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帰ってこない
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トボトボと歩いているつもりはなかったけれど、帰ってきたらリサにどうしたのですか? と心配されてしまった。ショックが顔にでていたのだろう。貴婦人は無闇に感情を出さないように言われているのに。
「リサ、大丈夫なの。ちょっとお勉強が難しくて……。宿題もあるから少し勉強するわね」
宿題といっても大した量ではない。直ぐに終わってしまった。
「紅茶でもいかがですか? 疲れた時は、甘いものがいいんですよ。料理長から預かってきたお菓子があります」
本のレシピを料理長に作ってもらって試食しているリサは、もうすでに食べたのだろう。その顔を見ると自信作のようだ。
「どれかしら?」
「こちらです」
パイのいい匂いがした。切り取られた三角から黄金の果実が見えた。
「あ、ニナモね。どうだったのかしら? 普通はお肉料理に使うでしょ? アッルプは果物だから……」
「それが! 食べてみてくださいませ。この作者は本当に植物学者なんですか? 料理研究家じゃないんですか?」
余程美味しかったに違いない。キラキラとした目が赤い本に注がれる。
「あ……美味しいわ」
一口食べて驚いた。甘みの中に少し混じったニナモの辛みがスッキリとした味わいを与えていた。バターともよくあう。肉に使うよりも量は少ないのだろう。強い風味はなく、軽いアクセントになっていた。
「甘いものが苦手な人でも食べられますね」
無理して食べる必要はないと思うけれど、確かにこれは想像を遙かに超えた味になっている。
これは……本当に売り出そうかしら?
アッルプは領地の特産でもあるのだ。ニナモは高い香辛料だが、一本だけ温室に生えているのだ。ニナモも薬となる木で熱い国にしか生えていない。父がとても危ない橋を渡って入手したと言っていた。その割に調べてみたら呼吸器などへの薬ではなく、胃薬だったという残念なものだった。残念な木は屋敷の温室に生えているし、外皮を取り除き、叩き、平たくしたものをさらに砕いたものが腐っていなければあるはずだ。
「ミリアム様が元気になって嬉しいですわ。美味しいものは素敵ですわね」
リサが淹れてくれたパイにあう紅茶を飲むと、身体が温まって自分でも元気になったような気がした。
フェリクスは、リゼットとショコラを食べているかしら?
ふと浮かんだ疑問を振り切るようにもう一切れ食べた。
「リサ、今から本を読むわね。もっと美味しいものがないかみてみるわ」
そう言うと、リサは心得たように部屋を下がっていった。
本を夢中で読み進めていくと、数字がいくつも並んでいるページがあった。何かの配合かしら? と一瞬思ったけれど、これは作者のものでなく父のメモだ。右に少し跳ねる癖があったからわかる。
「お父様ったらこんなところに書いて……何を書いたのかしら?」
数字に覚えはない。縦に書いているのが月、日だとはわかるけれど。
多い数字は春前に続く。文字はAだ。最初という意味だろうか。
羅列は、父の死んだ日の三日前まであった。三日前、父は温室に行っていたはずだ。三日毎に母の薬草を採りにいっていたからだ。父はアーティライトの管理をハインツにも任せきりにすることはなかった。状態や数を把握して不具合はないか確かめるためにまめに通っていた。
「A……もしかしてアーティライトのことかしら?」
この数はなんなのだろう。どうしてこんなところにメモにしているのだろう。日付は三ヶ月程前からだ。そういえば三ヶ月程前から時折難しい顔をしていたように思える。
アーティライトのことだったらゼイン医師に相談した方がいいかもしれない。
「ねぇピピ、一人で考えるより二人のほうが答えは見つかるわよね」
寝台の側に掛けてある螺鈿の鳥籠。その中で白い鳥は私の言葉に応えるように細い声で「ピィー」と鳴いた。珍しい白い金糸雀。フェリクスからの初めての贈り物だ。
嬉しいという気持ちと、どうして愛人にという戸惑いはあったけれどピピと名付けた鳥はとても愛くるしい。
いつも遅くなっても帰ってくるフェリクスだけど、今日は帰ってこないような予感がした。
気分が落ち着くという花の香茶を飲み過ぎたのがわるかったのか目が醒めて眠れない。寝台に入ってからの一刻一刻が、とても長く感じられた。
「嘘つき……。早く帰ってくるっていったのに……」
昼間に感じた疎外感が襲ってくる。
唇を合わせても身体を合わせても、どれだけ溶け合ったように感じても、人の心はわからない。愛しているという言葉に憧れていた頃、言葉が言葉でしかないなんて気づきもしなかった。
夜も更けて次の日に変わる頃、フェリクスが帰ってきた。
「起きていたの?」
どうしてバレてしまったのだろうと思いながら、彼に背を向けたまま声を出さなかった。
「まだ眠ったばかりなのか……。こうやって寝台で眠っている君をみたのは久し振りだ。ごめんね、今日も遅くなってしまった」
独り言で謝りながらフェリクスは衣擦れの音を響かせた。一枚、二枚と順番に脱いでいくのを感じて、外に出ていたのだろうかと思った。この季節まだ夜は寒いから外に行くなら外套も羽織る。侍女にまかせず夜遅いときは自分で着替えていたのだと知った。
「もう少し我慢してね……ミィ。愛してるよ」
私をシーツで包んで、フェリクスは直ぐに眠ってしまったようだ。
彼の身体からうっすらと花の匂いがした。一瞬リゼットの匂いかと思ったけれど、昼間嗅いだ彼女の匂いではなかった。
これは、他の匂いが混じっているけれどアーティライトの匂いに似ていた。ふと、思い出す。川の温室でアーティライトの匂いがしたような気がしたことを。
「リサ、大丈夫なの。ちょっとお勉強が難しくて……。宿題もあるから少し勉強するわね」
宿題といっても大した量ではない。直ぐに終わってしまった。
「紅茶でもいかがですか? 疲れた時は、甘いものがいいんですよ。料理長から預かってきたお菓子があります」
本のレシピを料理長に作ってもらって試食しているリサは、もうすでに食べたのだろう。その顔を見ると自信作のようだ。
「どれかしら?」
「こちらです」
パイのいい匂いがした。切り取られた三角から黄金の果実が見えた。
「あ、ニナモね。どうだったのかしら? 普通はお肉料理に使うでしょ? アッルプは果物だから……」
「それが! 食べてみてくださいませ。この作者は本当に植物学者なんですか? 料理研究家じゃないんですか?」
余程美味しかったに違いない。キラキラとした目が赤い本に注がれる。
「あ……美味しいわ」
一口食べて驚いた。甘みの中に少し混じったニナモの辛みがスッキリとした味わいを与えていた。バターともよくあう。肉に使うよりも量は少ないのだろう。強い風味はなく、軽いアクセントになっていた。
「甘いものが苦手な人でも食べられますね」
無理して食べる必要はないと思うけれど、確かにこれは想像を遙かに超えた味になっている。
これは……本当に売り出そうかしら?
アッルプは領地の特産でもあるのだ。ニナモは高い香辛料だが、一本だけ温室に生えているのだ。ニナモも薬となる木で熱い国にしか生えていない。父がとても危ない橋を渡って入手したと言っていた。その割に調べてみたら呼吸器などへの薬ではなく、胃薬だったという残念なものだった。残念な木は屋敷の温室に生えているし、外皮を取り除き、叩き、平たくしたものをさらに砕いたものが腐っていなければあるはずだ。
「ミリアム様が元気になって嬉しいですわ。美味しいものは素敵ですわね」
リサが淹れてくれたパイにあう紅茶を飲むと、身体が温まって自分でも元気になったような気がした。
フェリクスは、リゼットとショコラを食べているかしら?
ふと浮かんだ疑問を振り切るようにもう一切れ食べた。
「リサ、今から本を読むわね。もっと美味しいものがないかみてみるわ」
そう言うと、リサは心得たように部屋を下がっていった。
本を夢中で読み進めていくと、数字がいくつも並んでいるページがあった。何かの配合かしら? と一瞬思ったけれど、これは作者のものでなく父のメモだ。右に少し跳ねる癖があったからわかる。
「お父様ったらこんなところに書いて……何を書いたのかしら?」
数字に覚えはない。縦に書いているのが月、日だとはわかるけれど。
多い数字は春前に続く。文字はAだ。最初という意味だろうか。
羅列は、父の死んだ日の三日前まであった。三日前、父は温室に行っていたはずだ。三日毎に母の薬草を採りにいっていたからだ。父はアーティライトの管理をハインツにも任せきりにすることはなかった。状態や数を把握して不具合はないか確かめるためにまめに通っていた。
「A……もしかしてアーティライトのことかしら?」
この数はなんなのだろう。どうしてこんなところにメモにしているのだろう。日付は三ヶ月程前からだ。そういえば三ヶ月程前から時折難しい顔をしていたように思える。
アーティライトのことだったらゼイン医師に相談した方がいいかもしれない。
「ねぇピピ、一人で考えるより二人のほうが答えは見つかるわよね」
寝台の側に掛けてある螺鈿の鳥籠。その中で白い鳥は私の言葉に応えるように細い声で「ピィー」と鳴いた。珍しい白い金糸雀。フェリクスからの初めての贈り物だ。
嬉しいという気持ちと、どうして愛人にという戸惑いはあったけれどピピと名付けた鳥はとても愛くるしい。
いつも遅くなっても帰ってくるフェリクスだけど、今日は帰ってこないような予感がした。
気分が落ち着くという花の香茶を飲み過ぎたのがわるかったのか目が醒めて眠れない。寝台に入ってからの一刻一刻が、とても長く感じられた。
「嘘つき……。早く帰ってくるっていったのに……」
昼間に感じた疎外感が襲ってくる。
唇を合わせても身体を合わせても、どれだけ溶け合ったように感じても、人の心はわからない。愛しているという言葉に憧れていた頃、言葉が言葉でしかないなんて気づきもしなかった。
夜も更けて次の日に変わる頃、フェリクスが帰ってきた。
「起きていたの?」
どうしてバレてしまったのだろうと思いながら、彼に背を向けたまま声を出さなかった。
「まだ眠ったばかりなのか……。こうやって寝台で眠っている君をみたのは久し振りだ。ごめんね、今日も遅くなってしまった」
独り言で謝りながらフェリクスは衣擦れの音を響かせた。一枚、二枚と順番に脱いでいくのを感じて、外に出ていたのだろうかと思った。この季節まだ夜は寒いから外に行くなら外套も羽織る。侍女にまかせず夜遅いときは自分で着替えていたのだと知った。
「もう少し我慢してね……ミィ。愛してるよ」
私をシーツで包んで、フェリクスは直ぐに眠ってしまったようだ。
彼の身体からうっすらと花の匂いがした。一瞬リゼットの匂いかと思ったけれど、昼間嗅いだ彼女の匂いではなかった。
これは、他の匂いが混じっているけれどアーティライトの匂いに似ていた。ふと、思い出す。川の温室でアーティライトの匂いがしたような気がしたことを。
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