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優雅な婚約破棄
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薔薇の香りが満ちる午後の庭園。
陽光を反射するガラスのポットが、紅茶の色をきらめかせていた。
侯爵家主催の社交茶会。笑い声と絹の擦れる音が混ざり合う中で、セリーヌ・リュミエールは静かにカップを傾けていた。
リュミエール家は、もともと商会を営む家だった。
祖父の代に莫大な資産を築き上げ、爵位を買って貴族となった新興の家柄。
貴族たちからすれば「金で栄誉を得た俗物」。
だが彼らの嘲りを、セリーヌは一度も気にしたことがない。
上品さとは生まれではなく、振る舞いで証明するものだから。
そんな彼女が、子爵家の嫡男アルフレッド・エインズワースと婚約したのは二年前。
彼の家の財政難を救うための縁談であり、誰もが「持参金目当て」と噂した。
けれどセリーヌは、彼の誠実な笑顔を信じようとした。
……その選択が、今日、茶会のど真ん中で裏切られるとは知らずに。
「セリーヌ、君との婚約は――解消したい」
その瞬間、庭園の空気が張り詰めた。
ざわめいていた貴婦人たちの笑い声がぴたりと止む。
アルフレッドの隣には、ひとりの若い令嬢が立っていた。
淡い栗色の髪に、儚げな微笑。
男爵家の次女、リリア・バートン――セリーヌも顔見知りだった。
いつも控えめに茶会の隅に立ち、目立つことのない娘。
その彼女が、今日に限っては鮮やかな水色のドレスを纏い、アルフレッドの腕にそっと手を添えていた。
――まさか。
誰もが息を呑んだ。
いや、セリーヌだけは、驚きよりも妙な納得を覚えていた。
この数週間、アルフレッドは何かと「用事」を理由に屋敷を空けがちだった。
商談の報告に伺っても、執事が「ご多忙で」と言葉を濁していた。
それらすべてが、今ようやく一本の線で繋がる。
「真実の愛を見つけたんだ」
彼はそう言った。まるで何かの勇気を試すように、堂々と。
「リリアは僕をありのままに見てくれた。君とは違う」
笑ってしまいそうだった。
――“ありのまま”を見た? 借金と焦燥に満ちた現実を、かしら。
しかし口に出すことはしない。
唇の端を上げ、完璧な微笑を作る。
その顔を見たアルフレッドは、なぜか怯えたように目を逸らした。
「おめでとうございます、アルフレッド様。どうぞ、その方と末永くお幸せに」
「……え?」
誰よりも先に声を上げたのは、彼自身だった。
泣き叫ぶ令嬢、取り乱す被害者。そんな事を期待していたのだろう。
だが、セリーヌは違った。
彼女は微動だにせず、カップを持ったまま、まるで客を労うように言葉を続ける。
「それにしても、このような華やかな席で発表とは……ずいぶんと大胆なことですわね」
「ぼ、僕は……誠意を見せたかっただけだ」
「まあ。真実の愛には見世物も含まれるのですのね。勉強になりますわ」
周囲から、くすくすと忍び笑いが漏れた。
彼女と仲の良い令嬢たちは扇で口元を隠し、紳士たちは気まずげに視線を逸らす。
茶会の空気が、ゆっくりと冷えていく。
アルフレッドの頬が見る見る紅潮した。
誠意を見せたつもりが、すっかり笑い者だ。
それでも彼は引き下がれない。
「僕は本気だ。リリアとは心から愛し合っている!」
リリアが小さく肩を震わせた。
恥ずかしさなのか、恐れなのか。
セリーヌはただ静かに、彼女の指がアルフレッドの袖を掴むのを見ていた。
――なるほど。
“真実の愛”とは、他人の金で成り立つ幻想のことを言うのかしら。
「まあ、素敵ですわね」
セリーヌは小さく笑う。
「愛ゆえに婚約を捨てるなんて、まるで物語のよう。ですが……少し現実的な確認をしてもよろしいかしら?」
「か、確認……?」
「ええ。婚約破棄の書面には、もう署名を?」
唐突な話題転換に、アルフレッドは目を瞬かせた。
「け、今朝……使者に渡したはずだ」
「それはようございました。では、その書面と一緒に、わたくしどもとの契約書も破棄なさるのですね?」
「契約書?」
「ええ。エインズワース領の鉱山開発に関する共同出資契約書のことですわ」
空気が、ぴんと張り詰めた。
数人の令嬢が顔を見合わせ、息を呑む音が響く。
セリーヌはカップをソーサーに戻し、指先を軽く揃える。
「お忘れでした? リュミエール商会からの出資は、婚約の成立を条件としておりましたの。つまり――婚約が解消される以上、契約も無効となります」
アルフレッドの口が開き、声が出ない。
「ま、待て。あの資金がなければ、開発は……」
「進みませんわね。申し訳ございませんけれど、すでに父が事前に察知したのか、撤退の手続きを進めております」
紅茶の香りの中で、彼の息だけが荒く響く。
リリアが蒼ざめた顔で、セリーヌを見上げた。
「そ、それでは……領民の方々は……」
「ご心配なく。彼らには別の取引先を紹介いたします。ええ、リュミエール商会はそういう“後始末”にも慣れておりますの」
「そ、そんな……! 君は……最初からこのつもりで――!」
「まあ、お疑いになるなんて心外ですわ」
セリーヌは首を傾げた。
「わたくしはただ、あなたの“誠意”を見せていただいただけ。取引の基本ですもの」
くす、と誰かが笑った。
今度の笑いは、先ほどまでの軽口ではない。
明確に、勝者の側に立つ笑い。
セリーヌは軽くカップを持ち上げ、「それでは、改めて乾杯を」と言った。
「アルフレッド様とリリア様の“真実の愛”に。どうかその愛が、財産より長く続きますように」
誰も言葉を発せず、ただ視線だけがセリーヌへ集まった。
その静けさの中で、誰もが悟った――もはや、場を制しているのは彼女だと。
アルフレッドは何か言いかけたが、その声は風の音にかき消された。
リリアの指が震えている。
それでもセリーヌは、終始微笑んでいた。
「本日は良いお時間をありがとうございました。これでわたくしどもリュミエール家とエインズワース家の契約は、正式に終了ですわね」
セリーヌは立ち上がり、扇を軽く開いた。
「では――地獄の門出に、心からの祝福を」
扉の向こう、春の風が吹き抜ける。
振り返ることなく去っていく背中に、誰もが思った。
――優雅な別れとは、こういうことだ、
陽光を反射するガラスのポットが、紅茶の色をきらめかせていた。
侯爵家主催の社交茶会。笑い声と絹の擦れる音が混ざり合う中で、セリーヌ・リュミエールは静かにカップを傾けていた。
リュミエール家は、もともと商会を営む家だった。
祖父の代に莫大な資産を築き上げ、爵位を買って貴族となった新興の家柄。
貴族たちからすれば「金で栄誉を得た俗物」。
だが彼らの嘲りを、セリーヌは一度も気にしたことがない。
上品さとは生まれではなく、振る舞いで証明するものだから。
そんな彼女が、子爵家の嫡男アルフレッド・エインズワースと婚約したのは二年前。
彼の家の財政難を救うための縁談であり、誰もが「持参金目当て」と噂した。
けれどセリーヌは、彼の誠実な笑顔を信じようとした。
……その選択が、今日、茶会のど真ん中で裏切られるとは知らずに。
「セリーヌ、君との婚約は――解消したい」
その瞬間、庭園の空気が張り詰めた。
ざわめいていた貴婦人たちの笑い声がぴたりと止む。
アルフレッドの隣には、ひとりの若い令嬢が立っていた。
淡い栗色の髪に、儚げな微笑。
男爵家の次女、リリア・バートン――セリーヌも顔見知りだった。
いつも控えめに茶会の隅に立ち、目立つことのない娘。
その彼女が、今日に限っては鮮やかな水色のドレスを纏い、アルフレッドの腕にそっと手を添えていた。
――まさか。
誰もが息を呑んだ。
いや、セリーヌだけは、驚きよりも妙な納得を覚えていた。
この数週間、アルフレッドは何かと「用事」を理由に屋敷を空けがちだった。
商談の報告に伺っても、執事が「ご多忙で」と言葉を濁していた。
それらすべてが、今ようやく一本の線で繋がる。
「真実の愛を見つけたんだ」
彼はそう言った。まるで何かの勇気を試すように、堂々と。
「リリアは僕をありのままに見てくれた。君とは違う」
笑ってしまいそうだった。
――“ありのまま”を見た? 借金と焦燥に満ちた現実を、かしら。
しかし口に出すことはしない。
唇の端を上げ、完璧な微笑を作る。
その顔を見たアルフレッドは、なぜか怯えたように目を逸らした。
「おめでとうございます、アルフレッド様。どうぞ、その方と末永くお幸せに」
「……え?」
誰よりも先に声を上げたのは、彼自身だった。
泣き叫ぶ令嬢、取り乱す被害者。そんな事を期待していたのだろう。
だが、セリーヌは違った。
彼女は微動だにせず、カップを持ったまま、まるで客を労うように言葉を続ける。
「それにしても、このような華やかな席で発表とは……ずいぶんと大胆なことですわね」
「ぼ、僕は……誠意を見せたかっただけだ」
「まあ。真実の愛には見世物も含まれるのですのね。勉強になりますわ」
周囲から、くすくすと忍び笑いが漏れた。
彼女と仲の良い令嬢たちは扇で口元を隠し、紳士たちは気まずげに視線を逸らす。
茶会の空気が、ゆっくりと冷えていく。
アルフレッドの頬が見る見る紅潮した。
誠意を見せたつもりが、すっかり笑い者だ。
それでも彼は引き下がれない。
「僕は本気だ。リリアとは心から愛し合っている!」
リリアが小さく肩を震わせた。
恥ずかしさなのか、恐れなのか。
セリーヌはただ静かに、彼女の指がアルフレッドの袖を掴むのを見ていた。
――なるほど。
“真実の愛”とは、他人の金で成り立つ幻想のことを言うのかしら。
「まあ、素敵ですわね」
セリーヌは小さく笑う。
「愛ゆえに婚約を捨てるなんて、まるで物語のよう。ですが……少し現実的な確認をしてもよろしいかしら?」
「か、確認……?」
「ええ。婚約破棄の書面には、もう署名を?」
唐突な話題転換に、アルフレッドは目を瞬かせた。
「け、今朝……使者に渡したはずだ」
「それはようございました。では、その書面と一緒に、わたくしどもとの契約書も破棄なさるのですね?」
「契約書?」
「ええ。エインズワース領の鉱山開発に関する共同出資契約書のことですわ」
空気が、ぴんと張り詰めた。
数人の令嬢が顔を見合わせ、息を呑む音が響く。
セリーヌはカップをソーサーに戻し、指先を軽く揃える。
「お忘れでした? リュミエール商会からの出資は、婚約の成立を条件としておりましたの。つまり――婚約が解消される以上、契約も無効となります」
アルフレッドの口が開き、声が出ない。
「ま、待て。あの資金がなければ、開発は……」
「進みませんわね。申し訳ございませんけれど、すでに父が事前に察知したのか、撤退の手続きを進めております」
紅茶の香りの中で、彼の息だけが荒く響く。
リリアが蒼ざめた顔で、セリーヌを見上げた。
「そ、それでは……領民の方々は……」
「ご心配なく。彼らには別の取引先を紹介いたします。ええ、リュミエール商会はそういう“後始末”にも慣れておりますの」
「そ、そんな……! 君は……最初からこのつもりで――!」
「まあ、お疑いになるなんて心外ですわ」
セリーヌは首を傾げた。
「わたくしはただ、あなたの“誠意”を見せていただいただけ。取引の基本ですもの」
くす、と誰かが笑った。
今度の笑いは、先ほどまでの軽口ではない。
明確に、勝者の側に立つ笑い。
セリーヌは軽くカップを持ち上げ、「それでは、改めて乾杯を」と言った。
「アルフレッド様とリリア様の“真実の愛”に。どうかその愛が、財産より長く続きますように」
誰も言葉を発せず、ただ視線だけがセリーヌへ集まった。
その静けさの中で、誰もが悟った――もはや、場を制しているのは彼女だと。
アルフレッドは何か言いかけたが、その声は風の音にかき消された。
リリアの指が震えている。
それでもセリーヌは、終始微笑んでいた。
「本日は良いお時間をありがとうございました。これでわたくしどもリュミエール家とエインズワース家の契約は、正式に終了ですわね」
セリーヌは立ち上がり、扇を軽く開いた。
「では――地獄の門出に、心からの祝福を」
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