不実な紳士の甘美な愛し方

藤谷藍

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愛しい恋人

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結局のところ、葵は蜜夜の翌日に続き、週明けまで思いがけなく伊織の家で過ごした。
自宅にも帰らずそのまま出勤となり……カフェの裏口から向かった最寄り駅までの朝もやがやけに新鮮で、ちょっぴりイケナイことをしたような、嬉し恥ずかしとスリルに興奮を足したーーそんな感情を胸に秘め会社で仕事に励んだ。
恋人の家から出勤なんて、自慢じゃないが27歳この歳にして初めてで。しかも、昼夜を問わず抱き合って愛欲に溺れまくった自分が信じられなかったが、伊織自身も驚いていたので頬はゆるみがちだった。
飽きることなく何度も葵を求めてしまうことに困り果てたその顔は、とても可笑しかったが、どうやら伊織が絶倫だというのは彼自身でも新発見らしい。

けれども。タイミング悪くも。突如決まった出張で伊織は今晩遅くまで戻らない。ーーそう聞いたときは、ほんとガッカリした。
月曜の早朝に、スマホ音でおはようのキスを中断された伊織は驚くほど短い通話を終えた後、「仕事で父親に会うことになってね」と二、三日家を空ける旨を葵に告げた。
仕事の都合こればかりは……仕方ない。それに……この出張はどうやら、伊織の家事情でもあるらしい。

ーー自分の親の呼び方は、”僕の父”とか、”俺の親父オヤジ”とか、”父さん”など人それぞれだと思う。だけど単に”父親”とだけ呼ぶのはまれな気がして、どこか他人行儀なその呼び方と冷淡さに葵はいたく興味をひかれたが。いつも歯切れの良い話し方をする彼が、気が乗らないと言った感じで顔をしかめたので突っ込んでは聞かなかった。
……スマホを放り出すなり、再び濃厚なキスを仕掛けてきた伊織は、疎遠らしい家族のこともいずれ話してくれる。そう感じたから。

そして自分でも不思議なのだが、彼の素行に関してはまったく心配していなかった。
どこへ行っても女性たちの注目を浴びる伊織は、葵の知るかぎり据え膳にも応じる。そんな彼に不安を覚えてもおかしくないはずなのに。

『君とはそんな関係じゃない』

少し前まで心に影を落としていたこの言葉こそが、今、葵の心の支えになっている。
誰よりも大切だとーー誓うようにタクシーの中で手を握ってきた彼は葵には誠実だ。そう断言できる。
それに、だ。こそこそ隠れての裏切りなど、絶対にない。

(……浮気なんてね。そんな面倒なこと、伊織さんがするわけないんだから)

やるなら堂々と、が彼のスタイルだ。
出会った夜もあっさり別れ話を切り出していた……そんな彼を信じているし、心変わりをすれば先に自分に話すとある意味信頼しきっている。

さて、今日は初めて伊織と愛し合った夜から一週間近くが経った、次週の木曜だ。
傘を片手に電車から降りると、葵はまっすぐエスカレーターへと向かった。
その視界に、路上に点々と散らばる小さな水たまりが映る。
雨の日用のローファーは防水加工されてはいるが、これ一足しかないからなるべく濡らしたくない。
傘から滑り落ちて溜まった水滴らしきそれらを、葵は注意深く避けて通り過ぎた。
朝から雨が降ったり止んだりと、相変わらずジメジメした天気が続いているが、予定していた午前中の取引先をめぐり終えて一息つくと、駅ビルを出る頃にはひとりでにソワソワしてしまう。
今夜、伊織が出張から帰ってくる。もしかしたら会えるだろうかーー?
……勤務中はなるだけ考えないようにしている。けど、気がつくと勝手に先日の甘い記憶がするっと蘇って、足が自然と止まっていた。すると頭上からポツポツ雨が降りはじめ、慌てて傘を開くと会社ビルを目指す。
会社に戻ってデスクワークをしていると、しばらくして隣の中西が戻ってきた。だが、自席に座らず葵の椅子の背もたれに手をかけたまま、からかうように知らせてくる。

「植松さん、課長が呼んでる。小会議室だ」

今まで課長と話していたらしい中西は、そのまま何も言わず給湯室へと向かった。
デスクに戻ると大抵の場合、情報交換だと話し込んでくることが多い彼にしては珍しい。呼び出しって何だろう?と、葵は少し緊張気味に会議室のドアをノックした。

「ああ、植松さん。お疲れさま。わざわざ来てもらってすまないね。ちょっと、話しておきたいことがあってね」

上司への挨拶を済まし勧められるまま座ると、葵は落ち着いた態度で話を聞く。
それによると、会社の上層部では最近の葵と中西の仕事ぶりが高く評価されているらしい。現在話が進んでいる大口契約がこのまま順調に取れたら、二人のうち一人が社の重要プロジェクトチームに異動となり、もう一方は昇進する調整に入ると言う。
ーー突然もたらされた朗報とでもいうべき話に、葵は大いに驚いた。内示前に上司がここまで話してくれるなんて、よっぽどのことだ。これはひょっとして……この人事評価は、課長の後押し期待がものすごいのかも。

「この話はまだ、決まったわけではありません。条件付きですからね……ですが、心づもりだけはしておいて下さい」

心の中で二、三歩後ろによろめいた葵はだが、こちらに向かって安心させるようにニッコリ笑う課長に、はためには冷静でいんぎんな態度で礼を述べた。

「はい。ありがとうございます。課長の期待に応えるべく、今回の案件を成功させることに全力を尽くし、鋭意取り組んで参ります!」
「植松さんなら、大丈夫だと思います。最後まで気を抜かず励んで下さい。応援していますよ」

課長からの激励に嬉しそうに微笑んでお辞儀をしてから会議室を出たものの、葵はそのまま資料室に駆け込んでしまった。
棚にもたれ掛かり、長い長い深呼吸をする。

(……びっくりした~。でも、嬉しい!)

会社に残って何度も書き直した企画書や、積極的にアポを取り付けて足を運んだその努力が認められたのだ。公平な上司として慕われる課長に、営業のエースである中西と並んで名前を挙げられただけでも、快挙ものだった。
スーハーと何度か大きく息を吸って吐いて、上気した頬を軽くパシと叩く。
動悸を落ち着かせてから資料室を出ると、廊下の壁に中西がもたれかかって葵を待っていた。

「話、聞いたか?」

葵が頷くと、よしと頷いてくる。

「俺たちのどちらかが異動になるかも知れないが、恨みっこなしな。でもまあ、契約が取れなきゃあ、この話もおじゃんだよなあ」
「……取れる可能性は、とても高いと思います」

どちらもそれは承知している。
仕事熱心な中西とは今後も仲良くしていきたい。だから彼のガッツの入った「よっしゃ。やるぞっ」との呼びかけに、葵も気合を入れ「取って見せましょう!」と返事をしてデスクに向かった。
途中でふと、入口付近の席をチラリと見やる。元カレの石田はこの頃デスクにいないことが多い。営業成績が芳しくないため、必死で外回りをしているらしい。理由はどうであれ、チョッカイを掛けられないのは葵にとってめでたいこと。考えるのも時間の無駄とばかり、葵はさっさと自席に戻り仕事の続きに励んだ。

けれども、帰りの電車で吊革にもたれていると、異動という言葉がいまさらながら心にのしかかる。
家に帰るとさらに伊織に会えない寂しさで心が揺れるが、これだけはどうしようもない。
月曜の早朝に伊織を見送ったから、火、水、木……たった三日だ。顔を見ていないのは。ここ最近毎日会っていたからか、毎晩電話ごしに声を聞いていても永遠に思える……
ふと、一昨日の朝「いってらっしゃい」を告げた時に彼が見せた、珍しく心許こころもとなさそうな顔が頭に浮かんで葵の口元がついゆるんだ。
葵もだが、伊織も、一歩進んだ二人の関係を思案しているふしがある。デートは平日限定と決めていた彼だから、もしかしたら週末を余さず一人の女性と過ごしたなんて初めてなのかも知れない。
心にどっしり根付いた深い気持ちは、恋以上だと自覚はある。でも、二度の婚約破棄を経験しているがゆえに、葵は自然と慎重だ。
彼とは心地よい関係をキープする。
たとえ異動の話が持ち上がっても、それ以上のことは今は考えられなかった。

その晩。ソワソワ気分のまま片時もスマホから目を離せなくて、けどやっぱり今夜は無理か~と半分諦めパジャマに着替えようとした時だった。
ピロン🎵
待ちに待った電子音に思わずガバッと飛びつくようにスマホを掴む。と、思ったとおり伊織からの『もうすぐ着く』メッセージだ。

もう10時に近い時間だったが、ドキドキしながら葵は玄関の鍵を解いた。聞いていた音楽のボリュームを下げ、ノックの音を聞き漏らすまいと耳をすます。

「ただいま、葵?」

控えめなノック音の後、ガチャと扉が開いたと同時に低く抑えた声がした。
三日ぶりに聞く伊織の生の声……それだけで、どうしてこんなにも切ない気持ちになる? 
心を鷲掴みにされた葵の両手が、靴を脱ぐのもそこそこに上がり込む伊織へと伸びた。

「おかえりなさい、伊織さ……ん」

背中に回した腕に力を込めて、久しぶりの彼の香りに酔っていると、顎に手がかかりグイッと上へ向かされた。え?と思った瞬間には唇が重なっていた。熱をもった触れ合いは間をおかず深まり、舌を捕らえられた葵の口腔一杯に伊織の味が広がる。

「……ん……ふ、っ……」

驚いたのほんの一瞬、同じ性急さで唇を押し付け返すと、互いを確かめるように口内をまさぐり合った。……苦しいくらいの熱いキスは純粋に嬉しい。
出張はどうだった?とか、今日は会社でこんな事があったとか。伊織に会えたら話そうと思っていたことがいっぱいあった。なのにすべてが押しやられる。
後頭部に回された大きな手が、葵の髪をまさぐっている。地肌にまで食い込むその指の感触が心地よくて、伊織の帰りを待ちわびて溜まった緊張感が次第にほぐれていく。
そうか。自分はこの人の帰りを、こんなに渇望していた…………
身体中に広がるのは安堵なのに、なぜだか胸が締めつけられて苦しい。息継ぎもままらない熱いキスをしばらく夢中で交わすと、ようやく固い抱擁がゆるんだ。重ねた唇も柔らかい甘噛みになる。

「はあ~、やっと……帰ってこれたよ」

長いため息が髪にあたる。見慣れた満面の笑みだ。

「お疲れです」
「今回は仕事とはいえ、本当にーー自分でも驚くぐらい寂しかった……葵は? 僕が恋しかったかい?」

思いがけない飾らない言葉と質問に、さっきは苦しかった胸がキュウと甘酸っぱく震えた。

「っ……はい……」
「そうか。ーー葵、今すぐバッグに化粧品を詰めてくれないか。服に仕事で必要なものも、だ」

身体を離すといきなりの指示。その上、言った本人はキッチンの冷蔵庫に向かっていく。

「え、あの……? どうかしたんですか?」

焦るように促され、素直にバッグにもろもろを詰め始めるものの、伊織は冷蔵庫の生鮮食品すべてを袋に放り込んでいる。

「さあ、いくよ。忘れ物はないね」
「い、伊織さん? 急にどうしたんです?」
「タクシーを待たせてあるから、早く早く。鍵も持ったね」

伊織は施錠を終えた葵から奪うようにバッグを受け取ると、ゆっくり動くエレベーターでもまだかとボタンを睨んでいる。
待機していたタクシーへと急かされ、後ろに座るなり発進した車は1分もかからず伊織の自宅に着いた。
葵が玄関で「お邪魔します」と靴を脱ぐなり、鍵をかける音が響いた。

「どうかな? ……元々はここに置く予定だったから」

パチンとついたダウンライトの柔らかい光源の下には、驚いたことにお気に入りの白いピアノが婉然と座していた。

「わあ! 素敵……」

階段を下りてすぐの踊り場のようなちょっとした空間、玄関の正面にあたるこの場所はピアノのために空けてあったのか。
ーーカフェで一人過ごすのは気が乗らなくて、後ろ髪を引かれる思いがあっても顔を出していなかった。だからこれは葵にとってとても嬉しいサプライズだ。
光沢のある艶々の表面を葵はうっとり眺め、手で優しく撫でさする。すると、手に持っていた袋を冷蔵庫に収めた伊織はそんな葵を見て、ちょっぴり拗ねた顔をした。

「僕に会った時より、嬉しそうなんだけど……」
「そんなわけありませんよ」

笑って否定しても、疑わしそうだ。

「君の恋人は誰? ピアノを見てそんな顔をされたら、僕の立つ瀬がない……」
「何を子供みたいなこと、言ってるんです」

呆れた葵が本格的に伊織を振り返った途端、ベビーグランドの上にヒョイと身体を乗せられた。

「ちょ、ちょっと、伊織さん?」

不安定な重心に慌てて背中に力を入れ両手をつこうとしたら、反対にグッと前に引き寄せられる。

「子供じゃないことを、わからせる」
「あ、そん……んんっ」

再び重なった唇は、有無を言わせない。葵はピアノの上に座らされたまま抱き込まれた。
伊織のこの、かつてない強引さーー!
予期せぬ情熱に驚いた葵は、隙だらけだ。開かれた太腿の間に伊織を挟み込む体勢になる。

「ふっ、っん、んンーーっ……」

だが、角度を変え何度も繰り返される巧みなキスにあやされ……その上、ただよってくる伊織の芳香に魅了されてーー……
目が眩むほど気持ちが昂って、身体はすぐ熱くなった。

欲しい。……もっともっと、伊織が欲しい。
ゾクゾクと湧き上がってくる獣欲は抑えられそうにない。
溺れそうなキスに酸素を求め唇をずらすと、伊織の唇が追ってくる。後頭部を支える手の指にも力が加わった。
伊織のキスから逃げれない。
その事実を突き付けられると、いっそう心がチリチリする。ゆえに深いキスからようやく開放されても、ハアハアと荒い息を吐くのに精一杯で気づくのが遅れた。

「ぁ、何を……? 」

お尻を軽く持ち上げられた葵は、慌ててその腕にしがみつく。履いていた部屋着を下着ごと足首までずらされるその感覚に、目尻に涙が溜まった目ですがるように彼を見た。

「ーーそんなにあおって……いったい僕をどうするつもりだい?」

彼の手からポトッと下着が落とされた。つかのま見つめた伊織の瞳は、情欲でくらく濡れ光っている。ーーまるで黒曜石だ。漆黒の双眸にダウンライトが反射して、きらめいている。

なんてーー……! なんて熱い目で、見つめてくるのだろう。
胸をく甘い痛みはどうしようもなく、見惚れた葵の唇からあえぎ混じりの吐息が妖しくこぼれた。

「ぜったいに、抱く」

喉奥でうなる伊織の低い声が、かすれてセクシーなこと極まりない。

「葵、足を開いて。もっと……」

ゾロリ、と葵の背中が小さく震える。
優しげなのに逆らえない口調は、まるで熱く濡れた舌で身体中を舐められるみたいで……
頬を染めながら素直に足を開くと、媚薬に酔ったような陶酔感で脳まで痺れた。
こんな自分は知らない。
伊織が欲しがっているーー。その欲望の断片を見せられただけで心がキュウンと絞られる。
彼に求められるよろこびはとてつもなく大きくて、触れられてもいないのに、身体の奥から愛蜜がしたたりはじめた。葵も伊織が欲しくて、たまらない……
だから。
淫らに誘うポーズだと分かっていても、太ももを広げたまま後ろ手に両手をつきそっとまつ毛を伏せた。

「おかしくなりそうだ、葵……。こんな姿を、僕以外の男に見せてはいけないよ」

身を震わせつつすべてを捧げる姿を、見守る瞳が獣じみた光を宿す。

「僕のために、甘い蜜を溢れさせてるね……」

花弁をひと舐めされたされただけで、びくと肌が震えーーつま先まで痺れる。身体中から力が抜けた。

「あぁっ、……ふぅ……ん……」

ゆっくり後ろへと倒れ込んだ葵の目蓋まぶたに、ダウンライトが放つ光がふりかかる。
生温かい彼の舌が嘘みたいに、気持ちいいーー……
ピアノの堅い表面が背中に当たって、眩しくて目も開けない。なのにやるせない吐息が唇から漏れて、目もくらむ快感にむせび泣く。

「ぁぁ……っ……っ……んぅ……」
「ーー今夜からはもう、帰さない」

膨らんだ花芽を柔らかくかじられて、葵は全身で身悶みもだえた。

「あっっ、ん~~……っ!」

……伊織の低い呟きは、夢うつつな頭に入ってこない。
明かりのついていない居間に続く空間で、ピアノだけがライトアップされ半裸の葵へ顔を埋める伊織の姿が映し出される。葵がもだえ漏らす艶やかなあえぎと、伊織が舌をうごめかせる淫靡なクチュという水音、溢れる蜜をすする露骨な響きがチュウ、ジュッとしばらく続いた。
やがてピアノの上に横たわった肢体がびくびくっと盛大に跳ね、葵の唇からうわずった淫らな声がオクターブ高くこぼれる。
極まって投げ出すように弛緩した足の間から、伊織はゆっくり顔を上げた。

「今すぐ、繋がりたい」

そう言われても、葵の身体からは官能の波が引ききらず動けない。
声も出せずぼうとしたままの葵を、伊織は横抱きでソファーへと運んだ。
膝に手がかかり待ち切れないとばかり、すぐさま灼熱の塊が身体の中に入ってくる。

「はあぁぁ……ん、ん~~~~」

再び極まって漏れた甘いすすり泣きと共に、葵の上半身が大きく波打った。
甘美な攻めを悦んで受け止め、等しい情熱で応える。
普段の葵ならソファーが汚れるとか、大きな声を上げたらとか、気になることだらけのはずなのに。そんな事は一切頭に浮かばなかった。
深く甘く彼を受け入れたまま、あられもない声を上げ続け、切なそうに啼き続け……暗いリビングで伊織の熱い欲望が一度解放されるまで、互いにもつれるように身体を絡め愛を交わした。
やがて満足そうな息を吐いた伊織はソファ一でぐったり目を瞑ったままの葵の頬にキスをして、一旦シャワーを浴びに消えたが。……しばらくして戻ってくると、葵の身体をゆっくり抱き上げ、今度は二階のベッドへ運び込みまだ足りないとばかり挑んでくる。
葵も明日も仕事だということを忘れ、情熱的に応えた。しかもその記憶がはっきりしていたのはその途中までだった。
ぼんやりとだが、何度も身体が浮く深い快感を味わったのは覚えている。けど、決して激しい愛し方ではないのに、たちまちめくるめく悦楽の波に呑まれてーー。
……恍惚感に浸ったまま極め震えては急落下を繰り返す怖いほどの気持ち良さに、そのうち意識が朦朧となりはじめ、ついにゆらゆら揺らされるまま意識を手放してしまった。

翌朝、目を開くと伊織の瞳がじっとこちらを見つめていた。

「おはよう、葵」

ドキッと大きく心臓が跳ね上がる。
その愛おしそうな呼び掛けにも、真摯な瞳にも、葵の心を震わせる何かがあった。

「っおはようございます……」

なぜだか泣きそうになったが、慌ててごまかすように口もとを拭う。そしてよかった~、と胸を撫で下ろした。よだれを垂らす失態はまだ晒していない。けれどもーー。

「また……人の寝顔を、観察していましたね……」
「いいじゃないか、恋人の特権だよ」

堂々と言われて、一気に頬が熱くなった。……が。余裕たっぷりの顔を見ているとなんだか悔しい。

「ぜったい、いつか、伊織さんの寝顔を待ち受けにでも……」

言いかけたら、フッと優しく笑われた。

「僕はいいけど。会社の人に見られても、いいの?」
「っ……誰も私の恋人だとは思いませんよ。わざわざ生画像を買ってまで、どこぞの俳優に入れ込んでる痛い女だと……思われるだけ、です……」

言い返しながらも語尾のボリュームは下がっていき、待ち受けは却下だと思った。
伊織の顔が近づく。葵の目尻にソフトなキスを落とすと「お先に」と笑いながらシャワーへと向かった。
背筋を伸ばした半裸の背中を目で追うと、その滑らかな肌には小さな引っかき傷がいくつも残されている。

(嘘!……っ、私ったら)

誰の仕業かを察した葵は、真っ赤になって慌てて口を押さえた。
信じられない現実に、身悶えたのは身体だけでない。心の中でも転げ回る。
こんな……情欲に溺れ本能剥き出しのまま、なりふりかまわず没頭したなんてーー……っ!
けど、ーーいつの世も現実とはとことん厳しいものだ。
今日がまだ平日であることを忘れそうになっていた頭が、スマホのアラームで我に返った。
そうだ。ベッドに突っ伏している場合ではない。

伊織の家はさいわい駅から近いが、朝はどうしてもせわしくなる。手に握り締めたシーツは洗濯行きと決め、葵は伊織に断ってから濃紺と白の洗濯物を両手に抱え階下へと下りていった。
二人分のトーストを用意しながら、帰ったら洗濯しなくては……とひっそり眉を寄せる。
顔をあげれば、久しぶりに見る朝日が眩しい。陽のあたるテラスが目に入ると、週末はあそこで朝食もいいかも……と自然に頭に浮かんでくる。
だが、ハッと一瞬その手が止まった。

(っ……! ダメだ。これはもう重症かも……)

会社が終わったら普通に、自分は伊織の家につもりだった。なんて大胆な事を……と思う一方で、そうできればと願う気持ちを否定できなかった。
のぼせた頭はシャワーの音が止まり彼が下りてくる頃にはすっかり落ち着いていて、出来上がった朝食を先に食べ出していた。

「ありがとう。今日の夕食は、和食でいいかい?」

だが、テーブルに座った伊織の一言に嬉しさを隠せない。伊織も葵と会うのは当たり前だと思っている。
二人の関係が一方的な独り相撲でないことに、葵は大いに安心した。

「和食……さては、朝比奈さんに頼む気ですね?」
「オーナーの特権だからね」

ありがたいけど、葵の分までもなんていいのだろうか。

「はいこれ。なくさないように」

そんなことを考えていた葵の前に、見覚えのあるキーホルダーーー玄関の鍵が差し出された。伊織は「ほら手を出して」と催促してくる。

「葵のために、わざわざピアノを運び込んだ僕の努力を、無駄にしないで欲しいな」

笑顔の伊織にさらっと強制じみたことを告げられたのに、強引に受け取らされたとは思わない。一歩前に踏み出すことを躊躇う背中を、そっと優しく押された感で胸がいっぱいになる。

「っ……ありがとうございます。とっても嬉しいです」
「ーーじゃあ、僕のは?」

笑ったまま目を眇めた彼に、つい慌てて約束した。

「あの、予備の鍵は家に置いてきてしまって……帰った時に取ってきます」

スマなさそうに謝ってから、あれ?と思った。いつの間に鍵の交換をすることが決まったのだろう……?

「今夜は、早く帰れるから」

だが、疑問を声にする隙を与えず、伊織は言葉を重ねてくる。そしてその言葉に、葵はそういえばと言い足した。

「私は遅くなるかも知れません。取引先との打ち合わせを兼ねた接待が入ってまして」
「……それって、また中西って人と一緒?」

接待だと告げたのにご機嫌斜めな顔を隠しもしない彼を見ると、口元がどうしてもゆるむ。

「そうですがーー、仕事ですよ? 昨夜は言いそびれましたが、この契約には昇進がかかってるんです」

課長の言葉を簡潔に説明すると、伊織も驚いたようだがすぐに破顔一笑した。

「すごいじゃないか。そうだ、もし契約が取れたら、僕からもお祝いをするよ」
「ありがとうございます。……その、がんばります」

さあ、今日も忙しい一日が始まる。
葵は張り切って残りのトーストにかじり付いた。






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