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しおりを挟む「そりゃ、この時期はまだ梅干ですよ。あ、スーパーの安い梅干ですからね。家のは」
大げさに釘を刺すと、殿下はさらに優しく微笑んだ。もはや子どもの成長を見守る保護者の眼差しに見える。
「スーパーはわかります?」
「ええ」
「高級品がよかったらデパ地下にでも行ってください。お米も立ってますよ。デパ地下は、デパートの地下です。食品売り場」
「ええ、わかってます。昴さん」
立ち止まった殿下にあわせ、私も止まる。
殿下のことだから大げさな謝辞でもお述べになるつもりなのだろう。事実、殿下は私の腕に手をそえ、身体の向きを変えさせ、正面から向き合う姿勢をとらせた。花も受け取り日々会話を重ねているので、私もこれくらいで焦りはしない。
ドキドキもしない。
平常心、平常心。
「私のおにぎりを作る際は、手袋などしないで素手で握ってくださいね」
曇天だというのに、殿下の金髪がキラキラ輝いているのはなぜだろう。それにしても、見れば見るほど不思議だ。一滴も東洋の血が流れていないはずの殿下の口から、こうもスイスイと正確な発音で日本語が飛び出してくるなんて、やっぱり現実味がない。
「駄目ですよ」
「え?」
「駄目です。雑菌は馬鹿になりません。温室培養の殿下なんて、一発でお腹壊します」
夢見心地に陥りそうで、私は最もそうな御託を並べて殿下の腕を振り切った。すぐ歩き出すと、殿下もついてきた。危ない。殿下を、真正面から3秒以上見つめるのは今後やめたほうがいい。
ぼんやりする。
「ねえ、昴さん」
素手でおにぎり握れなんて古風なんだか変態なんだか知らないけど、本当にめんどくさい外国人だ。あ、違いましたね。面倒くさい、でしたね。
「まあラップでクルクルしてサッカーボールにしてあげますよ。ね、殿下。それでいいでしょ」
「昴さん。お願いです」
まずい。変態かもしれない。男の性癖というのは、女からするとびっくりするくらい狭いポイントをついてくることが、往々にしてある。そう珍しい事でもない。
殿下は古き良き素手フェチなのだろう。それか、私より二世代前の誰かに、おにぎりをもらったことがあるのかもしれない。
望郷のおにぎ──……
「無理に歩かないで」
ぴたりと、いや、ぎくりとして、私は足を止めた。背中の殿下を振り返ることができない。
「な、な……っ」
「本当は痛いんでしょう? 私の前で意地をはらないで。ね?」
バレてる!?
一瞬、時間という概念が吹き飛んだけど、それはまあよく喋る殿下の声のおかげで無事に取り戻す事ができた。私は心の準備ができてから顔を見ようと決め、殿下には背を向けたまま、必死で冷静になろうと努める。
バレてる。足が、痛いのは、バレてる。それだけだ。
殿下は女性崇拝国から来た、レディーファースト大尉なのだ。だから、私の体調の変化には敏感なのだ。それだけだ。ありがたい話だ。
殿下の手が、私の手に、ふれる。
全体の印象よりずっと厳しい、硬い、骨ばった手だ。
なぜ、指をからめる?
「あなたが人一倍元気なのはよくわかりましたから、もう散歩はお終いにしましょう」
後頭部で囁かれ、私は意志の力がいかに無力かを思い出した。ふやけていく。私の理性が、殿下の声に押し流されていく。
とはいえ、緊急事態は続いている。盛っている場合ではないだろう、昴よ。
「ヨッ」
声がひっくり返った。
「……よくわかりましたね、さすが殿下だな。昨日、ちょっとコケてしまって。アハ」
「あなたね……」
珍しい、少しあきれたような口調。いけない。
新鮮だからって飛びついちゃ駄目だ。
「目が合った瞬間に挫いたでしょう。もう、私は気が気じゃありませんでしたよ。あんな踵の高い靴を履いて、いつまでたっても飛び回っているんですから」
「…………」
完全にバレてる。
ふり返るのは延期にして、私はなんとしてもこの場を切り抜けようと、つまり、白を切り通そうと心に決めた。
「なんのことですか?」
「おや。がんばりますね」
「殿下、私」
「もちろん、今夜はお休みしますね?」
だんだん声音が厳しくなっていくのは、気のせいだろうか。わからない。私が緊張しているだけかもしれない。でも、背中にぴったり密着した殿下の体温は、これはもう気のせいじゃないだろう。私は今になって、後ろを取らせた致命的ミスに気づいた。後頭部からの囁きは悪魔的な威力でもって、私の理性を剥ぎ取る。
後ろから突かれる妄想が、駆け巡った。
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