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生きていることは素晴らしい
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三毛猫のナージャが、窓際に設置したキャットタワーからぽすんと飛び降りると、ソファーに座る俺の腿に乗ってきた。「なーお」と甘えた声を出すナージャの頭を撫でてやる。すると柔らかな春の光に包まれたかのように、俺は自分の心がじんわりとした温かくなるのを感じた。
俺を踏みとどまらせてくれたのは三毛猫のナージャだ。
悪夢と現実の区別がつかなくなりかけていたある日、野良の成猫がふらっと俺の部屋にやってきた。人馴れしているのか、初めて入る俺の部屋で図々しくも毛づくろいを始めたその猫は、そのまま逃げることなく「ほら、撫でてもいいぞ」と俺にゴロンと腹を見せたのだ。
誘われるようにして三毛を撫でた瞬間、嘘みたいな話だが、俺はまるで頭に雷が落ちたみたいな強力な感動を味わった。これが「宗教体験」とかいうやつなのかもしれないとさえ思った。ふくよかな毛並みを撫でるたび、俺の中のどす黒い感情が清らかな光で洗われ、「生きる」ことへの希望がこんこんと湧き出したのだ。信じてもらえなくてもいい。本当の話だ。だから俺はその猫を飼うことに決めたのだ。
ナージャと名付けたのはもちろん俺だ。由来は......。
クソ、ド忘れした。こんな大切なこと忘れるなよ、健忘症か? 由来は、えーっと、
――おい、五番の電圧上げろ。
バチっと記憶が蘇る。そう、養護施設の相談員が飼っていた猫の名前だ。俺にとって大切な人の、大切な家族の名前をもらったんだ。勝手にだけど。いつか、俺の家族を紹介したい。
俺が「ナージャ」と呼ぶと、ナージャはとんがった耳をピクンと動かし、それから俺のほうに顔を向けゆっくりとまばたきする。ナージャも自分の名前が気に入っているらしい。俺は愛猫の顔をやさしく撫でた。再び俺の心がじんわりと温まる。だけど、あの強烈な感動は、最近失われてしまった気もする。
――どうします? VRオブジェクトの出力設定を上げますか?
――うーん、いや、しばらく様子を見よう。耐性がついてしまう可能性があるからな。
俺はソファから立ち上がり、外の様子を見ようと窓まで歩く。先ほど一瞬見えた太陽の光も、今では分厚い雲に覆われている。ただ、雨は降っていない。雷も聞こえない。窓際に吊るしたカレンダーを見る。兎月四十五日。俺の誕生日まであと十日だ。祝ってくれるのはナージャくらいしかいないが、それで十分だ。
ナージャはいつ生まれたんだろう。アイツにもお祝いできる日があったほうがいいに決まっている。よし、ナージャと出会った日をアイツの誕生日にしよう。あれは、俺がまだあのボロアパートにいたときだ。
――あっ。
――くそ、またフラッシュバックか。
俺があのボロアパートで、確か、金槌をバッグに入れたときだ。いや違う、違う。入れていない、俺は、そんなこと、していない。違う、金槌じゃない。シェフナイフが、スパっと、漫画みたいな切れ味で、人間の皮膚って、あんなに綺麗に、簡単に、違う。違う、違う、違う、違う!
――リフレッシュかけます。
ブツンと、また停電が起きた。雷の轟音と同時に一瞬のブラックアウトが起こり、そしてすぐに元に戻った。ただ、白昼夢は消えなかった。
俺は、頭から血まみれになった俺が、見知らぬ大勢の他人に、凶器を振り回している姿を見ていた。
子どもの泣き叫ぶ声、女の悲鳴、男の怒号が、ショッピングモール中で共鳴している。
血だまりの中で、幼い男の子と若い女が、ピクリとも動かず倒れている。
俺の目の前で、首筋から大量の血を流している中年の男が、うつろな目で、助けてと、力なくつぶやいている。
俺は、俺が、その男の頭に金槌を振り下ろすのを、
――痛覚感受性を最大。戻ったらオブジェクトからの出力を最大にして被験者に触れさせろ。天候モードはGだ。
「痛っ!」
気がつくとナージャが俺の脛に思い切り噛みついていた。尋常じゃない痛みで現実に戻った俺が、噛まれた脛を抑えようと前かがみになると、ナージャは俺の肩に飛び乗ってきた。その瞬間、初めてナージャに触れたときの、あの圧倒的な多幸感に俺は包まれた。
部屋のもの全てが、まるで虹のように光輝いて見える。光のスペクトルが天からオーロラのようになって降り注ぐ様子を、俺ははっきりと、スローモーション動画のように感じることができた。
花瓶に活けられたホワイトガーベラが、神々しいまでの存在感を放っている。自然が生み出す圧倒的な美しさに気づかされた俺は、全身が打ち震えるほどの感動を覚える。次第に時間という感覚が失われ、そして、俺という存在も、光の中に溶けだして、偉大なものと一体化する。
しばらく俺はナージャを肩に乗せたまま忘我し、窓際に立ちすくんでいた。すると、先ほどまでどす黒く分厚い雲に覆われていた空に一閃、帯状となった太陽の光が差し込まれた。まばゆい光が暗雲を振り払い、世界を祝福するように、徐々に空を明るく照らし始める。何かの啓示かとも思えるその瞬間を、俺は大粒の涙を流しながら見ていた。
生きていることは素晴らしい。存在することの尊さを実感した今の俺は、無条件で、何の根拠もなく、そう信じられる。俺はどんな困難にぶつかっても、生きたいと願うだろう。その多幸感に包まれたまま、俺は失神するようにその場に倒れ、そして眠りに落ちた。
俺を踏みとどまらせてくれたのは三毛猫のナージャだ。
悪夢と現実の区別がつかなくなりかけていたある日、野良の成猫がふらっと俺の部屋にやってきた。人馴れしているのか、初めて入る俺の部屋で図々しくも毛づくろいを始めたその猫は、そのまま逃げることなく「ほら、撫でてもいいぞ」と俺にゴロンと腹を見せたのだ。
誘われるようにして三毛を撫でた瞬間、嘘みたいな話だが、俺はまるで頭に雷が落ちたみたいな強力な感動を味わった。これが「宗教体験」とかいうやつなのかもしれないとさえ思った。ふくよかな毛並みを撫でるたび、俺の中のどす黒い感情が清らかな光で洗われ、「生きる」ことへの希望がこんこんと湧き出したのだ。信じてもらえなくてもいい。本当の話だ。だから俺はその猫を飼うことに決めたのだ。
ナージャと名付けたのはもちろん俺だ。由来は......。
クソ、ド忘れした。こんな大切なこと忘れるなよ、健忘症か? 由来は、えーっと、
――おい、五番の電圧上げろ。
バチっと記憶が蘇る。そう、養護施設の相談員が飼っていた猫の名前だ。俺にとって大切な人の、大切な家族の名前をもらったんだ。勝手にだけど。いつか、俺の家族を紹介したい。
俺が「ナージャ」と呼ぶと、ナージャはとんがった耳をピクンと動かし、それから俺のほうに顔を向けゆっくりとまばたきする。ナージャも自分の名前が気に入っているらしい。俺は愛猫の顔をやさしく撫でた。再び俺の心がじんわりと温まる。だけど、あの強烈な感動は、最近失われてしまった気もする。
――どうします? VRオブジェクトの出力設定を上げますか?
――うーん、いや、しばらく様子を見よう。耐性がついてしまう可能性があるからな。
俺はソファから立ち上がり、外の様子を見ようと窓まで歩く。先ほど一瞬見えた太陽の光も、今では分厚い雲に覆われている。ただ、雨は降っていない。雷も聞こえない。窓際に吊るしたカレンダーを見る。兎月四十五日。俺の誕生日まであと十日だ。祝ってくれるのはナージャくらいしかいないが、それで十分だ。
ナージャはいつ生まれたんだろう。アイツにもお祝いできる日があったほうがいいに決まっている。よし、ナージャと出会った日をアイツの誕生日にしよう。あれは、俺がまだあのボロアパートにいたときだ。
――あっ。
――くそ、またフラッシュバックか。
俺があのボロアパートで、確か、金槌をバッグに入れたときだ。いや違う、違う。入れていない、俺は、そんなこと、していない。違う、金槌じゃない。シェフナイフが、スパっと、漫画みたいな切れ味で、人間の皮膚って、あんなに綺麗に、簡単に、違う。違う、違う、違う、違う!
――リフレッシュかけます。
ブツンと、また停電が起きた。雷の轟音と同時に一瞬のブラックアウトが起こり、そしてすぐに元に戻った。ただ、白昼夢は消えなかった。
俺は、頭から血まみれになった俺が、見知らぬ大勢の他人に、凶器を振り回している姿を見ていた。
子どもの泣き叫ぶ声、女の悲鳴、男の怒号が、ショッピングモール中で共鳴している。
血だまりの中で、幼い男の子と若い女が、ピクリとも動かず倒れている。
俺の目の前で、首筋から大量の血を流している中年の男が、うつろな目で、助けてと、力なくつぶやいている。
俺は、俺が、その男の頭に金槌を振り下ろすのを、
――痛覚感受性を最大。戻ったらオブジェクトからの出力を最大にして被験者に触れさせろ。天候モードはGだ。
「痛っ!」
気がつくとナージャが俺の脛に思い切り噛みついていた。尋常じゃない痛みで現実に戻った俺が、噛まれた脛を抑えようと前かがみになると、ナージャは俺の肩に飛び乗ってきた。その瞬間、初めてナージャに触れたときの、あの圧倒的な多幸感に俺は包まれた。
部屋のもの全てが、まるで虹のように光輝いて見える。光のスペクトルが天からオーロラのようになって降り注ぐ様子を、俺ははっきりと、スローモーション動画のように感じることができた。
花瓶に活けられたホワイトガーベラが、神々しいまでの存在感を放っている。自然が生み出す圧倒的な美しさに気づかされた俺は、全身が打ち震えるほどの感動を覚える。次第に時間という感覚が失われ、そして、俺という存在も、光の中に溶けだして、偉大なものと一体化する。
しばらく俺はナージャを肩に乗せたまま忘我し、窓際に立ちすくんでいた。すると、先ほどまでどす黒く分厚い雲に覆われていた空に一閃、帯状となった太陽の光が差し込まれた。まばゆい光が暗雲を振り払い、世界を祝福するように、徐々に空を明るく照らし始める。何かの啓示かとも思えるその瞬間を、俺は大粒の涙を流しながら見ていた。
生きていることは素晴らしい。存在することの尊さを実感した今の俺は、無条件で、何の根拠もなく、そう信じられる。俺はどんな困難にぶつかっても、生きたいと願うだろう。その多幸感に包まれたまま、俺は失神するようにその場に倒れ、そして眠りに落ちた。
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