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19 黄昏王国 降臨
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まだかしら?
木の上で身を隠しつつ孫魯班は待ち侘びていた。
真夜中からこの庭園に忍び込んだ。木の上で夜が終わるのを見届け、そのまま朝日を浴びた。その後、陽光が音も立てずにゆっくりと昇るのを見た。空が朝焼けから快晴へと移り変わり、そこを小鳥が飛んでいた。様々な変化が絶え間なく訪れていた。
けれども、孫魯班の心はその間、常にとある人物の訪れのみを待ち侘びていた。
どこかで鐘が鳴り、昼過ぎを伝える。
時の経過も、体の疲労も、空腹も感じなかった。
彼に逢えるのだと思えば、何刻でも、何日でも、何カ月でも、何年でも全くもって平気だった。
と、構えていたのだが、孫魯班は不意に、体が揺らぐのを覚えた。
体に、力が入らない。
「……え?」
慌てて木にしがみついたつもりだった。だが、手のひらはざらりとした幹の表面を撫でさすっただけに終わった。
体が、ぐらりと木の枝から零れる。
もう一度手を伸ばそうとするが、今度は腕すら上がらなかった。ずるりと体が落ちる。そのまま地面に落下すると思いきや、その下に生えた枝にぶつかる。鈍い音と衝撃が同時に襲い掛かってくる。しかも、それは一度では済まされず、二度、三度と何度も繰り返された。
「……いったたたた」
気が付けば地面だった。体の節々が痛む。仕方がないので地面に横たわる姿のまま、体のあちらこちらに纏わりついている葉っぱを払おうとした時だった。
「――大丈夫でしょうか?」
そのたった一言で、孫魯班は確信した。
鼓膜を心地よく擽るその声色、話し方、そして口調。
手を止めて、孫魯班は顔を上げる。
昼過ぎの太陽が意地悪をしている。ちょうどその顔は逆光になっていて、真っ黒で見えない。
けれども、だからこそ、その一言が耳どころか、体全体、いや、心や魂にも響いた。
孫魯班は、何かを言おうとした。口を開き、喉を震わせ、何かを伝えようとしたのだが、出てきたのは、声ではなかった。
ヒュッという、小鳥が不慣れな囀りをしたか、あるいは幼獣の未熟な咆哮のような掠れ声だった。
夜中から一滴も水を飲んでなかったことを孫魯班はこの上なく後悔した。喉奥が熱く乾いている。口元を抑えて堪えようとしたのだが、無理だった。堪えきれずに激しく咳き込む。
地面に横たわっていたが、体を丸める姿勢へと変わっていってしまう。
「姫様!」
女官が駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「姫様、しっかり!!」
瞼を固く閉じているけれども、咳き込むたび、涙が溢れる。なんだか情けなかった。女官が背中をさすってくれているけれど、気休め程度にしかならない。
苦しくて仕方がない。
「医師を呼んできましょうか」
咳き込む中に、女官ではない声が聞こえた。孫魯班は本能的に手を伸ばす。
離れてほしくなかった。
「おや」
掴んだのは服の裾だったらしい。掴んだ先の人物が、不意に引っ張られたため体勢がよろめくのを感じ、孫魯班は慌てて目を開けた。
「……あ」
孫魯班は、思わず声を漏らした。目前に、麗しい容貌があった。これ以上ないほど美しく整った眉や目や鼻や唇が、これ以上ないほど完璧なところに配置されている。理想そのものとしか言いようもないものがそこに存在していた。
「……姫様、姫様! ひーめーさーまー!!」
女官は何度も声をかけていたらしい。孫魯班はようやく気が付いた。自分は時を忘れてその人をじっと見つめてしまって、しかも額と額がくっつきあうという凄まじい至近距離だったということに。
慌てて飛びずさろうとする。が、背中に何かが添えられていた。
まさか。
孫魯班は、その人の細い首筋、華奢な肩、そして続く腕の先をおそるおそる追う。すると、どうもその人は孫魯班の背に腕を添えてくれているらしかった。
じんわりとした温もりが服越しに伝わってくる。
「……わっわっわわわっわたし、わたし、わたしわたし」
あれほどにまで熱く乾き荒れ狂っていた喉はいつの間にか完全に治まっていた。けれども、喉や舌が上手く制御出来ない。そう、制御出来ないだけなのに、どうもその人は、勝手に触れたこの無礼者に姫君は取り乱しているとでも思ったらしい。
形良い眉根を寄せ、悲愴な面持ちになった。
「大変申し訳ございませんでした。主君の大事な姫君に対し、この臣は凄まじく不埒なことを致しました」
ぱちり、とその人は長い睫毛で瞬きをした。瞳が煌めいたのは、その眼光が潤んでいるからかもしれない。
「この罪、如何様にもお裁きください」
言われて、孫魯班は思い切り首を横に振った。
「ち、違うの! 違うのよ!!」
叫ぶと、その人は意外にもあどけない仕草で小首を傾げた。まだ眼を潤ませながら。それが妙に庇護欲を誘う。
「ただ……ただ……ただ単純にわたしが、あの、あれ、なんだか、あれ、なんだろう」
胸中から様々な感情が湧き出てくるせいだろうか。どうしてだか適切な言葉が何一つとして出てこない。もどかしくて、じれったくて、それでも伝えたくて、頭を働かせようとした時、鈍痛がした。
その鈍痛は、昔からうんざりするほど、覚えがあるものだった。
――ああ、わたし、だいぶ。
自身がとてつもなく無茶なことをしたのだと、ようやく孫魯班は厭が応にも自覚し始めた。
孫魯班は、後先考えないおてんば娘なのだが、実は幼少期から体が弱かった。早朝に一刻ばかり庭先を散歩しただけでも体調を崩し、それが冬の早朝だった場合は翌日から三日は高熱にうなされた。父や親族や女官に多くの心配をかけてきた。安静に過ごすよう説かれたり、怒られたり、命じられたのは数知れない。しかし、当の孫魯班からしてみれば、どう過ごそうとも結局は些細なことで体調を崩してしまうのだ。ならば、好き勝手に振舞って高熱を出す方が利のある様に感じていた。
今回も、この頭痛は高熱の到来を告げる前触れに違いなかった。
疼く頭をもたげながら、孫魯班は袂を探る。鎮痛薬は常備している。とはいえ、わざわざ意識して用意してきたわけではない。日頃から着る服の袂に鎮痛薬を忍ばせるのは、孫魯班にとって衣服の前に下着を身に纏うのと同じくらい当たり前のことだった。
探る指先に、鎮痛薬の入った巾着袋の感触がしたので、取り出そうとしたのだが、動きを止めた。
孫魯班は、その人を見た。
「……どうしたのです?」
その人は不思議そうに問い尋ねてきた。
「あのう……そのう……」
孫魯班は迷った。
別段、何食わぬ顔でいれば、その人だって何も気に止めやしないのかもしれない。いや、何かしら思ったところで、それがもしや、それだとは結びつけやしないだろう。いやいやいや、果たしてどうだろうか。
様々なことをつらつらと考えてしまう。
「――姫様、もしや」
察したらしい女官が何かを言おうとした。
「う、うるさいわねえ! なんでもないわ!!」
孫魯班は慌てて袂から巾着袋を取り出した。
普通に振舞えばよいのよ。そうすれば、きっと何も勘付かれはしないわ。
内心でそんなことを思いながら巾着袋の口を開け、薬を取り出した。中に入っていた丸薬を一つ、つまみ上げる。口を開けようとしたその刹那だった。
その人は口を開けようとする姫君から気を使ったのだろう。視線を落とそうとしていた。
けれども、その途中で形良い目が見開かれた。とある一点に視線を止める。
孫魯班の巾着袋を見つめる。
ただただひたすら美しい面差しをしたその人物が、疑問を浮かべ始めているのかもしれなかった。
その疑問は、もしや。
止めたくて、孫魯班は急いで口内の丸薬を嚥下しようとした。しかし、彼に魅せられていたのは孫魯班だけではなく、すぐそばの女官もだった。
「あの巾着袋、姫様にぴったりでしょう」
女官が、熱に浮かされたように話しかけていた。
「あの巾着袋に施された刺繍の絵柄は……」
「姫様の字ですの」
「字?」
「姫様の字、大虎というのです」
字、というのは氏名以外のもう一つの呼び名にあたる。孫魯班の字は大虎なのだった。
このことに関して、孫魯班は大いに不服だった。
名付けた母に文句を言った回数は一度や二度ではない。しかし、母は「だって、あなたがお腹にいる時、大きな虎の夢を何度も見たのよ」と嘘だか本当だかわからないことを言うのだった。
「姫様は、あまりお好きではないようで」
そこまでぺらぺらと喋っていた女官は、孫魯班が憤怒の形相をしていることに気が付いたらしい。言葉を止めた。
「ひ、姫様」
女官のしどろもどろな声。けれども、孫魯班は体内から怒りという熱が沸くのを抑えきれなかった。そのまま怒鳴ってしまいたい。
それを、どうにか実行せずにいるのは、側にいるその人に、そんな言動を見られて悪印象を抱かれたくないという想いだった。
「――私は……可愛らしい字だと思うのですけれど」
それは、慰めや憐憫を一切感じさせない声色だった。本心から慈愛しているような声色に、孫魯班はつい無意識に俯いていた顔を上げる。
すると、その人は孫魯班を見ていた。形良い目が緩やかな半円を描いている。嬉しそうに微笑していた。
まるで、ようやく宝物を見つけた、と言わんばかりに。
自分が、その人にとって、ものすごく大事なもののような気がして、怒りや悲しみがたちまち霧散していった。
「ほ、本当……? 本当にそう思ってくれる……?」
おずおずと尋ねてみると、その人は深く頷いてくれた。
「ええ、本当に」
はっきりと告げられ、孫魯班は、なんだか泣きそうになった。
「わたし……あの、あのね」
震える声で、細い糸を手繰る様にして孫魯班は話そうとした。話したくて、話したくてたまらなかった。
「大農様! こちらでございましたか。呉王様がお待ちでございます」
衛兵が叫びながらこちらへ駆けてきた。それに、その人は顔を向ける。
「呉王様が、さんざんお待ちで……心配して……探して来いと……」
衛兵の声が、途中から腑抜けていく。それは無理のないことだった。
衛兵はその人に見惚れてしまっているのだ。
「では我が君にお伝えください。しばしお待ちくださいませ、この劉基、必ずや我が君の元へ参りますからと」
言われた衛兵はしばらく棒立ちしていた。その人に見惚れてしまい、その声色に聞き入ってしまい、意識的にも、無意識的にも、この場を離れ難くなっていた。
「お願いいたします」
小首を傾げられ、ようやく衛兵は足を動かし、駆け去って行った。
父の執務室のある方向へとその背が小さくなっていく。急いではいるのだけれど、ぎこちない。それをぼんやりと見ていたが、そんなに長い時間ではなかった。
「……我が君が、お待ちのようでございます」
孫魯班と女官に苦笑し、一礼した。彼もまた、父の執務室へと向かう。穏やかな足取りだった。
その場に取り残された孫魯班と女官は、何度か春風に吹かれてから、ようやく我に返った。
「ねえ、あの人が」
孫魯班はぽつりと呟いた。
「ええ、そうです。あの方が、孫権様から格別の扱いを受けていらっしゃる、大農の劉基様ですよ」
木の上で身を隠しつつ孫魯班は待ち侘びていた。
真夜中からこの庭園に忍び込んだ。木の上で夜が終わるのを見届け、そのまま朝日を浴びた。その後、陽光が音も立てずにゆっくりと昇るのを見た。空が朝焼けから快晴へと移り変わり、そこを小鳥が飛んでいた。様々な変化が絶え間なく訪れていた。
けれども、孫魯班の心はその間、常にとある人物の訪れのみを待ち侘びていた。
どこかで鐘が鳴り、昼過ぎを伝える。
時の経過も、体の疲労も、空腹も感じなかった。
彼に逢えるのだと思えば、何刻でも、何日でも、何カ月でも、何年でも全くもって平気だった。
と、構えていたのだが、孫魯班は不意に、体が揺らぐのを覚えた。
体に、力が入らない。
「……え?」
慌てて木にしがみついたつもりだった。だが、手のひらはざらりとした幹の表面を撫でさすっただけに終わった。
体が、ぐらりと木の枝から零れる。
もう一度手を伸ばそうとするが、今度は腕すら上がらなかった。ずるりと体が落ちる。そのまま地面に落下すると思いきや、その下に生えた枝にぶつかる。鈍い音と衝撃が同時に襲い掛かってくる。しかも、それは一度では済まされず、二度、三度と何度も繰り返された。
「……いったたたた」
気が付けば地面だった。体の節々が痛む。仕方がないので地面に横たわる姿のまま、体のあちらこちらに纏わりついている葉っぱを払おうとした時だった。
「――大丈夫でしょうか?」
そのたった一言で、孫魯班は確信した。
鼓膜を心地よく擽るその声色、話し方、そして口調。
手を止めて、孫魯班は顔を上げる。
昼過ぎの太陽が意地悪をしている。ちょうどその顔は逆光になっていて、真っ黒で見えない。
けれども、だからこそ、その一言が耳どころか、体全体、いや、心や魂にも響いた。
孫魯班は、何かを言おうとした。口を開き、喉を震わせ、何かを伝えようとしたのだが、出てきたのは、声ではなかった。
ヒュッという、小鳥が不慣れな囀りをしたか、あるいは幼獣の未熟な咆哮のような掠れ声だった。
夜中から一滴も水を飲んでなかったことを孫魯班はこの上なく後悔した。喉奥が熱く乾いている。口元を抑えて堪えようとしたのだが、無理だった。堪えきれずに激しく咳き込む。
地面に横たわっていたが、体を丸める姿勢へと変わっていってしまう。
「姫様!」
女官が駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「姫様、しっかり!!」
瞼を固く閉じているけれども、咳き込むたび、涙が溢れる。なんだか情けなかった。女官が背中をさすってくれているけれど、気休め程度にしかならない。
苦しくて仕方がない。
「医師を呼んできましょうか」
咳き込む中に、女官ではない声が聞こえた。孫魯班は本能的に手を伸ばす。
離れてほしくなかった。
「おや」
掴んだのは服の裾だったらしい。掴んだ先の人物が、不意に引っ張られたため体勢がよろめくのを感じ、孫魯班は慌てて目を開けた。
「……あ」
孫魯班は、思わず声を漏らした。目前に、麗しい容貌があった。これ以上ないほど美しく整った眉や目や鼻や唇が、これ以上ないほど完璧なところに配置されている。理想そのものとしか言いようもないものがそこに存在していた。
「……姫様、姫様! ひーめーさーまー!!」
女官は何度も声をかけていたらしい。孫魯班はようやく気が付いた。自分は時を忘れてその人をじっと見つめてしまって、しかも額と額がくっつきあうという凄まじい至近距離だったということに。
慌てて飛びずさろうとする。が、背中に何かが添えられていた。
まさか。
孫魯班は、その人の細い首筋、華奢な肩、そして続く腕の先をおそるおそる追う。すると、どうもその人は孫魯班の背に腕を添えてくれているらしかった。
じんわりとした温もりが服越しに伝わってくる。
「……わっわっわわわっわたし、わたし、わたしわたし」
あれほどにまで熱く乾き荒れ狂っていた喉はいつの間にか完全に治まっていた。けれども、喉や舌が上手く制御出来ない。そう、制御出来ないだけなのに、どうもその人は、勝手に触れたこの無礼者に姫君は取り乱しているとでも思ったらしい。
形良い眉根を寄せ、悲愴な面持ちになった。
「大変申し訳ございませんでした。主君の大事な姫君に対し、この臣は凄まじく不埒なことを致しました」
ぱちり、とその人は長い睫毛で瞬きをした。瞳が煌めいたのは、その眼光が潤んでいるからかもしれない。
「この罪、如何様にもお裁きください」
言われて、孫魯班は思い切り首を横に振った。
「ち、違うの! 違うのよ!!」
叫ぶと、その人は意外にもあどけない仕草で小首を傾げた。まだ眼を潤ませながら。それが妙に庇護欲を誘う。
「ただ……ただ……ただ単純にわたしが、あの、あれ、なんだか、あれ、なんだろう」
胸中から様々な感情が湧き出てくるせいだろうか。どうしてだか適切な言葉が何一つとして出てこない。もどかしくて、じれったくて、それでも伝えたくて、頭を働かせようとした時、鈍痛がした。
その鈍痛は、昔からうんざりするほど、覚えがあるものだった。
――ああ、わたし、だいぶ。
自身がとてつもなく無茶なことをしたのだと、ようやく孫魯班は厭が応にも自覚し始めた。
孫魯班は、後先考えないおてんば娘なのだが、実は幼少期から体が弱かった。早朝に一刻ばかり庭先を散歩しただけでも体調を崩し、それが冬の早朝だった場合は翌日から三日は高熱にうなされた。父や親族や女官に多くの心配をかけてきた。安静に過ごすよう説かれたり、怒られたり、命じられたのは数知れない。しかし、当の孫魯班からしてみれば、どう過ごそうとも結局は些細なことで体調を崩してしまうのだ。ならば、好き勝手に振舞って高熱を出す方が利のある様に感じていた。
今回も、この頭痛は高熱の到来を告げる前触れに違いなかった。
疼く頭をもたげながら、孫魯班は袂を探る。鎮痛薬は常備している。とはいえ、わざわざ意識して用意してきたわけではない。日頃から着る服の袂に鎮痛薬を忍ばせるのは、孫魯班にとって衣服の前に下着を身に纏うのと同じくらい当たり前のことだった。
探る指先に、鎮痛薬の入った巾着袋の感触がしたので、取り出そうとしたのだが、動きを止めた。
孫魯班は、その人を見た。
「……どうしたのです?」
その人は不思議そうに問い尋ねてきた。
「あのう……そのう……」
孫魯班は迷った。
別段、何食わぬ顔でいれば、その人だって何も気に止めやしないのかもしれない。いや、何かしら思ったところで、それがもしや、それだとは結びつけやしないだろう。いやいやいや、果たしてどうだろうか。
様々なことをつらつらと考えてしまう。
「――姫様、もしや」
察したらしい女官が何かを言おうとした。
「う、うるさいわねえ! なんでもないわ!!」
孫魯班は慌てて袂から巾着袋を取り出した。
普通に振舞えばよいのよ。そうすれば、きっと何も勘付かれはしないわ。
内心でそんなことを思いながら巾着袋の口を開け、薬を取り出した。中に入っていた丸薬を一つ、つまみ上げる。口を開けようとしたその刹那だった。
その人は口を開けようとする姫君から気を使ったのだろう。視線を落とそうとしていた。
けれども、その途中で形良い目が見開かれた。とある一点に視線を止める。
孫魯班の巾着袋を見つめる。
ただただひたすら美しい面差しをしたその人物が、疑問を浮かべ始めているのかもしれなかった。
その疑問は、もしや。
止めたくて、孫魯班は急いで口内の丸薬を嚥下しようとした。しかし、彼に魅せられていたのは孫魯班だけではなく、すぐそばの女官もだった。
「あの巾着袋、姫様にぴったりでしょう」
女官が、熱に浮かされたように話しかけていた。
「あの巾着袋に施された刺繍の絵柄は……」
「姫様の字ですの」
「字?」
「姫様の字、大虎というのです」
字、というのは氏名以外のもう一つの呼び名にあたる。孫魯班の字は大虎なのだった。
このことに関して、孫魯班は大いに不服だった。
名付けた母に文句を言った回数は一度や二度ではない。しかし、母は「だって、あなたがお腹にいる時、大きな虎の夢を何度も見たのよ」と嘘だか本当だかわからないことを言うのだった。
「姫様は、あまりお好きではないようで」
そこまでぺらぺらと喋っていた女官は、孫魯班が憤怒の形相をしていることに気が付いたらしい。言葉を止めた。
「ひ、姫様」
女官のしどろもどろな声。けれども、孫魯班は体内から怒りという熱が沸くのを抑えきれなかった。そのまま怒鳴ってしまいたい。
それを、どうにか実行せずにいるのは、側にいるその人に、そんな言動を見られて悪印象を抱かれたくないという想いだった。
「――私は……可愛らしい字だと思うのですけれど」
それは、慰めや憐憫を一切感じさせない声色だった。本心から慈愛しているような声色に、孫魯班はつい無意識に俯いていた顔を上げる。
すると、その人は孫魯班を見ていた。形良い目が緩やかな半円を描いている。嬉しそうに微笑していた。
まるで、ようやく宝物を見つけた、と言わんばかりに。
自分が、その人にとって、ものすごく大事なもののような気がして、怒りや悲しみがたちまち霧散していった。
「ほ、本当……? 本当にそう思ってくれる……?」
おずおずと尋ねてみると、その人は深く頷いてくれた。
「ええ、本当に」
はっきりと告げられ、孫魯班は、なんだか泣きそうになった。
「わたし……あの、あのね」
震える声で、細い糸を手繰る様にして孫魯班は話そうとした。話したくて、話したくてたまらなかった。
「大農様! こちらでございましたか。呉王様がお待ちでございます」
衛兵が叫びながらこちらへ駆けてきた。それに、その人は顔を向ける。
「呉王様が、さんざんお待ちで……心配して……探して来いと……」
衛兵の声が、途中から腑抜けていく。それは無理のないことだった。
衛兵はその人に見惚れてしまっているのだ。
「では我が君にお伝えください。しばしお待ちくださいませ、この劉基、必ずや我が君の元へ参りますからと」
言われた衛兵はしばらく棒立ちしていた。その人に見惚れてしまい、その声色に聞き入ってしまい、意識的にも、無意識的にも、この場を離れ難くなっていた。
「お願いいたします」
小首を傾げられ、ようやく衛兵は足を動かし、駆け去って行った。
父の執務室のある方向へとその背が小さくなっていく。急いではいるのだけれど、ぎこちない。それをぼんやりと見ていたが、そんなに長い時間ではなかった。
「……我が君が、お待ちのようでございます」
孫魯班と女官に苦笑し、一礼した。彼もまた、父の執務室へと向かう。穏やかな足取りだった。
その場に取り残された孫魯班と女官は、何度か春風に吹かれてから、ようやく我に返った。
「ねえ、あの人が」
孫魯班はぽつりと呟いた。
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