狂態カンセン

小槻みしろ

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寒気

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 親友の明子が、狂った。前触れもなく、昨日、映画を見に行こうと約束し、別れたところまでは普通だったにもかかわらず。
 尤も「狂った」という言葉から、およそひとが連想する様な激しいものではない。ただ、今目の前に立つ明子と昨日までの明子、そして明子の言動を合わせて、それ以外に形容する言葉が見つからなかった。

「今日は寒くなかったから」

 そう明子は言った。真っすぐに奈緒を見つめる目は、声音と同じく至極真面目だった。
 奈緒ははじめ、何を言っているのだろう、そう思った。視線を明子の目から、明子の服装へと移した。明子はコートを着ている。コートの襟から見える首は、タートルネックのセーターで覆われていた。そしてスカートとタイツをはいていた。
 季節は、寒風が骨身に染みる頃。
 少々心許ないとはいえ、そこそこ典型的な冬の装いと言ったところだ。

「なんでそんな恰好してるの」

 五分以下の沈黙の後、奈緒の口から漸くこぼれ出た言葉だ。そして、それに対しての答えが、冒頭のそれである。
 朝起きて、支度をしようとすると、日差しが暖かかったそうだ。

「それでね、今日はそんなに着込まなくてもいいかと思って。……でも、ちょっと薄着過ぎたかなあ」

 説明しながらも、明子はコートの上から腕を寒さを示すように擦っていた。奈緒は、明子の言葉に少しめまいがし、不安になった。
 寒くなかったから、ときた。

「日差しなんてあてにならないね」

 両手を擦りあわせ、ふーと息を吹きかけた。そうして奈緒の方を見て、困ったように眉を下げた。
 日差しがあてにならない?何をいっているのだろう。それよりも大切なことが、明子にあったのではないのか、奈緒は呆然と明子を見つめながら思う。

 果たして、そんな装備で守れるものだろうか。

 守れない。守れるわけがない。寒さ?そんなこと言っている場合ではない。

 奈緒は瞬時に思う。ただでさえ、厚手の服を着たところで、刃物に太刀打ちできるはずもない。だというのに、体感温度で、今日の装備を薄くするだなんて。明子のそれは聊か「ずれた」対応に感じた。しかし今さら言ったところでどうしようもないので、口に出しすらしなかった。そもそも一番いいのは家を出ないことなのだから、しかしそれは、今日外で会う約束を取り付けた昨日の奈緒自身の言葉を裏切るものだった。
 ただ、見ていて心許ない。だから気になる。そして映画は見たい。そして元来、奈緒は消極的で慎重派だった。明子の対応の悪さを指摘して傷つけはしまいか、そんな懸念がわいた。迷った奈緒のとった行動は、目をそらすこと――それは現状にも、明子の姿にも――と、そして

「あ……そう、まあ、とりあえずいこっか」

 いつも通りを装う事だった。その臆病な行動に罪悪感がそっと追いかけてくるが、見ないふりを決め込んだ。だってどうしようもないではないか、そんな自己弁護で叩き伏せた。とりあえず明るい所、そして暖かいところへ行こう。危険も寒気も、そこが全て解決してくれるだろう。


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