神饌の戴冠者Ⅰ・Ⅱ

綴咎

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第一章 呼び覚まされた記憶

1神の呼び声

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 この世には「存在の比重」と言う言葉がある。
 物質の密度、または重さを示す物理的な性質を示す言葉で、より軽いものが浮かび、そり重いものが沈むという至って普通の現象を語る言葉でもある。

 ここで一つ問いを出そう。
 例えばの話、これまで十六年間生き続けた少女がいるとしよう。それに足し算するように三十歳まで生きた女性の記憶をイコールで結ばれたら、その少女はどっちに傾くのであろうか。
 経験か、記憶か、どちらが優先されるだろうか、概念的に比べることができない事柄であっても存在の比重を使えば最も簡単に答えを出せるのだ。

 先ほどの答えを言うならば、少女は三十年生きていた女性の方へと傾くが正解だ。
 例え、十六年間の生を経験していたとしても、得難き親友と、優しい先生が居ようと関係ない。傾いてしまったら最後、少女の十六年間は阿波のように浮かんで、空気のように溶けてしまうのだ。

 だからメアリーはもうメアリーではないし、ただメアリー問い少女の経験を持った鶯鳴に過ぎなかった。

「ねぇ、今日ちょっと変だよ」

 と言ったのはランだった。寝静まった夜。月明かりが差し込む部屋で、ランは顔だけを布団から出してそう言う。
 一方で、そう言われたメアリーはただ「そう?」と冷たく返して、いそいそと寝るための準備をする。

 深く呼吸をする。それから重い瞼を下ろして、意識をゆっくりと手放すために

「メアリー、お昼に言ったこと覚えてる?」

 手放そうとした手前で、邪魔が入る。
 メアリーはそのことにムッとした表情を浮かべた。相手に見えないからと好き放題な対応をする彼女は、いい加減に覚えてもないことを「覚えてる覚えてる」と語る。

「あのさ、やっぱり、いいに行かない?」
「いい。平気」
「でも、今日も魘されちゃったら……」
「いいから、大丈夫」

 ランの心配もどこ吹く風で無視する。
 それどころか遮るようにランの言葉を押し殺して、それから天井の木目を数え始めた。
 
 メアリーは外のことを考えるので頭がいっぱいだった。

 だって、この孤児院の中のことはよく知っていたし、何よりも十六年間の経験だってある。ならば次に気になるのはこの世界のことだった。この世界はどこにあるのだろうか、例えば過去にトリップしたとか、もしくは異世界に転移したとか、あるいはこの状況から転生したのか、それぞれで違う場所が連想される。文明レベルからも過去のギリシャであるのではないかという妄想も捗ったが、食事や教育的に古代ではないことはメアリーはもう調べ尽くした。

 この世界の医学はどう発展しているのだろうか。

「ねぇ、メアリー」

 雑音をシャットアウトしてメアリーはそんなことを考える。
 楽しいことは多くある。早くこんな退屈な場所から逃げ出して、様々なものを見たい。様々なものを見て、触れて、感じて、理解して、そして堪能したい。夜風が隙間から流れる。爛々と輝く月明かりが、ゆっくりと動いて、メアリーが寝るベッドを暗がりへと変えた。代わりに、ランの寝ているベッドが月明かりに照らされる。

「もう寝ちゃった?」

 そう聞くのであれば、放っておいてほしい。
 そう思いつつも沈黙でメアリーはランの疑問に返答する。そうすれば先ほどよりも静かになったランの息の声だけが部屋に響いて、メアリーはやっと静かになったことに安堵した。

 静寂を邪魔されることは嫌いだった。

 かつて鶯鳴と呼ばれた女性は医学界で有名な女医であり、医学の神の再来とまで世界に言わしめた外科医であった。
 日々手術をするか、カルテを見るか、もしくは一人の時間を優雅に過ごすかと言った選択肢で生きていた鶯鳴にとってこの孤児院の平坦な日常は苦痛でしかなかった。

 静かにしてほしい。もっと面白いことを知りたい。
 もしくは、一人にして欲しい。

 そう言う溜まった不満が溢れ返りそうになる。今だって、ランの呼吸の音でさえ、己の思考を乱すだけの雑音にしか聞こえない。このままでは本格的に寝れない。もはや気配がうるさい。息遣いの声が耳に入るたび、抑えきれない凶暴な自分が殺してしまった方が楽なのではないかとメアリーに嘯くのだ。

 その時だった。
 するりと布の擦れる音が聞こえる。
 最大限音を消そうとしているのがわかった。だからと言って反応するつもりはないが、扉を開けて急ぐように足音が遠ざかる音に更に機嫌が悪くなっていく。

 何から何までうるさい少女だ。

 メアリーはランの去った部屋で、上半身を起こして欠伸をする。
 今日は寝れそうにない。いや今日だけじゃない。ここにいれば一生寝ることなんてできないだろう。今更一人部屋になんてできないだろうし、それに何よりも一人にはしてもらえそうにない空気がしていたからだ。

 ならばすることは一つ。
 ここを出ていくこと。

 近辺に村や集落がないことは痛いところだが、それでも周辺を歩けば、何かどこかしらに人間の集落、または国か何かはあるだろう。なかったとしても、それはそれでいい。旅の後死したとしても、ここにいるよりは何満倍もマシなような気がする。

 そこまで考えて、メアリーはベッドから白い素足を出した。それからゆっくりと伸びをして、麻で作られた靴を履く。
 記憶よりもその履き心地の悪さに苛立ちを抑えきれないものの、これしかないから仕方ない。よほど草履の方がマシな気がするが、文明はヨーロッパあたりだ。そう言った期待は最初から出来なさそうだ。そう考えてから、メアリーはランの後を続くように部屋を後にした。

 部屋を後にしたメアリーが向かったのは台所であった。
 鶯鳴だった過去。その頃から思考したことを行動に移すのが早かった。外科医としての技術ゆえだったのかもしれない、瞬間的な判断が患者の命を左右する。そう言う現場にいた記憶があるからこそ、出ていくと決めたときには、次にする行動を決め終えていた。

 まずは台所に行って、保存の効く肉とそれを切るための小さなナイフをもらって行こう。

 歩きながらそんなことを考える。
 そうして台所まで歩いて行ったところ、半開きになった扉が見えた。その扉の隙間からまるで木漏れ日のように暖かな光が射し込んでいる。おや、とメアリーは足を止めた。その中が気になったのだ。確かあそこは……そう、そうだ。先生と呼ばれる誰かの部屋だ。まさかこんな夜更けに何かしているのだろうか、そう思えば好奇心が心を撫でて、足が進む方向を変える。

 吹き抜けの廊下を歩く。
 経験の中のメアリーはこの光景を好きだと言った。だから、少しだけ気になってメアリーは視線を周囲に這わせた。それからすぐに興味を無くしたように扉の方へと向かっていく。

 そんなに物珍しい光景ではなかった。少しだけ月が近いように感じただけその程度の風景。記憶を思い出す前のメアリーが何故この空間を好きでいたのか、心の底から不思議に感じる。しょうもない風景、しょうもない空気、しょうもない匂い。何か特別変化したものがない、よくある風景。
 一欠片も面白みのない光景よりも目の前の開いた扉の方がよっぽど興味を惹かれたのだ。

 すすすっと音を消して中を覗く。
 そうすれば、そこには肩を震わせて涙を零すランの後ろ姿と、それからそれを慰めるようにゆっくりと小さな頭を撫でるオーガッシュ先生の手が見えた。

 一瞬、その光景に呆気に取られる。
 「ヒクヒク」と喉の鳴る音が部屋の中を占めていて、それからランがわっと泣いて、先生の膝に縋るように顔を伏せた。

「ずっと、ずっと聞こえるんです。十一歳の頃から、十五歳になった今も、ずっと耳の奥で『王を選び、祖国を救え』ってずっとずっと聞こえるんです」

 
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