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8 在りし日々
しおりを挟むそうして追いかけっこをしながら辿り着いたのは、城壁の上に設けられている胸壁だった。日は既に傾き、辺りを朱色に染め抜いていた。
「よく……ここまで……来てくれた……」
全速力で走ったらしい劉基は息を切らしながら言った。
「来いと……言うから……来たまで……です……」
太史慈も息を切らしていた。手の甲で額やこめかみから伝う汗を拭った。それを見ていた劉基も、自身の汗に気が付いたらしく、衣服の袖で額を拭おうとした。
しかし、その瞬間突風が吹いた。
あ。
咄嗟に太史慈は腕を伸ばし、その小さな体を掴む。
「危のうございます!」
劉基の衣服がはためく音、風が吹き抜ける音がしていた。太史慈は気が付けば、劉基の身体を引き寄せていた。
「……太史慈」
腕の中の劉基は汗まみれで、そして走ったために、頬が紅潮していた。ふう、ふう、と肩で息をしている様を見て、太史慈はやはりこの人は人形ではなくて、人間なのだと思った。
しかしながらその容貌は何もかもが恐ろしく完璧に整っている。完璧に整い過ぎて、年齢がわからない。
「た、助かった」
声も涼やかで心地よく鼓膜を擽る。けれども、話し方や表情は、よく観察すればするほどあどけなさがいくつも見受けられた。いや、と太史慈は気が付いた。
「そういえば」
「なんだ?」
「劉基様はおいくつでいらっしゃいますか?」
「今年で十!」
それを聞いて、太史慈はなるほどね、と納得する。
「どうした、そんなことを聞いて」
「……随分と、人をお揶揄いになると思ったまでです」
「怒った?」
「いいえ、無理もないことだと思いまして」
「どういう意味だ」
「そのご年齢なら、いたずら小僧のわんぱく坊主なのは無理もございません、と」
言いながら、太史慈は劉基を更に引き寄せ、胸に額を押し付けさせた。
「ん、ん、ん、ん……」
劉基が左右に頭を振る。太史慈の胸で額の汗を拭う。ごしごしごし、とこすりつけて、遠慮は一切無かった。
それに太史慈は苦笑するが、悪い気はしなかった。
こっちが勝手に見た目で神聖化していただけなのだから。
美しいから、もしや精霊だったのでは? あるいは人間なのだとしても、年齢以上に落ち着いた人格者に違いあるまい、などと。
けれども、こうして接してみると、ただ美しいだけで年齢相応の子どもだった。
「……もう」
誰に言い聞かせるわけでもなく、独り言ちると太史慈は劉基の後ろ頭を撫でた。艶やかな黒髪だが、やはり幼子特有の癖のない、柔らかな髪をしている。そんな頭が動いた。
「――でも、嘘はつかなかっただろう?」
太史慈の腕の中で、劉基が口を開いた。
「嘘?」
「ここは、城の外だもの」
「そうですね、そこは認めますよ」
風が吹いていた。朱い空が頭上を覆っていた。
「……前から」
ぽつりと劉基が言った。
「はい」
「胸壁に来てみたかったんだ」
「そうなのですか」
「でも、高所は突風が吹くことぐらいは知っているから」
「おや、えらい」
「だから、一人じゃいけないと思って」
「それで私を?」
「お前は、真面目だもの」
「そんなふうに見えました?」
「覚えてないのか?」
「何をです」
「最初に道案内した時、わたしはあれこれ尋ねたじゃないか」
「え?」
戸惑う太史慈を見て、劉基は唇を尖らせた。
「酷い、忘れたのか」
「いや、あの、でも」
「わたしは言ったろう? こんな子供に頼るなんて、よっぽど困ってらしたのですね、と。はいとお前はあっさり言い訳もなく答えたじゃないか。着飾らないのですね、と私が言っても、お前は、はいと答えるのみだった。真面目な方なのですか、それともご趣味ははいと答えること? と言ってもお前は、はいと答えた。何を言ってもお前は、はいと答えるのみ」
腕の中の劉基は膨れ顔をしていた。対する太史慈は、自分ではほとんど覚えていないあの時の様子を劉基に言われ、そして、自分に対して怒っている劉基を目の前にして、夕陽ではない別の熱によって顔が朱に染まっていくのを覚えた。
焦る太史慈を、劉基は何も気が付いていない。
劉基は、太史慈の顔が赤くなっているのは夕陽のためだと思って疑いもしていないし、大体そんなことよりも、太史慈が覚えていないことに憤慨していた。
「面白いやつだから、わたしの臣下にしてやろう、嬉しい? と尋ねても、はいと言った」
「そんなことを?」
「そうだとも」
全くもって太史慈が何も覚えてないのだと知った劉基はぷい、とそっぽを向いた。
「申し訳ございません」
「ふん」
「どうかお許しくださいませんか。この通りでございます」
「……お前だけは」
劉基は顎を上げて太史慈を見た。
「お前だけはなんだか違う気がしたのに」
拗ねたような、いじけたような表情を劉基はしていた。けれども、どことなく心細そうで、何か恐れるものを抱えているようにも見えた。
太史慈はそんな劉基が不思議だった。
確かに劉基は美しい。けれども、接すれば接するほど、ただの子どもだとわかってしまう。だからこそ、出来うる限り不安なものから遠ざけてやりたくなり、そして護ってやりたくなってしまうのに。
一体、何がこの劉基を怯えさせるのかと不思議だった。
父である劉ヨウは由緒正しい家柄の揚州刺史。長年に渡り仕えている臣下が多数いる。そして臣下の忠誠は、この未来の揚州太守にも注がれているだろう。きっと劉基のためならばいくらでも身を張る臣下がいるに違いなかった。
――ましてや、こんな小さな子どもなのに。
拗ねてそっぽを向いている劉基の頬が丸かった。桁外れの美貌で全身を覆われつつも、年齢相応の仕草をしている。
あどけなかった。
けれども、太史慈は劉基の震える手を見た。震えているのは、風の寒さからか、それとも、何かに怯えているのか。
不思議だった。
――誰もがきっと、彼を護りたくなるだろうに。
太史慈は、劉基の小さな頭から薄い両肩、細い両腕、そしてえくぼの残る震えた両手に触れながら、跪いた。
「反省しております。だからもう一度、お誓いさせていただけませんか? どうか私を、あなたの臣下にしてくださいませ。お願いです」
夕陽が差していた。
風が吹いていた。
石畳で出来た胸壁の凹凸の一つ一つに漆黒の影が張り付いていた。
それを、覚えている。
劉基が自分を見つめたのを。
大きな瞳がきらめいたのを。
あの小さな庇護すべき子どもが、泣きかけたのに、笑んだことを、覚えている。
「……嬉しい」
そうして、自分に体を預けたことを。
安堵したことを。
今でも覚えている。
太史慈は、その美しいだけの小さくてかわいらしくて、生きてきた年齢相応の主を何よりも大事にしようと誓った。
彼に害成す者から、身命を賭して守り抜くつもりだった。
けれども、出来なかった。
劉ヨウが治める揚州に、孫策という男が軍勢を率いて攻めてきた。孫策は時代に選ばれし寵児そのものだった。武勇に優れ、快活な性質をしており、多くの者が彼に乱世を平らげる度量を見ていた。劉ヨウは、孫策と比べると、残念ながらいささか凡庸なそこらの男だった。
それでも、太史慈は劉ヨウを――劉基を守るため迎え撃つ覚悟だった。太史慈も武勇には自信があったからだった。
自分を重用さえしてくれれば、きっと防げるに違いないと自負しており、そして重用されるに違いないと思っていた。
しかし、太史慈は重用されなかった。
何故なのか?
太史慈は焦りを募らせた。
客観的に判断しても、孫策を迎撃するにあたって、自分以上の適任者はいなかった。そうでない場合となれば、全員一丸となっても拮抗出来るかどうかも怪しいところだというのに。
敵軍が迫っていながらにして、太史慈は別の敵が城内にいる様に感じた。
誰かが、自分を敵視している、と。
それから太史慈は人伝いに聞いた。主の劉ヨウが「太史慈を使うわけにはいかない」と口にしたというのを。
太史慈は察した。
誰かが裏で糸を引いている。
太史慈は察した。
この戦は敗れる、と。
何に敗れるのか?
それは孫策なのか、違うのか、あるいは、両方か。
太史慈は、察した。
――もしや、自分の想像すらも及ばない、最悪の展開になるのではないかと。
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