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10 アレント伯爵家の馬
しおりを挟む王都の端のほうにアレント伯爵の街屋敷はあった。
「あら……」
アラーナは屋敷に入る前から、まるで知らない屋敷にきたような気分になっていた。
「カリーナが少しでも過ごしやすいようにね」
屋敷の変容は父の愛らしい。自慢げに笑う父にアラーナは苦笑する。
「そうね。お母様の好きな色ね」
母の好きなクリーム色の壁紙、母の好きな工房の家具、母の好きな植物。ここはまさに母のための家だった。その前は姉が主に使っていたことから、姉の好きな青色が主体だったのだ。
「一月でよくここまで改装できましたわね」
母は肩を抱く父に呆れた顔を見せた。それでも父は変わらず微笑む。
「そりゃ、カリーナのためだからね」
大変だったのは周りだろうとアラーナは母と目配せを交わした。
職人や屋敷を整備した庭師、家人たちへの申し訳ない気持ちは伝えなくてはいけない。
「しっかり支払ってあげてくださいませ」
母がそう言うと、勿論だと父は頷いた。父がわかっているのならいいと、二人は頷いた。
「こうしてみると、アラーナはカリーナに似ているね」
父はアラーナに父最大の褒め言葉を贈ってくれた。それに曖昧に頷きながら、迎えてくれた両親にお礼を言って自分の部屋に戻る事にした。自分の部屋に入って、変わっていないことにホッとした。
「こちらがアラーナ様のお部屋ですか」
護衛騎士達は執事に警護のために屋敷を案内してもらっている。伯爵家にも侍女がいるからシエラ以外は、アラーナの身の回りを世話する人間は連れてこなかった。
「ええ。一月前と変わらないわ」
それでもここはアラーナにとっては別荘のようなものだ。ずっと領地の屋敷で育ってきてこの屋敷は年に何度か訪れるだけだった。マリーナが妾妃に上がる日が近づいてきたから、少しでも姉と一緒に暮らしたくてこちらに来ていたところをあんなことになってしまった。
豪華な王城とは比べ物にはならないが、愛着のあるものばかりで落ち着く。金色の髪のお人形は、妹の代わりに可愛がっていたし、大好きな絵本もある。
「アラーナ様、アルベルト様はしっかり両親に甘えてくるようにとおっしゃってましたね」
「アルベルト様は、私を子ども扱いしすぎだと思います」
アラーナは淑女を目指して頑張っているが、会話の節々にアルベルトでアラーナを子ども扱いするのだ。
「あれでも必死にアラーナ様を子供だと言い聞かせているのですよ」
確かに大人の扱いを受けても、今のアラーナには応えられない。
「そうね。今のうちに頑張って胸を育てないと!」
「え、そこですか」
シエラのいう大人とアラーナの思う大人は違ったようだ。
「だって……また小さいって言われたら……」
今はまだいい――。子供だから胸がなくても、そのうち育つと信じられる。けれど二年たってまだこの胸に膨らみがなかったらと思うと申し訳ない気持ちが溢れる。
「牛乳を飲みましょうか」
思いつく一番簡単な案をシエラは提案してみた。
「ええ。そうね、毎日沢山飲んでいたらきっと……」
アレント伯爵の領地には大きな街もあるが、アラーナたちが住んでいるのは山に近い田舎だった。カリーナの身体には自然の豊かな場所がいいと言われたからだが、そこには牛もいる。
「でもアラーナ様がダイナマイトナイスバディになられたら、アルベルト様は自制できないかもしれないですね」
「二年後に膨らむように調整できればいいのだけど……」
「それは……神様じゃないと無理じゃないですか」
「神様にお祈りするわ、私」
シエラは、そんなアラーナが可愛くて仕方がなかったが、少しだけ神様が可哀想になってしまった。
アラーナの性格を考えると毎日一日も欠かさず「アルベルト様のために二年後に胸が大きくなりますように」と祈られるだろう。
***
「馬小屋に行ってきます」
アラーナは乗馬用のドレスをクローゼットから出して来た。乗馬用は下がズボンになっていて膝の辺りまでスカートのようなものがついている。それにはスリットがついていて、馬に乗るのには楽な服装だった。背の高いアラーナによく似合っているとシエラは着付けながら思った。
こういうドレスを夜会用にアレンジすればアラーナにとても似合うのではないかとシエラは思いついた。
「私も行きます」
シエラも横乗りだが馬には乗れる。 着いていってみたものの、アラーナのやりたかったことはシエラの想像とは違った。そして何故アラーナが王宮では一度馬に乗っただけでやめてしまったのか理解したのだった。
街屋敷の建物は大きいわけではなかったが、庭は広かった。正面からは見えない裏庭の部分は木々や塀に隠れて周りからは見えなくなっていて、そここそがアラーナの目的があった。
アラーナは下働きか馬丁のようなことを始めたのだった。馬に水をやり、嬉しそうにブラシをかけている。馬も慣れているようで裏の広い放牧場からワラワラとやってきて、アラーナに近寄ってくる。それを一頭の馬が牽制しその馬が許した馬だけがアラーナにブラシをかけてもらえるようだった。馬は群れの動物で、その白い馬がその群れのリーダーのようだった。
「アラーナ様……私もブラシをかけてもいいですか?」
見ているだけだと暇だったのでそう申し出ると、アラーナは瞬きを繰り返して驚きを表した。
「ごめんなさい、すっかり忘れていたわ」
シエラの存在を言葉通り忘れて夢中になっていたようだった。
「楽しそうですね」
「あ、あの、屋敷を見て回ったり、お母様たちとお茶でもしてきていいのよ?」
アラーナにつく護衛騎士の二人が知らぬ間に戻ってきていたので、シエラが休憩していても問題はない。
「いえ、アラーナ様がそんなに楽しそうなんですから、私もやりたいと思っただけです」
「そうっ? ふふふ、嬉しいわ」
馬のここが気持ちいいみたいなのよと嬉しそうにアラーナは、ブラッシングのコツをシエラに伝授した。
「あら、面白い顔になりますね」
「それは気持ちいいときの顔なの。甘噛みしてくる子もいるから、そのときは肘でね」
アラーナが肘を振り上げるマネをする。
「アラーナ様、私、アラーナ様のことを少し誤解していたようですわ」
首を傾げたアラーナに、シエラは「結構強いんですのね」と呟いた。噛まれたら泣くだろうと思っていたのに、アラーナは平然と馬とじゃれていた。
「ごめんなさい……私、本当に貴婦人とかいう柄じゃないのよ。お姉様とは大違いで。でもアルベルト様に嫌われたくなかったから、少しでも大人しくしてようと思って頑張っているのだけれど……」
馬を見ていると乗るだけじゃなく触りたくなる。抱きつきたくなるのだそうだ。
そんな貴婦人はいないと王宮で馬に乗った初日に気付いたから、乗るのをやめたのだという。
「乗る時も台を使って、怪我をしないように気をつかってもらって……。それじゃ、馬と会話なんて出来ないもの。会話のない乗馬なんて、楽しくなかったの」
シエラが思っていた以上に、アラーナは我慢をしていたのだと気づいた。
「アラーナ様、無理はいけませんわ。アルベルト様は、多分、アラーナ様の楽しそうな姿をみたら、止めろなんておっしゃらないと思いますわ」
馬に突かれて怒っている姿も、楽しそうに馬の顔を抱くアラーナも、これほど愛らしいのだから。アルベルトは鼻の下を伸ばすことはあっても怒ったりしないだろう。
「そうだと、いいのだけれど……。アルベルト様は素敵だもの、私も少しでもつりあうようになりたい……」
恋をすれば誰もが願うことだろう。アラーナの気持ちを痛いほどシエラにもわかった。背伸びしたくなる気持ちももちろんわかる。五歳の年齢差は、十代では大きいのだ。
「お手伝いしますわ。馬のブラッシングも、淑女に見せる練習も」
最初はただ可愛い妹のように思っていたアラーナに段々と魅かれていく自分にシエラは気付いた。
「レイモンド・エンディス様のことなんだけれど……いつもシエラのことを見つめているわ。シエラも気付いているのでしょう?」
こそっと囁いたアラーナの口から元夫の名前がでて、シエラは驚いた。側に控えている護衛騎士の一人である。
「あの人とはもう終わったんです。私もアラーナ様のように憧れて、恋をして、愛を捧げた時期もありました……」
「でもあの人の目は、まだシエラを愛していると思うのだけれど」
「いいえ、アラーナ様。男は狼なのです。自分の獲物が逃げたから追っているのに過ぎません。私が油断すれば、きっとまた私をいたぶって遊ぶつもりなのですわ」
シエラがいたぶることがあってもレイモンド・エンディスがシエラをいたぶる姿を想像することは難しかった。
「シエラ……」
「私は、もういいのです」
切り捨てたようにいうシエラだが、アラーナにはまだ傷が乾いていないように見えた。
「さあ、アラーナ様、何頭やるつもりですか」
馬は次々とシエラとアラーナの前にやってくる。それを必死でブラッシングしていると不思議と気持ちが落ち着くことに気付く。それからシエラは、王宮に帰るまで毎日馬を磨いた。それを護衛時間を過ぎてもレイモンド・エンディスがそっと見つめるのが、アレント伯爵家での話題に上がるようになるのに時間は掛からなかった。
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