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今日は前祝いに少しいいものを食べよう、と優希が提案し、その日の夕食は三軒茶屋にある少々値の張るイタリアンバルに決まった。
2人とも酒は飲まない、というより年齢と体質的な理由で飲めないのだが、康太郎に肉を食べさせようと店を探していたら、いい雰囲気の店を見つけた。
「はい、乾杯。バイト決定、おめでとう」
「優希さんも、お仕事おめでとう」
優希はジンジャーエールの入ったグラスで、康太郎はコーラのグラスを、軽くぶつける。
テーブルに運ばれてくるバーニャカウダやステーキを、康太郎が嬉しそうな顔でスマートフォンで写真におさめている。
SNSにでもアップロードするのだろうか。
(テンション上がっちゃう気持ちはわかるけどね)
今日の打合せはなかなかの好感触だった。
恐らく中森は、今日話す内容をほぼ固めて持ってきたのだろう。
優希の抱えている案件――来期からの大学の仕事、現在抱えている仕事、それらを考慮したうえで、例の映像翻訳の仕事を受けることに決まりそうだ。
配給会社とのやり取りをソンツァが引き受け、優希はソンツァの下請けに入る形になる。
細かい契約事務や、先方との折衝といった手間を引き受けてくれるのだから、優希としてはありがたい。
もちろんフリーランスとして直接契約するほうが、受け取る報酬は高くなるので得だ。
しかし今回のように大きな案件の場合、手間を考えれば、丸投げできるに越したことはない。
ソンツァの抜く手数料も破格で、断る理由はなかった。
今後も今回のような形で優希との連携を取れるよう、関係修復を図りたいのだと、中森社長はあけすけに語った。
そのために先方から提示されている全体予算と、ソンツァが優希に支払う報酬、そこから引く手数料をすべて開示して見せたのだから、大したものである。
もちろん、それだけのことをするメリットがソンツァ側にもある。
ひとつに、前社長の退任が大きな要因となっているのは間違いない。
前社長は人格に難があったものの、日露・露日の翻訳者としては、国内でトップクラスだった。
そんな彼が突然の病で、前線を退かねばならなくなった。翻訳者は体力勝負な一面もあり、継続は困難であると判断したためだが、これによりソンツァは主力を欠くことになる。
少しでも手駒を増やしたいという理由で、ソンツァは社長自らが優希の囲い込みに動いたというわけだ。
今日の収穫は、それだけではない。
日野の勤務する会社で、康太郎が4月からパートタイムのアルバイトをすることになったのだ。
電話応対にデータ入力、書類や郵便の仕分けがメインになる。まあ、雑務だが、妙なところで働くよりはよほどいい経験になるに違いない。
それまでにやることを、優希はシーザーサラダの温泉卵を崩しながら考える。
まず、データ入力の基礎を叩きこむために、短期間集中型のスクールに康太郎を入れる。
新しいパソコンを買う。
念のため、1着くらいはスーツを作る。
「あ」
思わず声を出した優希を、康太郎が肉をほおばったまま不思議そうな顔で見た。
「ああ、いや、康太郎、バイト始めるとさ、その頭はちょっとまずいかも。切らなきゃいけないかもしれないけど、平気?」
いくら出版社が他に比べて自由な風潮にあるとはいえ、多少は周囲に合わせる必要もあるだろう。
康太郎は、こくこくと頷きながら肉をコーラで飲み込んだ。
「髪は別にこだわりあるわけじゃないし、バイトするなら面接前に切らなきゃと思ってたから大丈夫。というか、もう伸ばしておく理由ないし」
「伸ばしておく理由があったんだ」
何気なくそう口にした優希に、彼は少しだけ嬉しそうな顔をした。
それは優希が初めて康太郎個人に興味を示したことへの喜びだったのだが、優希は彼の表情のわずかな違いに気づかなかった。
「母さんがさ、流産したじゃん?」
「……ごめん、それは知らない」
優希は渋い顔になり、ジンジャーエールを口に含んでそれを誤魔化す。
「えっとね、俺が生まれる前に流産したんだって。俺を生んだあと、子供ができなくなっちゃって、でも母さんはどうしても女の子が欲しかったらしい」
「……伸ばせって言われたの?」
「そういうわけじゃないけど、娘だったらこういうことができたのにってよく言ってたから。髪伸ばすくらいで喜んでくれるなら、別に、金がかかるわけじゃないし。校則でも髪形は自由だったから」
(……髪は1年で12㎝伸びるんだっけ)
康太郎の長い髪は、背中の半ばまであり、少なくともここ数年で伸ばし始めたわけではないことが伺える。
彼は小学校2年生のときに実家を離れたと言っていたが、その頃からもう髪を伸ばしていたのだろうか。
優希は、こと、姉絡みになると沸点が低くなりやすい。
このときも思わず憤りが顔と言葉に出そうになったが、強いて感情を鎮め、康太郎から視線を外した。
「……まあ、髪が長いと手入れも大変でしょ。それだけの長さを切ったら、頭も軽くなるよ」
「うん。あ、あれ、ヘアドネーションっていうのやってみたくて」
「いいんじゃない? 私が行ってる美容室でもやってたと思うよ。今週あたりどこかで一緒に行く? 私もそろそろ切らないと見苦しくなってきたし」
「行く。あとね、買い物もしたい」
「何買いたいの」
「何も考えてないけど、そういうの、優希さんと行ってみたい」
まだ若い彼にはここ最近の引きこもり期間が堪えたのか、とにかくどこかに出かけたいということだろう。
「いいよ。美容室の近くに有名なケーキ屋があるんだ。並ぶかもしれないけど」
「並んでもいいから行きたい! いつなら行ける?」
嬉しそうに言って、肉にフォークを突き立てる康太郎に、優希は若いってこんな感じだったかとしみじみと思いつつ、彼の内心をあまり深く考えることもなく、いつにしようかと予定を考えた。
2人とも酒は飲まない、というより年齢と体質的な理由で飲めないのだが、康太郎に肉を食べさせようと店を探していたら、いい雰囲気の店を見つけた。
「はい、乾杯。バイト決定、おめでとう」
「優希さんも、お仕事おめでとう」
優希はジンジャーエールの入ったグラスで、康太郎はコーラのグラスを、軽くぶつける。
テーブルに運ばれてくるバーニャカウダやステーキを、康太郎が嬉しそうな顔でスマートフォンで写真におさめている。
SNSにでもアップロードするのだろうか。
(テンション上がっちゃう気持ちはわかるけどね)
今日の打合せはなかなかの好感触だった。
恐らく中森は、今日話す内容をほぼ固めて持ってきたのだろう。
優希の抱えている案件――来期からの大学の仕事、現在抱えている仕事、それらを考慮したうえで、例の映像翻訳の仕事を受けることに決まりそうだ。
配給会社とのやり取りをソンツァが引き受け、優希はソンツァの下請けに入る形になる。
細かい契約事務や、先方との折衝といった手間を引き受けてくれるのだから、優希としてはありがたい。
もちろんフリーランスとして直接契約するほうが、受け取る報酬は高くなるので得だ。
しかし今回のように大きな案件の場合、手間を考えれば、丸投げできるに越したことはない。
ソンツァの抜く手数料も破格で、断る理由はなかった。
今後も今回のような形で優希との連携を取れるよう、関係修復を図りたいのだと、中森社長はあけすけに語った。
そのために先方から提示されている全体予算と、ソンツァが優希に支払う報酬、そこから引く手数料をすべて開示して見せたのだから、大したものである。
もちろん、それだけのことをするメリットがソンツァ側にもある。
ひとつに、前社長の退任が大きな要因となっているのは間違いない。
前社長は人格に難があったものの、日露・露日の翻訳者としては、国内でトップクラスだった。
そんな彼が突然の病で、前線を退かねばならなくなった。翻訳者は体力勝負な一面もあり、継続は困難であると判断したためだが、これによりソンツァは主力を欠くことになる。
少しでも手駒を増やしたいという理由で、ソンツァは社長自らが優希の囲い込みに動いたというわけだ。
今日の収穫は、それだけではない。
日野の勤務する会社で、康太郎が4月からパートタイムのアルバイトをすることになったのだ。
電話応対にデータ入力、書類や郵便の仕分けがメインになる。まあ、雑務だが、妙なところで働くよりはよほどいい経験になるに違いない。
それまでにやることを、優希はシーザーサラダの温泉卵を崩しながら考える。
まず、データ入力の基礎を叩きこむために、短期間集中型のスクールに康太郎を入れる。
新しいパソコンを買う。
念のため、1着くらいはスーツを作る。
「あ」
思わず声を出した優希を、康太郎が肉をほおばったまま不思議そうな顔で見た。
「ああ、いや、康太郎、バイト始めるとさ、その頭はちょっとまずいかも。切らなきゃいけないかもしれないけど、平気?」
いくら出版社が他に比べて自由な風潮にあるとはいえ、多少は周囲に合わせる必要もあるだろう。
康太郎は、こくこくと頷きながら肉をコーラで飲み込んだ。
「髪は別にこだわりあるわけじゃないし、バイトするなら面接前に切らなきゃと思ってたから大丈夫。というか、もう伸ばしておく理由ないし」
「伸ばしておく理由があったんだ」
何気なくそう口にした優希に、彼は少しだけ嬉しそうな顔をした。
それは優希が初めて康太郎個人に興味を示したことへの喜びだったのだが、優希は彼の表情のわずかな違いに気づかなかった。
「母さんがさ、流産したじゃん?」
「……ごめん、それは知らない」
優希は渋い顔になり、ジンジャーエールを口に含んでそれを誤魔化す。
「えっとね、俺が生まれる前に流産したんだって。俺を生んだあと、子供ができなくなっちゃって、でも母さんはどうしても女の子が欲しかったらしい」
「……伸ばせって言われたの?」
「そういうわけじゃないけど、娘だったらこういうことができたのにってよく言ってたから。髪伸ばすくらいで喜んでくれるなら、別に、金がかかるわけじゃないし。校則でも髪形は自由だったから」
(……髪は1年で12㎝伸びるんだっけ)
康太郎の長い髪は、背中の半ばまであり、少なくともここ数年で伸ばし始めたわけではないことが伺える。
彼は小学校2年生のときに実家を離れたと言っていたが、その頃からもう髪を伸ばしていたのだろうか。
優希は、こと、姉絡みになると沸点が低くなりやすい。
このときも思わず憤りが顔と言葉に出そうになったが、強いて感情を鎮め、康太郎から視線を外した。
「……まあ、髪が長いと手入れも大変でしょ。それだけの長さを切ったら、頭も軽くなるよ」
「うん。あ、あれ、ヘアドネーションっていうのやってみたくて」
「いいんじゃない? 私が行ってる美容室でもやってたと思うよ。今週あたりどこかで一緒に行く? 私もそろそろ切らないと見苦しくなってきたし」
「行く。あとね、買い物もしたい」
「何買いたいの」
「何も考えてないけど、そういうの、優希さんと行ってみたい」
まだ若い彼にはここ最近の引きこもり期間が堪えたのか、とにかくどこかに出かけたいということだろう。
「いいよ。美容室の近くに有名なケーキ屋があるんだ。並ぶかもしれないけど」
「並んでもいいから行きたい! いつなら行ける?」
嬉しそうに言って、肉にフォークを突き立てる康太郎に、優希は若いってこんな感じだったかとしみじみと思いつつ、彼の内心をあまり深く考えることもなく、いつにしようかと予定を考えた。
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