぁ~!」
「……そうだね」
「じゃあサクッと入るわ~」
洋平は、寝そべっている秋乃に親指を立ててグッドポーズをかますと、すぐさま脱衣室へ飛び込んでいった。
汗でどろどろになったその身体を、さっさとシャワーで洗い流してしまいたかったに違いない。
「……」
洋平が入浴しているあいだ、秋乃はつい先日のことを思い出していた。
その日は、洋平以外にももう一人、女の子が一緒に帰ってきていて。
(あの日一緒だった人、浅海さんて言ったっけ……)
藤堂家のアパートへやってきた女子、浅海ヒロは、洋平や夏弥と同じ三條高校二年の女子である。
ウェーブの掛かった亜麻色の髪と左目の横についた涙ぼくろ。
そして推定Fカップはあろうという、それはそれは主張の強いお胸が印象的な、いわゆる洋平のソフレだ。
ちなみに現在、洋平はソフレ(※添い寝フレンド)を三人ほど抱えているのだけれど、その中でももっとも付き合いが長く、そしてもっとも仲の良い女子がこの浅海ヒロだった。
だけれど、付き合いの割にはさほど爛れた身体の関係はなく、割に健全と呼んで差し支えないくらいの接し方しかしていなかった。
だから、あの日秋乃が見てしまったものは、本当に月に数回あるかないかのタイミングだったわけで――――それこそ交通事故のようなものだった。
◇
「ねぇ、鈴川。今月まだ一回もしてないし、今日……だめ?」
「え? ……そうだな。たまにする? ……いいよ?」
「うん……あ、でも静かにしないと、秋乃ちゃんに気付かれるよね……?」
「どうだろ。でも、秋乃は一回寝るとなかなか起きないんだよね」
「そっか……あ、ちょっと」
「浅海、なんか珍しく緊張してる?」
「や……他の人が向こうで寝てるって思ったら、なんかさ……。それに……」
「それに?」
「……す、鈴川の手がやらしい」
「ふふっ。……あ、今日の下着すごいかわいいじゃん。俺、水玉結構好き」
「これ? これ、この前友達と……あ、ちょっと。まだ話してるのに――
そう。
その夜、秋乃が寝てしまった頃、洋平とヒロは久しぶりに身体を重ねていた。
ソフレと言っても、どの程度までの接触を良しとするかは人によって線引きが違う。
それは洋平とヒロも同じで、二人には二人のルールがあった。
キスや、身体を触り合うことまではOKで、それ以上の接触はなるべく控える。
それがこの二人のルールだった。
控えて。我慢して。制限を続けて。
こうした縛りの先に満たされる気持ちがあることを、二人はよく知っている。
何事も適度に。
ある程度の時間をあけて。
それは、いくつも恋愛を経たからこそ培われる価値観なのかもしれない。
けれども、もちろんたまには激しく身を絡ませることもあって。
「相変わらず、育ちすぎですね。これ」
「ちょっと? 好きで大きくなってるわけじゃないってば。いつも言ってるじゃん」
その日が久しぶりだったこともあり、二人は予想以上に燃え上がってしまった。
結局、二人はそのまま夜通し――
秋乃はその夜、特に意識せず、たまたまトイレに立ってしまった。
電気の消えた薄暗いリビングを通って、トイレへ向かう途中のことだった。
(…………何の音?)
洋平とヒロが寝ている部屋のほうから、かすかな物音と声が漏れて聞こえてくる。
秋乃にとっては、住み慣れはじめたアパート生活。無論、電気なんて付けなくても、ドアの位置くらいはほとんど感覚で把握していた。
(あ……これって)
秋乃はその時点で、ドアの向こうの二人が何をしているのか、簡単に想像することができていた。
(洋平がモテるのは知ってたけど。やっぱりもう……アレ、してるんだよね?)
秋乃の鼓動が速くなる。
ドアに手をかけて、少しだけ覗いてみたくなってしまう。
興味本位だった。
ずっと、パソコンのモニターや、同人誌でしか見たことがなかった男女の深いコミュニケーションを、もしかしたら直に見ることができるかもしれない。
そう思った瞬間、息が浅く、速くなる。
ゆっくりとドアを引いて、その隙間から中を覗く。
秋乃は、覗いてしまったのだ。
◇
(私が夜中にトイレなんて行かなかったら、あんなの、見なかったんだよねきっと)
秋乃はあの時、はからずも興奮してしまっていた。
けれど、人の行為を覗いてしまったこと。
幼馴染みの生々しい姿を見てしまったこと。
興奮を覚えた反面、それらに後ろめたさや嫌悪感といった、マイナスに働く気持ちも多く抱いてしまっていたのである。
(はぁ……。なーんで覗いちゃったかなぁ、私。バカなのか? そのせいで変に洋平のこと意識しちゃうし。……というか、罪悪感ヤバいんよなぁ……。でも謝るのも、お互い恥ずかしいだけだろうし)
一方、目の前のモニターに流れ続けるアニメは、とても平和そうだった。
猫アレルギーの主人公が、複数の猫ににじり寄られ、「ぐぬぬ……」といった苦悶の表情を浮かべている。
「なつ兄なら……こういう時、やっぱ洋平になにか言うのかな……?」
実の兄、藤堂夏弥に思いきって「エッ〇、したことある?」なんて訊いてはみたものの、逆に質問を返され、自分が窮地に追いやられてしまった。
ああいった回りくどいことは、自分自身苦手なのかもしれない。
今日のことを振り返って、秋乃は改めて思うことがあった。
それは――――
いざという時、自分がいつも助け船を求めてしまうのは、たった一人の兄だけだということ。
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