しっぽのないお客さんの恋愛事情

志野まつこ

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18、法律ってやっぱり大事

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 ギャラリーの間に「どうすんだ、これ」的な空気が流れ始めて、私も自分のしでかした事にはっとする。
 こんな悠長に見守ってる場合じゃない。

「あのっ、お腹空いてませんか?」
 勇気を出して夏樹さんに声を掛けた。

「水浸しにしたお詫びにうちのパン食べてみませんかっ?」
 えと、えと。
 その前に着替え━━
 って!
「お風呂! お風呂沸かしますんで!」
 なんてえらそうに言ってはいますが。
 千秋さんがお隣のお爺ちゃんのお宅でcafeだんでらいおんを経営しながら暮らしてるから忘れがちだけど!
 実はうちが借りてるおうちは千秋さんと夏樹さんの実家なワケで。
 そうだよ、実家で他人がパン屋やってたらそりゃガン見するし、店員に声かける事だってあるだろうよ。
 それなのに大騒ぎにしてしまって、水までぶっかけて、パンくらいではとてもお詫びにならない。
 私だけでなく、日下部家は一家総出で熱烈歓迎おもてなしモードになりかけたのだけれど━━

「夏樹、風呂沸かしてやるから来い」
 憮然とした表情の千秋さんに遮られた。
 憮然と言うか千秋さん、相変わらず殺気立ってるんですけどッ!
 そんな夏樹さんは「仕方ない弟だな」みたいに芝居がかった様子で肩をすくめる。
 兄弟の距離ってやつなのか、案外余裕ですね、夏樹さん。
「あー、せっかくだけどあっちで入るわ。でもパンはお言葉に甘えようかな」
 夏樹さんは半笑いでcafeだんでらいおんに連行されて行った。

「奈々、ワタシにもおやつお願い」
 え、ニーニャさんも行くの?
 そ、そうかそりゃ行くか。
 またツキンと胸が痛くなって、同時に不安になる。
 大丈夫かな、ニーニャさん、なんだかやる気満々な気がするんだけど。

 急げ、急げっと。
 大慌てで「cafeだんでらいおん」へのテイクアウト用のバスケットに総菜パン5つと、千秋さんも好きなナッツ盛りだくさんのタルト、それにニーニャさんのお気に入りのフルーツパイを2つずつ乗せる。
 二人が好きな物は夏樹さんも好きかもしれないから。
 三角関係にある男女が隣に集まっている状況に気が気じゃなくて、バスケットを取ろうと隣にあったトングを落としたり、レジ台の角に腰をぶつけたりしていたら「シャワー浴びるって言ってたし、ちょっと時間おいて行った方がいいだろ」と父に言われる。
「でもカラスの行水かもしれないじゃん!」
 ネコって基本お風呂嫌がるし。そもそも隣の妙齢のお兄さんの入浴時間なんか知らないし!
「千秋くんは基本的にヒトの方が強いって言ってたけどなぁ。水嫌いなら水かけ祭りにも参加しないだろ」
 父は尤もな事を言うけれど。
 こうしている間にもお隣がまたド修羅場になるかもしれないしっ。
 その場に踏み込むのはキツイけど、自分の責任による所が大きいわけで。
「夏樹さん、今夜どこで寝る予定だったんだろうな。うちに寝てもらった方がいいんじゃないか?」
「千秋さんち、他に冬彦さんとかいう親戚いないのかしらねぇ。あ、ちゃんとお詫びするのよ?」
 千秋さんとニーニャさんの関係を知らないらしい両親がのんびりと話しているのに適当に合わせながら、大慌てで大きめのバスケットを手に店を出た。

「cafeだんでらいおん」の前のテラスにワシザキさんとイナバさんがいるのを見て一旦店に戻ってクッキーの袋を二つ持ち出す。
 クッキーは少量サイズと大きめのサイズの2種類展開だけど、ここは大きい方を。
「先ほどはどうもお騒がせしまして」
 お仕事中、本当にすみません。お詫びと感謝の印にクッキーを贈呈した。
「そんな気を遣わなくていいのに」
「お、さんきゅ。署の連中で食べるわ」
 イナバさんは恐縮しながら、ワシザキさんはあっさりと受け取ってくれる。「公務員だからそう言うの受け取れないんだよねー」というのがないのがありがたい。

「それにしても双子黒獅子の兄弟喧嘩、久し振りに見ました」
 ……イナバさん、それってそんなにニコニコ言うような内容でしょうか。
 いや千秋さんが双子って言うのも初耳だったんだけど、それよりもイナバさんの楽しそうな表情に完全に意識が持って行かれたんですけど。

「小さい頃はすごかったんですけどねぇ。子供の時って本能的だから」
 ああ、それはなんとなく分かる。
 今日のあの激しいやりとりは子供の時の名残的な物ってことなのかな。
 チラリと店内の様子を伺うとカウンターの左端に座って頬杖をついたニーニャさんと、首にタオルをかけてカウンターの右端に背を預けるようにして腕を組んだ千秋さん。
 うわ……
 微妙な距離感に、複雑な関係が現れているようで一気に気が重くなる。

 なんとも入りこめない空気がそこにはあって。
 躊躇して動けなくなった私の頭が、突然ガシリとつかまれた。
「咄嗟に良く呼べたな。えらかったぞー」
 手の甲が鳥類の足みたいに少しうろこ状になっているまさに猛禽チックでかっこいいワシザキさんのヒトの手で頭をワシワシ力強く撫でられた。イナバさんも白いウサギさんの手で優しくなでてくれる。
 外国人から見ると日本人は若く見える、と同じ感覚なのかここでは妙に子供扱いされる。二人ともすごく背が高いから余計なのかも。それにイナバさんは小さなそれはそれはプリティなお子さんがいらっしゃるし。
 でも完全に私のやらかし案件なので、こんなに褒められるのはいたたまれないのですが。
 
「っと、こんな事したら保護条例にひかかりますかねぇ」
 ふとイナバさんが冗談めかして言った。
 そうそう、さっきも言ってたそれ。
「あのー、保護条例ってなんでしたっけ?」
 聞き覚えが、あるような、ないような。
 以前は分からない事はなんでもイナバさんに聞いていたけど、今では周囲の皆さんに教えてもらって自力で解決出来るようになったから、イナバさんに質問するのは久し振りな気がする。

「結構はじめの方にお伝えしたはずなんですけどね」
 まぁ、来たばかりで適応しろというのも無理な話ですよね、とイナバさんは苦笑した。

「『お客さん』とは絶対的に力が違うから、お客さんに危害を加えたり無体を働いたりしてはならない、という私達が対象の法律ですよ」
「執拗な声かけとかも対象だから、奈々が本気で嫌がったらナツにも事情を聞く事になる、みたいな」

 痴漢の冤罪。

 イナバさんの説明にワシザキさんが具体例を挙げてくれた瞬間、脳裏をよぎったのはそれ。
 ますます追い詰められた気がした。

 真剣に謝ろう、そう思って再度窓から中の様子を覗いて気付く。
 二人は、二人の間の空間の下の方のとある一点を見て険しい顔をしている。
 手前にテーブル席があって見えないけど……え、もしかしてそこに夏樹さんいるの?
 位置関係がおかしい気もするけど、正座で説教の展開?
 決心したハズだったけど、これは━━さっきとは違った意味で入りづらい。
 そう思っていたらこちらに気付いた千秋さんが颯爽とお店のドアに近付いて、ドアを開けて招いてくれた。
 うう、こんな時まで紳士ですね。

「大丈夫そうか?」
 おそらくいろんな意味が含まれてるんだろうな。
 意味深長な感じで確認するように尋ねたワシザキさんは、ちらりと店内の様子を窺う。
「ああ、悪かったな、ワシザキ。イナバさんにもご迷惑をお掛けしました」
「いえいえ、仕事のうちです。奈々さんにいいものいただきましたし役得でした」
 イナバさんはクッキーの袋を上げて見せ、「奈々さんも来られましたし、もう大丈夫そうですね。では」とワシザキさんと目配せした。
 また揉めるんじゃないかと心配で様子を見てくれていたらしい。
「あ、っと」
 最後にワシザキさんは思い出したようにドアにかかった「OPEN」の札を「CLOSE」にひっくり返した。
 そんなに気が利くのに、もう行っちゃうんですか。思わずワシザキさんに縋るような目を向けるとまた頭をワシワシ掴まれた。
「まぁ、またなんかあったら呼べよ」
 冗談めかして言って空のパトロールへ帰って行かれたけど、はい、その際は遠慮なくそうさせていただきます。

 店に足を踏み入れた瞬間、聞いてしまう。
「別れる事にしたノ」
 ニーニャさんが夏樹さんに断言する場面に、きれいに出くわしてしまった。

 ああ、タイミング悪いな。

 でもって夏樹さん、正座じゃなかった。
 ジャパニーズ・土下座。

 私、ホンットにタイミング悪いな!
 見てはいけない物を見てしまった。

 ちょっと「思てたんと違う」な光景に戸惑いしかない。
 なんか、三角関係のド修羅場とは一風変わった状況な気がする。

 でもって。
 土下座ってこっちの世界にあったのか。
 それとも先輩方がこちらに持ち込んだ異文化なのか、もしかすると千秋さん達のひいひいお祖父さんという方がこの世界で披露する羽目になったのか。
 いや、土下座文化の発祥の歴史を詮索するのはやめよう。

 それにしても人の土下座を生で見るのって……なんかこう精神的にえぐられると言うか、キッツイ。
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