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第四話 香桜堂の店主
しおりを挟む花毬屋の営業時間は朝十時から夜の七時まで。
季節によって多少前後することはあるみたいだけれど、基本はこの通り。店が一番賑わうのは昼過ぎから夕方にかけての時間帯。
今朝の朝食はわかめと豆腐のお味噌汁、白米、甘めの卵焼き、それから冷奴に刻んだ葱をのせたもの。冷蔵庫に残っていた漬物も小皿に添えてささやかに品数を増やした。
久しぶりに誰かのために作るごはんだと張り切って早起きしたものの、いざ冷蔵庫を開けてみれば生鮮の食材はほとんど残っておらず、奮闘の末に用意できたのがこの朝食だった。
調味料や乾物はそれなりにあったから助かったけれど、これは買い出しが必要だ。
「ねえ千鈴ちゃん。今日、買い出しに行ってもいい?」
三人で机を囲み、朝ご飯を食べながら話を切り出す。
「ああ、そういえばしばらく行ってなかったわね」
千鈴ちゃんは箸を置いて、着物の合わせから白地に梅の花が描かれたちりめんのがま口を取り出し机の上にちょんと置く。
「これが生活費用のお財布。買うならここから出してちょうだい」
「わかった。ありがとう」
がま口なんて久しぶりに見た、とじっと観察するように見ている私をよそに千鈴ちゃんはお味噌汁を飲みながら話を続ける。
「それと出かけるならアタシの香包をつけて行きなさい。現世には無いものでしょう?だから身につけてるだけで人間とはすぐにバレないわ」
「何それ?」
「自分のまわりの空気に、微かに香りを纏わせるものよ。たぶん香水っていうのに近いんじゃないかしら。アタシは飲食店をやってるから普段はつけないけど…休日のおしゃれとして楽しんでるの」
千鈴ちゃんが指差した先を見ると棚の上に小さなガラス瓶が置かれていた。中には薄いピンク色の液体が入っているのが見える。
「出かけるときはつけて行くのよ。…ま、襲われたいなら別だけどね」
さらりと毒を添えるあたり、千鈴ちゃんのひねくれたところは今日もちゃんと健在だった。
「ねえ、この世界のお金って現世のも使えるの?」
「いいえ、使えないはずよ。質屋に持って行けば換金はできるけど、現世の品ってそんなに珍しくないから値段には期待しないほうがいいわね」
「そう…」
私の声のトーンが下がったのを察したのか、リュカが不思議そうに私の顔を覗きこむ。
「なんだ?なんか欲しいもんでもあるのか?」
「父から貰った翡翠のブレスレットがあるんだけど、それを入れておけるものが欲しいなあって」
「ブレスレットなら、腕につければいいじゃない」
「…こっちの世界に来る前に千切れちゃって。今手元には数個の玉しか残ってないの」
そう答えると千鈴ちゃんは「それは残念ね」と小さく息をついてから香包が置かれている棚を開け、小さな赤い巾着を取り出して机の上に置かれているがま口の隣に置いた。
「この間、雑誌を買った時についてきたものよ。翡翠が入る大きさなんだったら、あげるわ」
「えっ、いいの?」
「いいわよ。どうせ使わなくて年末の大掃除で捨てる未来が見えるもの」
「ありがとう!本当に千鈴ちゃんって優しいね」
「…初めてできた女の友達に舞い上がってるだけだって」
ぼそっと呟いたリュカの言葉に千鈴ちゃんの耳がぴくりと動いた。瞬時に真っ赤になって声を荒げる。
「うるさいわよリュカ!!」
そんな光景を見ながら胸には温かい何かが広がっていた。
あやかしに、友達だと思われてるんだ。今のこの景色を父にも見せてあげたかった。
♢♢♢♢♢
朝食を終えると二人は完食したお皿を重ねて「仕込みが多いから」とリュカも一緒に店へと連れて行かれた。味の感想をちゃんと聞く暇もなかったけれど、お皿に米粒ひとつ残っていないことが何よりの答えだった。
食器を洗い終えてから布団を畳んで部屋の隅に寄せ、昨日泥だらけになったワンピースを手に持って一階へ降りる。ストッキングは残念ながらもう使いものにならずゴミ箱行きだ。
今の服装はまた千鈴ちゃんが貸してくれたもの。赤地にまんじゅう菊が咲く華やかな着物に、オレンジがかった黄色の帯を締めている。ついでにリュカがセミロングの私の髪を赤い蜻蛉玉の簪でシンプルにまとめてくれた。
「さて、まずは洗濯かな」
脱衣場の籠の中に入れられていた二人の寝間着と使い終えたタオルを手に取り、子供ひとり入れそうな大きさの白い上開きの洗濯機へと押し込む。
洗面台の下にある小さな扉を開け、洗剤とピンク色のボトルに入った柔軟剤を計って注ぎ、蓋を閉めてボタンを押す。
洗濯機、冷蔵庫、洗剤の香りなど。現世と似た生活道具にふと親しみが湧く。
そして二階に戻り、言われた通りに香包をシュッとひと吹きさせる。
ふわりと甘くてやさしい香りが広がった。花の蜜のような、どこか懐かしく女の子らしい柔らかさがある香り。
「…なんだろう、嗅いだことがあるような……。でもいい香り、センスあるなあ」
香りの正体は思い出せないけれど気分がふわっと軽くなった気がして、まあいいかと着物の合わせ目にがま口を差し込み、翡翠は貰った巾着に入れて帯に挟めば準備完了。
千鈴ちゃんに借りた履物を履いて脱衣場の隣にある勝手口から外へ出ると、そこには物干し竿だけがぽつんと置かれた質素な庭が広がっていた。そこから表に回り道へ出る。
「こんな道だったんだ…」
きちんとこの街を歩くのは、これが初めてだ。
最初にこの世界に来たときは地面に座り込んで、ただ見世物のように見られていただけで景色を味わう余裕なんてなかった。
道を歩いているのは、やはりあやかしたちばかり。その流れに紛れるようにして賑やかな方へと足を進める。最初は細い土の道だったけれど、やがて広々とした石畳の通りへと出た。
どうやら花毬屋はこの大通りから少し外れた場所にあるらしい。ちゃんと覚えておかないと帰り道で迷子になってしまいそうだ。
石畳の大通りの左右にはずらりとお店が並び、その軒先には赤い提灯が風に揺れている。薬屋、傘屋、仮面屋、占い屋、蜂蜜屋、飴屋、郵便屋、案内屋…どれも個性が強く、不思議な雰囲気をまとうお店がたくさんある。
まるで旅行に来た気分で好奇心がくすぐられる。
肉屋や魚屋はどこだろうと道を歩き続けるうちに少し疲れてきて、どこかで休憩でもしようかと数段の石段を登ると、目の前にどっしりとした建物が現れた。
赤みのある木材で造られ、ところどころに黒い木が使われていて全体に引き締まった印象を与えている。重厚で、でも温かみのある佇まい。
広い入口の上には立派な看板が掛けられていて、そこには「香桜堂」と書かれていた。
「…かざくら?かおう?」
それとも「こうおうどう」と読むのかな。どの読み方にしても綺麗な名前のお店だ。
入口の脇に飾られた赤い提灯がぼんやりと光り、おいでと呼びかけられているような気がして、私はその建物の中へ入ってみることにした。
重厚な扉の横には黒い木で組まれた格子にガラスがはめ込まれていて、店内の様子が少し覗ける造りになっている。大きな扉をそっと開けて中に入ると私の存在に気づいたらしい男の人が近づいてきた。
黒いスーツに赤いネクタイ。背が高く、体格もがっしりとしていてどこか威圧感がある。黒髪はきっちりとオールバックでまとめられいて、整った顔立ちの右頬には耳の下から斜めに伸びる古い切り傷の跡が残っていた。その胸元には赤城と書かれた名札。
獣耳もなく羽もなく見た目は人間と全く同じで、四十歳前後くらいの印象を受けるがあやかしの年齢は予想がつかない。
この人は何のあやかしだろうか。
「いらっしゃいませ。お嬢さん」
低く落ち着いた声が店内に響いた。微笑むその表情に不意に肩の力が抜ける。
見た目で少し怖そうな人だと思ってしまったけれど、実際はとても丁寧でどこか紳士的な雰囲気を纏っている。
「おや。この甘いさくらんぼの香りは…彩小町ですね」
私のまとう香りに気付いたらしい赤城さんが嬉しそうに目を細めた。
言われてようやくピンとくる。あのふんわりとした香りの正体はさくらんぼだったんだ。
もしかしてここは香包を扱うお店なのだろうかと改めて店内を見渡せば、様々な香包が美しく陳列されていた。
奥には調香のスペースが設けられていて、作業台の上には様々な香料の瓶が並んでいる。
それぞれの香りが混じり合っても決して鼻につくことはなく、むしろ柔らかく包み込むように店内全体を心地よい香りで満たしていた。
「友人のものなのですが、少し借りていて…」
「なるほど。本日は何をお求めで?」
丁寧に問いかけられ、少しだけ視線をさ迷わせる。
「えっと…実は、このお店に来るのは初めてで。ただ興味本位で入ってみただけなんです」
「おや。そうでしたか」
それはそれは、と微笑んだ赤城さんに「足を運んでいただきありがとうございます」とお礼を言われつつ店の中へ案内されるが、余分なお金を持ってないことを思い出して今日は買えないんですがと控えめに伝えるが試香だけでもとにこやかにエスコートされてしまった。
広々としたフロアを見渡せば他のお客さんも数人いて、それぞれにスタッフがつき香りの説明を丁寧にしている。
「香桜堂では初めて来店していただいたお客様には、お気に召した香りをサンプルとして一つ差し上げております。ですので、気に入った香りがあればぜひお持ち帰りください」
なんて太っ腹なお店なんだろうと感心しつつ、せっかくなのでひとつひとつ香りを試させてもらう。赤城さんの説明は穏やかで分かりやすく、聞いているだけでも楽しい。甘くやさしい香り、清々しい香り、少しスパイシーなものまで実に幅広い。そしてそんなたくさんの香りの中から、私が特に心惹かれたのは二つ。
月見兎という深く落ち着いたリラックスできる香りと、お店の名前が入った、桜の香りをベースにした一番人気の甘い香りの香桜結。
対照的な二つだからこそ悩みに悩んだが、初めてだしここはお店の名前が入った香桜結にしよう。
「赤城さん。香桜結にしたいです」
「おお、うちの看板商品ですからお気に召していただけて嬉しいです。サンプルをお持ちしますので少々お待ちください。その間ごゆっくり店内をご覧になっていてください」
そう言って赤城さんは奥の従業員専用の扉の向こうへ入っていった。
せっかくなのでお言葉に甘えて店内をゆっくりと歩く。並べられた香包のひとつひとつがとても綺麗で、どれも惹かれる。そしてふと、ガラスケースの中に入れられたとても高そうな香包が目に入った。
それは貝殻を思わせる繊細なガラスの器の中に、海を閉じ込めたかのような香包だった。水色から深い藍色へと流れるように変化する液体は照明を受けてきらきらと輝いている。
その香包に吸い寄せられるように黒くて小さな、現世でよく見かけたピンポン玉ほどのあやかしがふわりと浮かび寄っていた。
「…まさか、あなたたちを見て安心するなんてね」
見慣れた存在に一瞬だけ気が緩んでしまった。でも油断してはいけない。
周囲をキョロキョロと見回し誰もこちらを見ていないと確認をしてから、ひらりと手を払うようにして店の入り口の方へと追い払う。私から逃げるように扉に向かうあやかしを見届けた後、もう一度ガラスケースに目を向ける。よく見ると美しい香包の前に、小さなプレートが添えられており『人魚の涙』と書かれている。
「もしかして、隠世には人魚もいたりして」
独り言のつもりでぽつりと呟いたその声に、思いがけず返事が返ってきた。
「いますよ」
「え!?」
思わず気の抜けた声が出る。驚いて振り向いた先に立っていたのは黒色の着物をまとっている男性だった。黒い着物だが襟元と袖口には白銀の縁取りが施されており、金糸で描かれた模様も見事で、黒の中に凛とした清廉さを宿している。
艶のある黒髪は襟足まで伸び、少しウェーブがかかっている。涼しげな目元と綺麗な顔立ちが印象的で、上品な雰囲気が和装にとても合っている。
「昔、東の国の男が西の国から人魚を攫ってきた大事件。あなたもご存じでしょう?」
「え?…あ、ええ。もちろんです。衝撃的でしたよね」
まったく聞き覚えもない事件だけども、とりあえず話を合わせておく。
目の前の男性は静かに頷き視線をガラスケースの香包へと向ける。
「その事件を元にこの『人魚の涙』は生まれたのです。隠世中が揺れましたからね。西と東の国の関係も、随分とこじれました」
つまり、あの美しい香包は人魚誘拐事件を象徴するもの。今の話を聞くと西の国が人魚の故郷ということになるし、誘拐した東の男の行動は誰が見ても罪。それが本当なら確かに隠世を揺るがす大事件だ。
「そういえば、香桜堂に来店されたのは初めてですよね。お名前を伺っても?」
まじまじと香包を見ていたら男性に話を振られる。てっきり香りに詳しい常連客だと思っていたので、この人が店の関係者だと知って内心驚く。
「あかりと言います」
「あかりさんですね。……失礼ですが、苗字はなんと?」
問いかけに答えようと口を開いた、その瞬間。
「旭様!?」
背後から驚いたような声が聞こえ、振り返ると赤城さんが驚愕の表情でこちらへ駆け寄ってきていた。手には小さな袋を抱えている。きっと香包のサンプルが入っているのだろう。
よく見るといつの間にか周囲のお客さんたちの視線もこちらに集まり、一部の女性などはまるで芸能人でも見るかのようにきゃあきゃあと盛り上がっている。
旭様と呼ばれた男性はしょうがないという表情で静かに赤城さんを咎める。
「赤城、ここでは店主と呼べと言っただろう?」
「も、申し訳ありません。予定より早いお戻りでしたので…」
声を潜めてやり取りしているが、隣にいる私には丸聞こえだ。
店主ということはこの香桜堂の主ということだろう。そんな人に接客をしてもらっていたなんてとても恐れ多い。
「赤城は他のお客様のご案内を頼む。このお嬢さんは俺が入り口までお見送りしよう」
そう言って赤城さんの手から袋を受け取ると私の方へ向き直り、控えめに背に手を添えて扉まで案内してくれた。
「すみません。あなたが香桜堂のご主人だったなんて、知らなくて」
申し訳なさそうに言うと、彼はわずかに目を細めてから首を横に振った。
「…気にしないでください。お客様に香包の説明をし、興味を持っていただける時間は好きですから」
赤城さんと話していた時よりもどこか言葉が丁寧になっている。きっとこれが店主としての顔なのだろう。整った笑顔は美しいけれど、どこか均整が取れすぎていて、ほんの少しだけ無機質さも感じる。
「こちらがサンプルになります。使用方法や保管の仕方について書かれた紙も同封されていますが、もし分からない事があればいつでもお気軽にお越しください」
「ありがとうございます。……あの、香包とは全然関係ないんですけど」
「はい?」
「……お肉とか、野菜って…どこで売ってるか、ご存知ですか?」
遠慮がちに尋ねると彼は一瞬ぽかんとした顔で私を見つめた。まるで鳩が豆鉄砲でも食らったような目をした後、吹き出すように笑い出した。
「…っはははは!」
その顔は今までのどこか作り物めいた微笑みとは違って、自然で生き生きとした本物の笑いだった。素直にこっちの顔の方が好きだなと思った。
「そうかそうか、それは……。では、よろしければ私がご案内しましょうか」
「本当ですか!?」
思わず声が弾む私を見て、彼はどこか複雑そうな表情を浮かべながらふっと笑った。
「…今日一番の笑顔ですね」
こんな偉い人に案内させるなんて申し訳ないという気持ちが胸をよぎるけれど、それ以上にこの申し出は本当にありがたかった。探しても探しても目的のお店が見つからず、正直白旗を上げそうになっていたから。
「あ、でも…お店は大丈夫なんですか?」
「優秀な従業員たちが揃っていますから。問題ありません。さあ、行きましょう」
そう言って軽やかに歩き出した彼の背を追いかけながら、私は周囲に目をやった。
香桜堂は石段を登った高台に建っている。そこから見える夕焼けはとても美しかった。空は青から赤に染まり始め、遠くに広がる町並みにはひとつ、またひとつと明かりが灯っていく。赤提灯の明かりも色付き始め、幻想的な光景を作り出していた。
「きゃっ、旭様よ! あなた話しかけなさいよ!」
「無理無理! あんたが話しかけなよ~!」
ふと耳に飛び込んできた会話に気付き、そちらへ目を向けると二人の若いあやかしの女性たちが私の前を歩く彼の姿を熱いまなざしで見つめていた。
やっぱり、あやかしの目から見ても綺麗な人なんだなと私もつい目を奪われてしまう。するとその視線を感じ取ったかのように、彼がふと立ち止まりこちらを振り返った。つい目で追ってしまっていたため、視線が交わる。
とてもきれいな、黄色に温かみのあるオレンジが溶け込んだような、不思議で魅力的な瞳の色だ。
やわらかく目を細めた彼が、隣においでとでも言うように手を差し出す。おそるおそる近付く私に周りの妖の視線が突き刺さる。
「あの、やっぱり、道だけ教えていただければ…」
「むしろ、もう暗いので家まで送りますよ。はぐれないようにしましょう」
にこやかに笑って私の手を取る。誰かと手を繋ぐのも久々で懐かしい感覚に浸っていると周りから驚愕の声や悲鳴に近い叫びが飛び交った。
その喧騒を身に浴びながら、彼はどこか楽しそうに笑っていた。
そして彼は宣言通り私の買い物が終わるまできちんと付き合ってくれた。しかも荷物まで持ってくれて、最後には花毱屋まで丁寧に送り届けてくれた。
何度もお礼を言って別れたが、私は近々あやかしに刺されたりしないだろうかと本気で心配した。
芸能人ってあんな感じなのかなと大変さをひしひし感じながら、心地よい疲労に包まれてその日の夜は早々に布団へ潜り込んだ。
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