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第四章 展示会と先輩の決意

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「本日はお越しいただき、どうもありがとうございます。随分と書物史にお詳しいようですね」

 スタッフさんが、ふわりと微笑む。黒のスーツをかっこよく着こなした、二十代後半と思われる男性だ。
 どうやらこの人、奈津美先輩に興味が湧いて近づいてきたらしい。
 ああ、もちろん異性としてという意味ではない。来て早々、身ぶり手ぶりを交えながら語り尽くす女子高生を見たら、誰だって気になるだろう。実際、他のスタッフさんたちもこちらばかり見ている。

「よろしければ、こちらの展示品のご案内をさせていただきますが、いかがでしょうか?」

「はい! ぜひお願いします!」

 奈津美先輩が、うれしそうに何度も頷いた。
 多分、展示された本について語り合える相手がほしかったのだろう。さすがに僕では、その役目を果たすのは難しいし。
 もちろん、僕も案内をしてもらうことに異存はない。後学のためにも、色々教えてもらうとしよう。

「では、参りましょうか。まずは、こちらの三大美書について解説を。ただ今の『ダンテ著作集』の隣にありますのが、ダヴズ・プレスの『欽定英訳聖書』になります。モダン・タイポグラフィーの先駆けとも言われるように、ダヴズ・プレスはシンプルで美しい活字を作り出したことでも有名です。しかし、この美しい活字はダヴズ・プレスの設立者たちの不和によって、失われてしまいました」

「あ、知ってます。確か、製本家のサンダーソンが活字をテムズ川に投げ込んでしまったんですよね。自分が死んだ後、誰にもこの活字を使われないように神様へ委ねます――とかなんとか」

「さすが、ご存知でしたか。その通りです。ただ、この活字なのですが、二○一五年にテムズ川から一部が発見され、話題になりました」

 スタッフさんが語ると、奈津美先輩も「私もそのニュース見ました!」とまた食いついた。そして、ふたりで書物史談議に花を咲かせ始める。

 話についていけない僕は、すっかり蚊帳の外だ。奈津美先輩が楽しそうにしているので、こちらとしても有り難い限りなんだけど……何だかちょっと悔しい。このスタッフさんに罪はないし、完全に僕のやっかみだということはわかってる。けど、おもしろくないものはおもしろくないのだ。
 なので、僕は僕で展示を楽しむことにした。どうせ話には加われないのだから、先輩たちの会話を見ているだけ損だ。

 スタッフさんはシンプルで美しい活字と言っていたけど、開かれたページの活字は確かに味がある……気がする。綺麗は綺麗なんだけど、芸術面に素養がない僕には、高尚にこの活字の良さを語る能力はないようだ。
 それでも、この活字は創設者たちにとって命に等しい宝だったのだろう。なんたって、神に委ねて投げ捨ててしまったくらいなのだから。

 にしても、投げ捨てる方も投げ捨てる方だが、それを百年近く経ってから引き上げるなんて、人の執念とは恐ろしいものだ。川底の総さらいでもやったのだろうか。見つかった活字は百年近く川の水にさらされていたわけだけど、果たして今でも使える状態なのかな? 引き上げられたという活字を見てみたい気がする。

 ちなみに、こちらのお値段は五巻セットで三百万だ。さっきの『ダンテ著作集』を見た後だとインパクトに欠けるけど、それでも十分高い。一冊六十万だ。単純換算で、文庫本千冊分くらい。
 僕がお値段に唸っていると、奈津美先輩たちの談義も一区切りついたらしい。スタッフさんが、同じガラスケースに並んでいる、最後の一冊を指し示した。

「そして、最後にこちらが……」

「ケルムスコット・プレスの最高傑作、『チョーサー著作集』ですよね!」

 スタッフさんの言葉を継ぐように、奈津美先輩が鼻息荒く言った。スタッフさんも、大人の笑顔で「正解です」と拍手した。

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