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拓夢の話11

またね

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気づけば、洗面所で丸まって寝ていた。俺は、ゆっくりと起き上がった。口をゆすいで、顔を洗った。

「ダセー。面」

目が腫れてるのに笑いそうになった。

「拓夢君、私帰るわ」

まっつんの母親が、洗面所の俺に声をかけてきた。

「あっ、はい」

「顔だけ洗うわ!いい?」

「どうぞ」

身なりは、来たときと同じように整っていた。まっつんの母親は、口をゆすいで顔を洗った。

「次からは、色々試しましょうね!私、色々知ってるのよ!拓夢君が知らないような事、何でも」

はいともうんとも俺は、言わなかった。

「キスしてなかったわね」

「えっ?」

「次はしてあげるから」

そう言って、頬を撫でられた。

「じゃあ、帰るわね」

「気をつけて」

俺は、まっつんの母親を見送った。玄関の扉が閉まるとホッとして床に崩れ落ちた。

引っ越し!頭の中に引っ越しだけが流れてきた。今すぐ引っ越そう。

俺は、不動産屋さんに勤めてるしゅんに電話していた。

プルルルー

『朝早いねー、どした?』

「しゅん、俺、引っ越したいんだ」

『うん、いつ?』

「今日」

『きょ、今日!?』

しゅんは、驚いた声を出していた。

「駄目かな?」

『いや、意味わかんないんだけど!何?ストーカーとか?今日って!はぁ?』

寝起きらしいしゅんは、意味不明な俺の言葉に戸惑ってるようだった。

「あー、うん。その、美紗との思い出と決別したくて」

『それなら、もっと早く引っ越したろ?』

ごもっともな意見だ。

「えー、あー、ファンが居たんだよ!昨日、家の前に…」

『あー、それは、困るやつだな!』

しゅんは、やっと納得してくれた。

『じゃあ、昼過ぎにまた連絡するわ』

「よろしく」

『わかった』

そう言って、電話を切った。よかった。これで、まっつんの母親を傷つけずにすむ。これで、まっつんとまだバンドを続けられる。昼過ぎに、しゅんから連絡がやってきて俺は、バタバタと引っ越しをしたんだ。

「拓夢」

凛の言葉に、俺は現実に引き戻された。

「私が、それを預かるよ!だから、もう忘れていいんだよ」

「凛」

涙がボロボロ流れるのを感じる。

「俺ね、凛に会うまで」

「うん」

「自分に嫌悪しかなかったんだ」

「うん」

「まっつんを裏切ってる罪悪で押し潰されそうだった」

「わかってる!私も同じだから」

「だけど、どうにも出来なかった。まっつんには、言えない。失いたくないから」

「わかるよ!わかる」

凛は、そう言って抱き締めてくれる。ずっと仲良かったまっつんといれなくなるのは、考えられなかった。だから、俺は平気なフリをし続けたんだ。
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