不実な紳士の甘美な愛し方

藤谷藍

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愛しい恋人 3

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日差しが強い夏の終わりのある日。月末レポートをまとめていた葵の机上で電話が鳴った。
受話器を取ると、『ーー木村美沙様からのお電話です』との受付案内が聞こえてくる。
突然の連絡には驚いた。が、会って話したいと言われた葵は胸が弾んだ。
……猛暑のこの時期。会社では、数字と必死に向き合う緊張感があちこちに漂っていて、ピリピリした空気からつかのま逃げ出せる嬉しいお誘いである。

「葵さん。お久しぶり! 元気にしてた?」
「お久しぶりです、美沙さん!」
「ごめんなさいね、仕事中なのに急に呼び出して」
「いえいえ、ランチはどっちみち外ですから」

久しぶりに会う美沙は、相変わらず美人で……涼やかにここは奢るというその言葉は嬉しかったが、葵はワリカンでいいと笑った。
美沙と会うのは社交倶楽部以来だが、初めから打ち解けた態度の彼女とは話していて気持ちがいい。
だからできるなら、貸し借りのない気軽な友達になりたかった。
ランチを食べながらおしゃべりをしていると、先に食べ終えた美沙が頃合いを見計らって話を切り出してきた。

「葵さん、あのね。鳳条さんのことだけど」

トクン、と葵の心臓が小さく跳ねる。
葵は唯美主義者ではない。けど、美しいものや綺麗なものには、やはり人並みに心を動かされる。
周囲からの視線を一身に集めている美沙の口から、思っても見なかった伊織の名前が出た途端、美男美女の二人が並んだ姿が葵の頭に浮かぶ。
伊織は見た目には動じないらしいが、もしや……目の前の美人と過去に何かあった?

「あ、はい、何でしょう?」

だが揺れる心を完璧に抑え込み不思議そうな顔をした葵を、美沙は真っ直ぐに見つめてきた。

「私と鳳条さんって、実は遠縁に当たるの。知ってた?」

さすがに目を見張った葵を見て、美沙は屈託なく笑った。
……そんな縁故関係があるなんて、ぜんぜん知らなかった。初めて聞く話に葵は興味津々だ。
だが、言われてみればーーなるほど。伊織とどことなく感じが似ている。美沙を紹介された時に感じた既視感は、彼女が持つ雰囲気でもあったのだ。

「そっかーー、そうじゃないかと思ったけど。鳳条さん、お家のことは何も話してないのね……」

お家って何のことだろう……? もちろん葵は、以前に伊織の実家からかかってきた電話への、彼のどことなく素っ気ない対応を忘れてはいない。

「はい、ですがーーいずれ話してくれると思います」

キッパリ言い切る葵に、美沙はちょっと安心したようだった。

「そうよね。あの鳳条さんが、葵さんを仕事関係の人に紹介しているものね。なら……いいかな」

心のガードを一段階引き上げた葵は、どうぞと目で話の続きを促した。

「えっと、私は鳳条さんの父方の親戚なの」

そして続けられた言葉に、拍子抜けすると同時に聞き入った。

「簡潔にいうと……大海家は旧家でね。私の実家は分家筋だから大したことないけど、本家は格が違うの」

微妙に言い淀む表情は、シンプルに説明する言葉を探っている。

「鳳条さんのお母様が今のご当主と結婚なさって、彼が生まれてーーつまりね、彼は本家の第一子なのよ。お二人はその後離婚なさったから姓は違うけど……。今の本家には、ご当主と後妻に入った方との間に二人のお子様がいらっしゃる。だからちょっと複雑なの」
「それはまた、大変そうな家ですね……」

相槌を打つ葵は驚き、けどやっぱりと納得しながら心の中で頷いた。伊織の態度から、何かあると思っていたが……

「それでね、本家の本宅は愛知にあるんだけど。近いうちに葵さんへ接触してくるかもーーいえ、きっとしてくる。それを言っておきたくて」
「私にですか?」

首を傾げた葵に、美沙は強く頷く。

「ーーそうですか……。ご忠告、ありがとうございます」
「私は葵さんの味方だから。ーーと言っても、何もできないけど」
「とんでもないです。こうして会いに来てくださっただけでも、嬉しいですよ」

葵の言葉に美沙は微笑んだ。

「実はね、私にはもう連絡してきたのよ。本家の弁護士が」

美沙の言葉に、葵は本能的に聞き耳を立てた。

「葵さんの情報が欲しい、それも本家の依頼で鳳条さんに知られないように本人と会いたいと言ってね。私はもちろん知らないと言ったけど。きっとそのうち、葵さんにたどり着いて、直接会いに来ると思うの。だからね、鳳条さんにも言っておくわ、この事」
「ーー美沙さん……お気遣いは本当に嬉しいです。ですが、もしその方が私に会いに来られるのでしたらーーこちらで対処します。大丈夫です」

不安じゃない、と言えば嘘になる。
けど、伊織は家族のことには触れないし、葵としては状況的に追い込まれた形で話して欲しくない。じつの父を’父親’とだけ呼ぶ素っ気なさ……複雑さが全開だった以前の態度を心に留めていた葵は、伊織の気持ちを推し測ってとっさに美沙に向かって平気だと頷いた。

「伊織さんのお母様と離縁なさっているのなら、どうして私なんかに用があるのかが、気になりますしね」
「えっとね……鳳条さんのお母様はとっくの昔に亡くなっているのよ。確か彼がまだ小学生ぐらいの時に。だから彼はずっと寮暮らしだったって、聞いているわ」

(ええ? あ……なるほどーー。伊織さんが家での食事に拘らないのや、家事代行なんかにも慣れてるのって……もしかして、育った環境のせい?)

大海家は大家たいけでもあるいう美沙の話に彼のライフスタイルを合わせると、しごく納得した。

「教えてくださったことで、いろいろ合点がいきました」
「私の言ったことが、お二人の仲に水を刺すようなことにならなければいいのだけれど……」
「心配なさらずとも大丈夫です。伊織さんの過去の女性関係に比べれば、彼のバックグラウンドなど霞んでしまいますよ」

彼女のもつ雰囲気が伊織に似ているからか。つい、微妙な本音が出る。

「ーーそのことも、ご存知なのね。よかった……あのね、今回の件も発端はどうやら、鳳条さんがほらーー池杉産業のお嬢さん、あの方のストーカー行為を止めさせるために大海家の弁護士を使ったから……」

(あ~、お嬢さん……かあ……)

人の話を聞かない困った女性については、伊織が何も言わないからてっきり諦めたのだと思っていた。が、どうやら違ったらしい。伊織が手をまわして諦めさせた……が正解みたいだ。
「……だからね、本家が葵さんの存在に気づいたらしいわ」との言葉で、もっといろいろと聞きたくなったが、そろそろ会社に戻らなければ。時間切れだとあきらめた葵は美沙に厚く礼を述べ、そこで別れた。
会社のビルを目指し歩きながら、頭の整理をしてみる。
ーー池杉嬢の問題は知らないうちに片付いたらしい……が、美沙の話では近い将来さらに大御所のご登場となりそうだ。伊織の父方の家事情は込み入って複雑なようだが、彼の態度もアレだったし、何より相手が何を思って葵と会いたがるのかが気になる。

(伊織さんの独身主義って、このあたりも関係してるのかな……)

考えすぎは良くない。
不安や戸惑いが後から後から湧いてくる沈みがちな心を胸中で叱咤していると、こんな話を聞かされても伊織への想いがブレないことに気づく。
伊織が好きだ。二人一緒にいられるなら、まったく想像もしていなかった伊織の家の弁護士との対峙にも怯んでなんかいられない。

(ううっ、私の胃、持つのかな……)

鉛を飲み込んだような重い胃を抱えながらも、この件に関しては、今悩むよりまず相手の出方を見てから……と葵は決めた。

何事もなかったようにお昼から戻り、仕事を再開する。
そろそろ、例の案件も契約の結論が出る頃だと、今後の見通しを頭に置いてスケジュールを再確認していると、隣の中西の電話が勢いよく鳴った。集中力をかき集めてキーボードを打っていた葵のところにまで、明快な声がはっきりと聞こえてくる。

『ーーはい、もちろんです。それでは私と植松とで、揃って4時にお伺いいたします。いえ、こちらこそ、わざわざお知らせいただき誠にありがとうございました。はい、それでは後ほど』

電話を切った中西の目が輝いている。

「植松さん、やった! 取ったぞお~!」

聞こえた会話で、それとなくそうじゃないかと思っていたが!

「ついにやりましたねっ、取れたんですね! よかったーー」

二人の興奮した声に、課全体がざわめいた。

「課長! やりましたっ、最善食品取れましたっ!」

中西の勇んだ報告に、近くのデスクで様子を伺っていた課長もニコニコだ。

「ご苦労様です、中西さん、植松さん! 素晴らしい結果ですね。ではーー今日は私の奢りで、皆で飲みにいきましょうか」

大手企業との大型取引など会社としては久しぶりで、しかも長期契約だと皆浮かれ気味だ。
太っ腹な課長の宣言に歓声が上がり、周りはたちまちお祝いムードとなった。中西と葵に向かって、同僚が次々と言葉をかけてくる。

「やったな~! こんなデカい案件、よく取ったなあ。さすがだよ」
「二人ともっ、おっ疲れ~、今夜は飲もう!」

葵の属する営業二課だけでなく、他部からも人がやって来てお祝いを述べられた。特に実際の取引を引き継ぐ販売部は、一緒に飲みにいくと異様に盛り上がっている。そんな中で葵は、素早く伊織にメッセージを送った。

『伊織さん、契約成立しました! 今夜はお祝いで遅くなります』

仕事中かもしれないけど、伊織にだけはいち早く報告したかった。するとーー

『おめでとう! 楽しんでおいで。じゃあ今夜は、僕も飲みに出かけようかな』

あまりにも早い返信即レスに、嬉しさを隠しきれずひとりでに笑いが漏れる。

(そっかあ、なら今夜は……ともかく飲んではしゃごう)

伊織のこととか、辞令のこととか、考えなくちゃならないことは山ほどある。けど。……今夜一晩は、同僚と祝杯を上げることに集中する。
ハイタッチを中西と交わした葵は、職場の盛り上がった雰囲気を楽しむことに決め、いそいそと外出先を共有スケジュールに書き込んだ。

その夜。飲み屋街では陽気な一団が、人ごみでごった返す通りで大声を上げていた。

「課長~~、もう一軒! 行きましょうよ~~」
「そうですねーーですがもう遅いですし。……後は君たちだけで、楽しんで下さい。僕は家で妻が待っているので帰ります。軍資金はこれで足りますかね?」

若い連中には付き合いきれんといった感じの課長の言葉には、淀みがない。

「うっわぁ、課長っ、ありがとうございます! よっ、日本一!」
「一生ついていきますぅぅっ……」

酔っ払いの集団に課長は、にこやかに手を振った。タクシーを止めて感謝の挨拶をした葵に、「ああ、そうだ」と多少酔った上司が声をかけてきた。

「植松さん、ご苦労様でしたね。それと……パスポートの更新切れを、忘れずに確認しておいて下さい」

(……え?)

だが、葵が問いを発する前に、酔った課長を乗せたタクシーの扉は閉まってしまった。
上司がタクシーで去ると、次はどこへと道の真ん中で井戸端会議が始まる。

「お、なんだよぉ。石田ぁ、まさかもう帰るのかぁ?」
「あの、ちょっと。会社に忘れ物をしまして……」

そそくさと立ち去る男に「なんだぁ? 付き合い悪いなーー」と酒臭い息の声が上がる。

「あ~、あいつさぁ、今日クレームがまた来たみたいでさ。見積もりが一桁違ったとかなんとか」
「何~? そんな初歩的なミス、まだしてんのかよお……」

呆れた同僚たちは過ぎ去った男のことなどすぐに忘れてしまい、ヤイヤイと居酒屋の検索を始めた。葵はだが、酔った課長が勢いで漏らした言葉が頭の中で回っていて、ぼーと突っ立ったままの状態だ。

「植松さん、大丈夫なのか? 挨拶して回った時、かなり付き合って飲んだよな」

中西が心配そうにこっちを見ている。

「あ~、まだなんとか……」

胃の強さに自信はあるが、さっきから足元がおぼつかなくなってきている。そして言った先からよろりとよろめいたところを、中西の腕に受け止められた。

「おっとぉ。あーこれはもう、タクシーだな。俺が送っていくよ」

葵の腕を軽く支えている中西に、同僚たちがはやし立てはじめた。

「何だぁ、主役二人で抜け駆けかぁ?」
「ひゅうひゅう、送り狼になるなよ~~」
「中西ぃ、さっそくお持ち帰り~~?」

酒の入った同僚のからかいに、中西が言い返そうとした時だった。

「彼女は、僕が引き取ろう」

低い声と足音が近づいてきた。
振り返った葵の目が頼もしい姿を認めた途端、そちらに向かって引き寄せられるように手を伸ばす。

「伊織さん……」

おぼつかないその手を引いて、伊織はしっかりその腰を抱き寄せた。葵も張っていた気が一気に緩み、安心してその広い胸に寄り掛かった。伊織の香りが鼻腔をくすぐると、疲れた~とばかり半ば目を伏せる。

「あのぅ……」

突然登場して葵をさらった人物を、皆が目を皿のように大きくして見ている。中西や同僚たちの戸惑った顔に、伊織は葵の腰を抱いたままにこやかに笑いかけた。

「失礼したね。僕は彼女の連れだ」

朗々と響く声が後ろから追いかける賑やかな集団の大声と重なった。

「鳳条さんっ、歩くの早すぎですよ~~。いったいどこに行くんですーー?」
「あっれぇーー? 植松さんだ……?」
「ーーえ! もしかしてこの女性が、例の恋人ですかっ?」

ぼんやりした葵の目に木村と幾人かの男性が映った。そこへまた、別の興奮した若い男性が割り入ってくる。

「ーー鳳条さん? 鳳条さんじゃないですかっ、お久しぶりです!」

聞き覚えのありすぎる家族の声に、葵がぴくと反応した。なんでこんところにーーと思わず真っ直ぐ立とうと腕に力を込める。

「ーーと……あ、あれ? 姉さんーー? 何してるの、こんなところで……」
「良樹……? あなたこそ、どうしてこんなところに……」
「今日は金曜だよ。飲みに出るの当たり前だろ。……そんなことより、姉さんてば相当酔ってるね」

良樹は二組に分かれたグループを見渡し、とりあえずはと丁寧に頭を下げた。

「姉がいつもお世話になっております。弟の植松良樹と申します。あの、姉はかなり酔っているようなので、ここで失礼させていただきますね」

……なんてよく出来た弟だと、葵の酔った目頭が熱くなる。
そしてポカンと注視する集団を気にせず、真面目な良樹は伊織に向かって申し訳なさそうにもう一度頭を下げてきた。

「すいません、鳳条さん。姉をよろしく頼みます」
「ああ、もちろんだよ。任せておいで」
「ありがとうございます。ああそうだ、今度はぜひお食事でもご一緒に。父も母もまたお会いしたいと言っていましたし」
「それは嬉しいな。そうだね……近々ご挨拶に伺うよ」

良樹とのやり取りにざわめく一同を後にして、伊織はさっさとタクシーを止めた。

「それじゃあ、僕たちはここで……」
「伊織さん、ちょっと待って。挨拶をしないと」

多少おぼつかない声だが、それでも失態は見せられないと葵は一同に向き直る。

「今日はこれで失礼します……また来週会社で。良樹……、ありがとうね」

葵の挨拶が終わるとその腰を抱きニッコリ笑う伊織の眩しい笑顔に、二手のグループ両方から悲鳴があがった。タクシーで二人が去った後、その場はなおいっそうの喧騒に包まれる。

「うっそーー! 植松さんって、彼氏いたのおっ。って言うか結婚ゴール寸前⁉︎」

同僚の女性は、大袈裟な手振り身振りで動揺を隠しもしない。

「うわーー、鳳条さんのあんな顔、初めて見た! 木村さん、僕おかしんでしょうか、さっきからドキドキが止まりません」

伊織の同僚は、なぜかだポーと見惚れている。

「おいおい。帰ってこいよ……こっち側に……」

木村は慣れているのか、あくまで冷静な態度だ。
そんな混沌カオス一同の中で、呆気にとられたままの中西の肩を同僚がポンと叩いた。

「残念だったな、中西。あんないい男相手じゃ、勝ち目はないぜ」
「そうだよなぁ、一瞬どこの芸能人?と思ったよ。すっげえイケメンじゃん。俺、ドキッとしちゃった」
「私なんか思わず、写真取っちゃったわ。すっごい写りいいの、見て見てっ」

スマホを手にした女性を囲んで「お前、いやまずいだろそれ」と騒ぐ葵の同僚たちにも動じず、自分の役目は果たしたとばかり手を振って見送る良樹にも別口から声がかかった。

「へえ、君、植松さんの弟さんなんだ。あ、僕は鳳条の同僚で、木村って言うんだけど」
「え、えぇ! もしかして……グローバルワークス・キャピタルの方ですかっ?」

木村に声をかけられた良樹は嬉々とした様子だ。

「僕たちの会社を知ってるのかい? 面白いね、君。そうだ。よかったらこの後一緒しない?」
「っ喜んで。ぜひ、ご一緒させてください」

嬉しそうに頷いた良樹は、伊織の同僚グループに混じっていざとばかり夜の街に消えていった。




タクシーの中で伊織に寄り掛かり目を閉じた葵が、次に目を開けたときにはベッドに寝かされていた。
ゆっくり身体を起こしたものの、ぼうっとしたまま呟く。

「あれ? 私ってばどうやって……」
「ーー覚えていないのかい……?」

いつから側にいたのだろう。上から覗き込んでくる黒い瞳が、ちょっと怒っている。

「葵。君はここまで深く飲んでは、いけないな」
「……反省してます」

どうやってここまで帰ってきたのか……? 
カケラさえもまったく思い出せない葵は、起き上がったまましゅんと頭を垂れた。記憶がなくなるほど飲んだ覚えはない……けどやはり、勧められるままビールとお酒と焼酎をちゃんぽんで飲んだのがいけなかったのだろう。
見ればさっぱりした身体に、きちんとパジャマまでも着ている。ーーと言うことは、伊織に身体を拭いてもらった挙げ句、着替えまでさせてしまったのか……

「いいかい、葵。ーーこれから飲みにいく時は、必ず僕に店の名前を教えること」

反省モード全開の葵は、伊織にここは譲れないとばかり強く要求されて素直に頷いた。

「はい……ご迷惑をおかけしました…………」
「誰と一緒かも、知らせるんだよ」
「はい、もちろんです」
「特にあの中西とか言う男。あの男とのサシ飲みは、ぜったい禁止だ」
「はい。ーーえ? あの、でも」

勢いで返事をしてしまってから、ちょっと待ったと思った。中西は大事な同僚だ。
だが伊織はそんな葵の「でも」を素早くさえぎった。

「仕事絡みでの食事はいいよ。だけど二人で飲むのはダメ。僕も女性と二人きりでは飲まない」
「うっ、はい。わかりました……」

至極もっともである。
それに決して軽くはない自分の身体を、伊織は背負ってここまで運んでくれたのだろう。そう思い当たった葵は、ひたすら低姿勢だった。

「葵……僕にはね、家族と呼べる人がいないんだ……」

けど、突然降ってきた独り言のような低い声に驚いて、下げていた顔をパッとあげた。

「母はとっくの昔に亡くなっているし、父親は母と離婚して別の家族を持った」

伊織が初めて、家族の話をしてくれたーー……
その事実は、愛の言葉を囁かれるよりよっぽど大切なことのように思えて。ーーじっと耳を澄ます葵の胸は、感動で震えた。

「だからね、僕にとって君はーーとても大切な人だよ。それを分かって欲しい」

シンプルではあるけれど、葵への思い入れを隠そうともしない言葉にじ~んと胸の奥深くが打たれる。
その告白がもたらした思いがけない幸福に浸りながら、葵は瞳を潤ませ正直な気持ちを伊織に伝えた。

「は、はい。……私も伊織さんがとてもーーとっても、大切なんです」

葵の心からの言葉を聞いた伊織の機嫌が、みるみるよくなり、悪戯っぽく目を輝かせる。

「そうだ。僕からもお祝いを用意したんだ。受け取ってくれるかい?」

感動に浸っていたところなのに……それにこの伊織の様子、まさかまた、呆れるほどお高いモノなんてことは……?

「ありがとうございます。ーーえっと、あんまり高価なものは……」

葵は言いかけた言葉を急いで飲み込んだ。そんな見捨てられた子犬のような瞳をしないで欲しい。
今ここで断るのはとってもマズイ。そんな気がする。

「ーーもちろん。喜んでいただきます……」
「ちゃんとつけて見せて。僕がもういいって言うまで、外したらダメだ」
「……はい」

(ううっ。またとんでもなく、ハイブランドものとか?)

今回は、一体いくらするドレスなのだろう……

「約束だよ」

と念を押してくる顔に、葵は頷いた。
だが、サイドテーブルから取り出された特徴あるブルーの箱に、心臓がボンと飛び跳ねる。

……予想していたドレスではないが、一点モノで有名な宝飾ブランドのラッピングってーー……

(指輪じゃないーーけどこの大きさ。もしかしてネックレス……?)

いや、ブレスレットかもーー?とラッピングを解く。

「気に入るといいんだけど……」
「伊織さんのくれるものなら、何でも嬉しいです」

どんなにキンキラキンなものだって付けてみせます……とばかり、パカっと大きめの宝石箱を開けた途端、箱ごと取り落としそうになった。とっさに箱を持つ指に力が入る。

「っ……」
「ペア・リングだよ。気に入った?」

受けた衝撃の大きさは相当だった。たっぷり10秒は声も出せずキラキラ光るリングを凝視する。
もちろんこれは、指輪ではない。けどーー……
震える手を伸ばし上品に二つ並んだリングの小さな方を、指先でそっと撫でた。

「葵とお揃いが欲しくなったんだ。葵が気に入らないなら、取り替えもできるよ」

そんなセリフをサラッと言われては、動揺するわけにはいかなかった。
このペアリングが傍目には、どんなに指輪ーー一生を誓い合った夫婦の証に酷似していようとも……

「ーー綺麗……」

素直な感想を言ったら、胸が甘酸っぱい想いで痛くなる。
リングはシンプルだけど優雅で洗練されたデザインだ。たくさんの小粒ダイヤが金のワイドバンドに嵌め込められて、ぐるっと取り囲んでいる。ーーこれはきっと指に嵌めたら、目立つことこの上ない。
大粒の涙が自然とポロリ溢れ落ちる。

「私ったら……すいませんーーちょっと、感動しちゃって…………」
「……つけてあげるよ。手を出して」

慌てて拭った手の甲を長い指に柔く掴まれた。
そうだ、泣いている場合ではない。この指輪は果たして、どの指に嵌るのか……

「ーー何で左手の薬指なんです?」

しばし考えて葵の手を持ち替えた伊織に、疑問を投げかける。
もしやとは思ったがーー。

「薬指以外のどこにつけるんだい?」

当たり前のように返答されて言葉につまった。

「さ、サイズは? どうしてピッタリ……」

しばらく無言だった葵の小さな呟きには、伊織はただゆったりと笑うだけ。
その含みある笑顔に見惚れていると、笑った唇が要求してきた。

「さあ、葵の番だよ。僕にも嵌めて」
「っ……」

(やっぱりこれもーー薬指、だよね……?)

震えそうになる手に力を入れて、大きなリングを取る。高鳴る鼓動はうるさいほどで。
ーー予想通りその左手の長い指にすんなりハマったリングに、葵の胸がツクンと甘く疼いた。
またまた目頭が熱くなってきて瞳が潤み、どうしようもなく涙が溢れた。まだ酔っているのか頭が一杯で、涙も止まらない。そんな葵の胸中を知ってか知らずか、伊織は泣いている顔を引き寄せると額同士をコツンと合わせた。

「葵が嫌なら、外してもいいよ。でも僕は嵌めていて欲しい。これからーー10秒数えるから……葵が決めて」

先ほどの強気な発言とは裏腹に、伊織の長い睫毛が徐々に伏せられる。
瞳を閉じたその顔を見つめる葵の胸には、狂わしいほどの愛おしさがどっと溢れてーー……
駆られるまま、そっとその目蓋まぶたにキスをした。
伊織の腕がすぐさま背中に回ってくる。二人の唇がゆっくりと重なり、互いの想いを誓うキスを交わしはじめた。

「……ん……」

優しく繰り返されるキスに、葵の意識がまたまたぼーとしてくる。
だが、甘いキスを交わしながらも、伊織は律儀に10秒ルールを守っていたらしい。

「……10秒経った。チャンスをあげたのに……逃げなかった葵は、もう僕のものだ」

かすれた低い声が宣言してくる。
”僕のもの”と言い切ったその声の調子には、強い意志が込められている。そんな気がして葵の身体がフルリと震えた。
ーー葵だって、このリングを外さなかったら、周りからどう誤解されるかを考えなかったわけではない。
だけど。どうしても。自分から外す気にはなれなかった。
目尻に涙が溜まった葵の目元は桜色どころか真っ赤に染まって、濡れた睫毛を震わせる。ぼんやりとした頭で分かったとかすかに頷き、おずおずと伊織を見上げた。

「葵……僕と離れて暮らすのは不便だ。……そう思わないか?」

え……?
今ーー伊織は、自分に何を言ったのだろう。
問うように開きかけた唇は素早く塞がれ、目的を持った手にパジャマのボタンを一つ一つ外されてゆく。

「ふ……んん……」

伊織の言葉の意味を深く考える暇もなく、全裸にされた葵はゆっくりとベッドに押し倒されていた。
指と指とを絡ませた手は強くベッドに押し付けられている。
こんな風に挑発されたら、もう伊織にされるままだ。酔いが冷めきらない頭は、トロンとした目でその要求を受け入れる。
葵の白い肌をなぞる指が、柔らかな膨らみを慈しむように揉みはじめた。伊織の熱い息が素肌にかかり、ちゅうと肌を吸い上げている。
たちまちジーンとなりはじめた胸の芯を、長い指できゅうと摘まれるとたまらなくいい。

「ふぅ……んっ……」

ちゅっと蕾を軽く吸い上げられて、胸をわずかにそらした葵が続きをねだる。身体は甘い刺激をよろこんでいる。
けれども伊織は、悩ましい胸から頭を上げると葵からわずかに身体を離した。
戸惑いさまよう葵の手を、伊織の大きな手が捕える。そして握り込んだ葵の手と共に、じんじんと疼く胸の膨らみに触れてきた。
手のひらに感じる、自分の温かい肌の感触。伊織の手に導かれるまま両手で柔らかい弾力を揉み始めると、触れているのは自分の手なのにすごく感じてしまう。
こんな淫らなことーー。頭のどこかでそう思うのに伊織の手が止まらないから葵も止められない。

「上手だ……。さあ、足も開いて」

興奮気味の熱い息が囁いて、ピンク色に上気した頬を軽くかじられた。
普段の葵なら、こんなの恥ずかしいと理性が上回っただろう。けど、伊織に求められると葵は普段の葵ではなくなる。
ましてや、今の葵は程よく酔いが身体に回っていた。
低い声にそそのかされるまま、艶麗えんれいさがにじむ潤んだ瞳を半ば伏せつつ誘うように太腿の内肌を晒していく。
自分の胸を揉みながら上気した顔でおずおずと足を開くその姿は、普段の生真面目さなどまるで感じさせないとても扇情的なもの。白い肌はピンク掛かってしっとりとぬめり、悩ましそうに眉を寄せた葵の唇から喘ぎ混じりの吐息がこぼれる。
伊織は火がついた欲望を隠しもせず、素早く衣類を脱ぎ捨てた。
濡れた黒曜石の瞳が情欲で光り、その手が足の間に滑り込むと密口にクチュと音を立てて指が侵入しきた。

「んあ……あぁ……」
「綺麗だな……葵、僕に触れて」

淫らな誘いにも葵は素直に従い、片手を自分の胸からたぎる伊織へと移動させた。密口を長い指でいじられながら空いた胸を揉みしだかれ、蕾まで吸い上げられる。

「あぁん……だめ……そんなにーーした……ら……」

ぽうと快感を追っていた葵の意識が、身体中を愛される愛撫にたちまち飽和状態になった。
両胸を揉まれジンジン痺れる蕾を吸い上げられて、生みだされる快楽の波が絶え間なく葵を襲ってくる。手で握り込んだ灼熱の塊はヌルヌルぬめってるし、溢れる愛蜜に浸された指にクチュクチュと中を掻き回され花芽までまさぐられてはたまったものではない。恍惚感など軽く通り越し、まるで何人もの伊織に身体中を弄られているーーそんな背徳感に囚われた葵は、快楽と倒錯の世界に溶けていった。

「や……イイ……の……クるぅ……きちゃう……」
「可愛いな……イッって見せて、葵……」
「やぁ……こわ……いぃ……ぁぁあ……ダメェ……」

次々と押し寄せる悦楽の波に急速に呑まれて、怒濤のごとく頂点へと押し流されると逃げ出したくなる。

「怖がらなくていい。僕がいる」

柔らかな密口に侵入した指がグッと葵の感じる浅い箇所を押した。同時に伊織の嵌めたリングが、ひくつく花芽をグリッと擦り上げる。

「ぁっーー……!」

走り抜けた甘美な稲妻に、葵の足の指すべてが同時に反った。刺すように鋭く甘く痺れる刺激に身体中の神経がぎゅうぅと凝縮する。息を呑んだ胸は痛いほど切なく高鳴って、ビクビクと伸縮を繰り返す密口から熱い愛蜜が勢いよく飛び散りあふれ出した。

「いいかい? 葵……」

いいも悪いも葵は返事をするどころではない。
思考力などとっくに吹き飛んだ身体は痙攣するばかりで視線が合わず、満足に息もできない状態だ。
頭のどこかでグチュと伊織が挿入はいってくる音を捉えてはいたが、二人が溶け合う快感が広がるにつれーー伊織に埋め尽くされることに満足の吐息を溢らす。
身体も視界もゆらゆらと揺れている。

「約束だーー葵。僕は……君から離れない。決して離しはしないーー」

快感の深淵に囚われた忘我状態の葵は、伊織に貫かれ身動きが取れないまま貪るような深いキスを受け入れはじめた。

「だから君も、僕を離さない、で……」

その夜の葵は、恍惚として快感に溺れる夢を見たのだった。

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