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誰が最後に笑うのか
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いつの間にか、辺りには静寂が満ちていた。至近距離で聞こえた銃声に、舞台上のパフォーマーやピエロたちも、固唾を飲んで状況を窺っている。
「あぁ……しまった。つい、反射的に」
自分自身の手と、そこに握られた銃を見ながら、ムーンがわざとらしくぼやいた。カルマに聞かせるためなのか、仰々しく紡がれた台詞はあまりに白々しく、全く恐怖を感じさせない。
「ムーン!」
追いかけてきたマティーニとガイアモンドが、力尽きたカーニバルを一目見て、驚愕の表情を浮かべた。
「こ、殺したのか?」
ガイアモンドの低い声に、欠伸を噛み殺しながら頷く。マティーニは何とも言えない面持ちで、息絶えたカーニバルを見下ろした。別に心は痛まないが、こんな風に額に風穴を空けられた肉塊を、どう処理すればいいのか。そればかりに頭を悩ませてしまう。
黙って様子を覗いていた団員たちも、同様の気持ちであった。だって、今更どんな感情を抱けばいいというのだろう。自分たちを欺いて、残酷な魔法で縛りつけていた、悪徳雇用主。そんな男が突然殺されたところで、利益はあれど害はない。けれども、殺人であることも真実だ。彼の死によって、自分たちが働き口を失ったことも確か。彼らは息を潜めて、呑気に構えている惚けた男、団長に手を下した張本人を見つめる。
「おい、どうする……?」
「あいつら、捕まえた方がいいのか?」
「いやでも、団長は死んだわけだし……」
「そもそも俺たちは……」
彼らはサーカスなどそっちのけで、ひそひそと会議を始めた。カーニバルが死んだのだから、彼らはもはや自由だ。彼の命じた商売なんぞに、従う道理はない。しかし、いきなり望みのものを努力もなしに差し出されても、受け止めかねて困惑してしまう。
「で、でもよ、確か団長、懸賞金って言ってたよな」
その内、誰か一人がふと思い出したように声を上げた。三億という莫大な金額に、団員たちの心が一気に傾いていく。
「そうだそうだ!確かに言ってた!」
「食い扶持がなくなったんだから、当面の金がいるよな」
「三億あれば、皆で分け合っても相当の財産だぞ!」
彼らは皆、貯蓄という概念すら知らずに生きてきた者たちだ。たった数枚の紙幣だって、共に夜を明かせたことはない。具体的に三億がどれくらいの価値なのかも、想像がつかない状態だった。だが、あのカルマとかいう人形じみた少女を一人捕まえるだけで、一生遊んで暮らせる金が全員の懐に入るのなら。やらない理由は思いつかなかった。
「おい……待てよ、お前ら」
ふらりとどこからか姿を見せたグシオンが、急速に奮起し出す仲間たちを諌めた。彼の頬には鞭で打たれた傷が生々しく残り、唇には血が付着していたが、その瞳の輝きは露ほども失せていない。彼はテントを支える骨組みに頭をもたせかけながら、何事か発言しようとした。
「な、何をやっておるんだ貴様ら!」
「団長を殺したのか!?この逆賊めが!!」
ところが、けたたましい怒号が響き渡り、彼らの耳を打った。ただならぬ状況を訝り、ステージまで上ってきた観客の数人が、暗幕の隙間からカーニバルを発見し、糾弾の声を上げる。その声に触発されて、より多くの者たちが、舞台裏へと押し寄せてきた。懸命に宥めようとする団員たちは、杖で打たれ、あるいは蹴倒されて排除される。客たちは死体を見るなり顔面を蒼白にして、義憤を迸らせた。
「何てことをしてくれる!貴様らカーニバルに救われた者だろう!恩を忘れたか!!」
「捕まえろ!こいつら全員、警察に引き渡すんだ!」
「はぁ!?やったのは俺たちじゃねぇよ!カーニバルなんか、糞食らえだ!!」
一方的に罪を押し付けられ、団員たちは盛んに反発する。だが、客たちもまた一向に聞く耳を持たなかった。
「信じられるか!お前たち皆、薄汚い貧乏人は平気で嘘をつくからな!」
一際若い口髭の男が、団員の一人を指差して非難した。白髪混じりの太った老人も、彼に続く。
「その通り!奴ら、ワシらの金で飯が食えていたことなど理解すらしていない!恥知らずな奴らじゃ!」
「何だとぉ!?」
高圧的な罵倒に、団員たちは憤り、眉間に深く皺を刻む。彼らは怒りに燃える目をきつく吊り上げ、拳を思い切り振り上げた。観客たる紳士たちも、陰険な富者らしい阿漕な仕草で、腕組みをし鼻を鳴らした。
両者はもはや、一触即発の状態だ。味方同士で群れを成し、壁を築いて相手を睨め付けている。
「ムーン、行くぞ。撤退だ」
潮時と見做したガイアモンドが、ムーンの腕を軽く叩いた。彼の隣には、カルマの手を握ったマティーニもいる。
「おっと、待ちな」
そそくさと去ろうとする彼らの前に、数人の男が立ちはだかった。身なりから察するに、サーカスの一員だ。金持ち気取りと争うよりも、実利を取ったに違いない。彼らは早速、分裂を始めているらしかった。
「そのガキは置いていけ。さもないと、お前らをあのジジイ共の餌にするぞ」
「馬鹿言うんじゃねぇよ。そいつらはあの男を殺してくれた、恩人だろが。仇で返すなんざ、俺はごめんだぜ」
「黙ってろグシオン!!」
見かねたグシオンが間に入るが、仲間たちは聞き入れない。
「……好きにしたらいい」
彼らの前で、ムーンは挑戦的に両手を広げ、立ち向かおうという意思を示した。
「殺せっ!殺せっ!殺せっ!殺せっ!」
背後では、訳も分からず高揚した傍観者たちからの、盛大なシュプレヒコールが響いている。
「ムーン何やってる!急げ!!」
少し先を行くガイアモンドが振り返り、ムーンを呼んだ。しかし、彼は動かない。微笑みを保ったまま、歯向かうなら容赦しないとでも言いたげな態度で、佇んでいる。
「……チッ」
とうとう、痺れを切らしたグシオンが、舌打ちと共に行動に出た。彼はフォームも何もなっていない、腕力だけの一撃で、男の一人を殴り飛ばす。身内に襲われるとは思いもよらず、油断していた男はあっさりと昏倒した。失神した仲間を見て、他の者たちは怯み、オドオドとグシオンの顔を窺い始める。
「……いいのか?」
想定外の事態に、ムーンは思わず薄く目を開いていた。グシオンはおもむろに肩を竦め、そっぽを向いて嘯く。
「団長は死んだ。俺たちは自由だ。懸賞金ってのァ魅力的だが、金策は他にもある。それに……あんたらと争おうなんて、無茶だって分かってるからな」
彼は眉を顰め、心底不愉快という表情を作りながらも、おどけた答えを返した。ポケットを探り何かを掴むと、ムーンに向かって放り投げる。車の鍵だ。キャッチしたムーンに、目覚めた男が再び飛びかかろうとする。
「俺が使ってた車の鍵だ。客席のB扉出たところに停まってる……これ以上面倒なことになる前に、お嬢ちゃん連れてさっさと行っちまえ!」
グシオンは彼に蹴りを見舞ってから、大仰に手を振ってあっち行けと指示した。偽悪的な振る舞いに、ムーンの口元にやんわりと微笑が宿る。
「……感謝する」
彼はたった一言残すと、鍵を握り締め、駆け足でその場を去った。道中、乱闘場と化した周囲から、流れ弾がひっきりなしに飛んでくる。方々から突き出される拳や足払いを、ムーンはひょいひょいと身軽に避けて先へ進んだ。
ガイアモンドたちとはすぐに合流出来た。彼らは既にBと記された扉の前に固まって、脱出を図ろうとしている。外に出ると同時に、白いライトバンが停まっているのが視界に映った。ムーンはグシオンから受け取った鍵で、車のドアを開け運転席に乗り込む。皆も若干の困惑を抱きながら、彼に従った。追いかけてきたサーカス団員の一人が、鉄パイプを振り回して怒鳴り声を上げている。
「急げ急げ!」
「早く!」
マティーニやガイアモンドに急かされるまでもない。ムーンは躊躇いなくアクセルを踏み、ハンドルを巧みに切って、混沌に満ちた夜の闇を駆け抜けていった。
* * *
「ケッ、エセ紳士が……覚えてやがれ」
ムーンの背中を見送った後、グシオンは目線を下に落として悪態をついた。そばには、冷たくなりかけたカーニバルの骸が放置されている。殴り合いの喧嘩はするくせに、周りの誰も彼のことを気にかけようとしない。哀れな姿を、自業自得とグシオンは嘲笑った。
彼の体を爪先でつつき、でっぷりと肥えて膨らんだ腹の上に腰を下ろす。贅肉が尻で潰れて、ぐにっと嫌な感触を与えた。死者への配慮も敬愛もない冒涜的な行いだが、咎める者はいない。
グシオンは足を開いて座った体勢のまま、腿に置いた手を一瞬だけ閃かせた。直後、彼の掌にタバコのケースが現れる。まるで手品のようだが、実際は違った。長年の研鑽により、身につけた技術だ。カーニバルの懐から盗み出したそれを、口に咥えて火を付ける。ライターもまた、今日の客寄せ中に盗んだ物だ。発生した煙をふんだんに体内に取り込み、彼は深く呼吸した。全身の隅々まで、ニコチンとタールが行き渡る感覚だ。これで、赤の他人に借りを作ったことへの苛立ちも、多少は紛れるというものである。
突然思い立ってパーカーの裾を捲ると、肋骨の薄く浮き出た腹が露わになった。貧相な、傷だらけの体だが、素肌は綺麗に戻っている。皮膚の下を縦横無尽に這い回っていた、忌々しい刺青は、染みすら残さず消えていた。契約は完全に消滅したのだ。これでもう、どこへ行こうと何をしようと、誰からも文句を言われない。素晴らしき人生の再来に、喜びも感慨も一入で、慣れない葉巻の味も一段と美味く感じた。知らぬ内に力のこもった手が、金属製の葉巻ケースを撓むほど握り締めている。
(ここからだ……俺は、必ずここから這い上がる……この腐った世界をどこまででも生き抜いて……最後に笑うのはこの俺だ)
彼はゆっくりと立ち上がると、未だ潰えぬ喧嘩の騒ぎに紛れて、人混みに消えた。
「あぁ……しまった。つい、反射的に」
自分自身の手と、そこに握られた銃を見ながら、ムーンがわざとらしくぼやいた。カルマに聞かせるためなのか、仰々しく紡がれた台詞はあまりに白々しく、全く恐怖を感じさせない。
「ムーン!」
追いかけてきたマティーニとガイアモンドが、力尽きたカーニバルを一目見て、驚愕の表情を浮かべた。
「こ、殺したのか?」
ガイアモンドの低い声に、欠伸を噛み殺しながら頷く。マティーニは何とも言えない面持ちで、息絶えたカーニバルを見下ろした。別に心は痛まないが、こんな風に額に風穴を空けられた肉塊を、どう処理すればいいのか。そればかりに頭を悩ませてしまう。
黙って様子を覗いていた団員たちも、同様の気持ちであった。だって、今更どんな感情を抱けばいいというのだろう。自分たちを欺いて、残酷な魔法で縛りつけていた、悪徳雇用主。そんな男が突然殺されたところで、利益はあれど害はない。けれども、殺人であることも真実だ。彼の死によって、自分たちが働き口を失ったことも確か。彼らは息を潜めて、呑気に構えている惚けた男、団長に手を下した張本人を見つめる。
「おい、どうする……?」
「あいつら、捕まえた方がいいのか?」
「いやでも、団長は死んだわけだし……」
「そもそも俺たちは……」
彼らはサーカスなどそっちのけで、ひそひそと会議を始めた。カーニバルが死んだのだから、彼らはもはや自由だ。彼の命じた商売なんぞに、従う道理はない。しかし、いきなり望みのものを努力もなしに差し出されても、受け止めかねて困惑してしまう。
「で、でもよ、確か団長、懸賞金って言ってたよな」
その内、誰か一人がふと思い出したように声を上げた。三億という莫大な金額に、団員たちの心が一気に傾いていく。
「そうだそうだ!確かに言ってた!」
「食い扶持がなくなったんだから、当面の金がいるよな」
「三億あれば、皆で分け合っても相当の財産だぞ!」
彼らは皆、貯蓄という概念すら知らずに生きてきた者たちだ。たった数枚の紙幣だって、共に夜を明かせたことはない。具体的に三億がどれくらいの価値なのかも、想像がつかない状態だった。だが、あのカルマとかいう人形じみた少女を一人捕まえるだけで、一生遊んで暮らせる金が全員の懐に入るのなら。やらない理由は思いつかなかった。
「おい……待てよ、お前ら」
ふらりとどこからか姿を見せたグシオンが、急速に奮起し出す仲間たちを諌めた。彼の頬には鞭で打たれた傷が生々しく残り、唇には血が付着していたが、その瞳の輝きは露ほども失せていない。彼はテントを支える骨組みに頭をもたせかけながら、何事か発言しようとした。
「な、何をやっておるんだ貴様ら!」
「団長を殺したのか!?この逆賊めが!!」
ところが、けたたましい怒号が響き渡り、彼らの耳を打った。ただならぬ状況を訝り、ステージまで上ってきた観客の数人が、暗幕の隙間からカーニバルを発見し、糾弾の声を上げる。その声に触発されて、より多くの者たちが、舞台裏へと押し寄せてきた。懸命に宥めようとする団員たちは、杖で打たれ、あるいは蹴倒されて排除される。客たちは死体を見るなり顔面を蒼白にして、義憤を迸らせた。
「何てことをしてくれる!貴様らカーニバルに救われた者だろう!恩を忘れたか!!」
「捕まえろ!こいつら全員、警察に引き渡すんだ!」
「はぁ!?やったのは俺たちじゃねぇよ!カーニバルなんか、糞食らえだ!!」
一方的に罪を押し付けられ、団員たちは盛んに反発する。だが、客たちもまた一向に聞く耳を持たなかった。
「信じられるか!お前たち皆、薄汚い貧乏人は平気で嘘をつくからな!」
一際若い口髭の男が、団員の一人を指差して非難した。白髪混じりの太った老人も、彼に続く。
「その通り!奴ら、ワシらの金で飯が食えていたことなど理解すらしていない!恥知らずな奴らじゃ!」
「何だとぉ!?」
高圧的な罵倒に、団員たちは憤り、眉間に深く皺を刻む。彼らは怒りに燃える目をきつく吊り上げ、拳を思い切り振り上げた。観客たる紳士たちも、陰険な富者らしい阿漕な仕草で、腕組みをし鼻を鳴らした。
両者はもはや、一触即発の状態だ。味方同士で群れを成し、壁を築いて相手を睨め付けている。
「ムーン、行くぞ。撤退だ」
潮時と見做したガイアモンドが、ムーンの腕を軽く叩いた。彼の隣には、カルマの手を握ったマティーニもいる。
「おっと、待ちな」
そそくさと去ろうとする彼らの前に、数人の男が立ちはだかった。身なりから察するに、サーカスの一員だ。金持ち気取りと争うよりも、実利を取ったに違いない。彼らは早速、分裂を始めているらしかった。
「そのガキは置いていけ。さもないと、お前らをあのジジイ共の餌にするぞ」
「馬鹿言うんじゃねぇよ。そいつらはあの男を殺してくれた、恩人だろが。仇で返すなんざ、俺はごめんだぜ」
「黙ってろグシオン!!」
見かねたグシオンが間に入るが、仲間たちは聞き入れない。
「……好きにしたらいい」
彼らの前で、ムーンは挑戦的に両手を広げ、立ち向かおうという意思を示した。
「殺せっ!殺せっ!殺せっ!殺せっ!」
背後では、訳も分からず高揚した傍観者たちからの、盛大なシュプレヒコールが響いている。
「ムーン何やってる!急げ!!」
少し先を行くガイアモンドが振り返り、ムーンを呼んだ。しかし、彼は動かない。微笑みを保ったまま、歯向かうなら容赦しないとでも言いたげな態度で、佇んでいる。
「……チッ」
とうとう、痺れを切らしたグシオンが、舌打ちと共に行動に出た。彼はフォームも何もなっていない、腕力だけの一撃で、男の一人を殴り飛ばす。身内に襲われるとは思いもよらず、油断していた男はあっさりと昏倒した。失神した仲間を見て、他の者たちは怯み、オドオドとグシオンの顔を窺い始める。
「……いいのか?」
想定外の事態に、ムーンは思わず薄く目を開いていた。グシオンはおもむろに肩を竦め、そっぽを向いて嘯く。
「団長は死んだ。俺たちは自由だ。懸賞金ってのァ魅力的だが、金策は他にもある。それに……あんたらと争おうなんて、無茶だって分かってるからな」
彼は眉を顰め、心底不愉快という表情を作りながらも、おどけた答えを返した。ポケットを探り何かを掴むと、ムーンに向かって放り投げる。車の鍵だ。キャッチしたムーンに、目覚めた男が再び飛びかかろうとする。
「俺が使ってた車の鍵だ。客席のB扉出たところに停まってる……これ以上面倒なことになる前に、お嬢ちゃん連れてさっさと行っちまえ!」
グシオンは彼に蹴りを見舞ってから、大仰に手を振ってあっち行けと指示した。偽悪的な振る舞いに、ムーンの口元にやんわりと微笑が宿る。
「……感謝する」
彼はたった一言残すと、鍵を握り締め、駆け足でその場を去った。道中、乱闘場と化した周囲から、流れ弾がひっきりなしに飛んでくる。方々から突き出される拳や足払いを、ムーンはひょいひょいと身軽に避けて先へ進んだ。
ガイアモンドたちとはすぐに合流出来た。彼らは既にBと記された扉の前に固まって、脱出を図ろうとしている。外に出ると同時に、白いライトバンが停まっているのが視界に映った。ムーンはグシオンから受け取った鍵で、車のドアを開け運転席に乗り込む。皆も若干の困惑を抱きながら、彼に従った。追いかけてきたサーカス団員の一人が、鉄パイプを振り回して怒鳴り声を上げている。
「急げ急げ!」
「早く!」
マティーニやガイアモンドに急かされるまでもない。ムーンは躊躇いなくアクセルを踏み、ハンドルを巧みに切って、混沌に満ちた夜の闇を駆け抜けていった。
* * *
「ケッ、エセ紳士が……覚えてやがれ」
ムーンの背中を見送った後、グシオンは目線を下に落として悪態をついた。そばには、冷たくなりかけたカーニバルの骸が放置されている。殴り合いの喧嘩はするくせに、周りの誰も彼のことを気にかけようとしない。哀れな姿を、自業自得とグシオンは嘲笑った。
彼の体を爪先でつつき、でっぷりと肥えて膨らんだ腹の上に腰を下ろす。贅肉が尻で潰れて、ぐにっと嫌な感触を与えた。死者への配慮も敬愛もない冒涜的な行いだが、咎める者はいない。
グシオンは足を開いて座った体勢のまま、腿に置いた手を一瞬だけ閃かせた。直後、彼の掌にタバコのケースが現れる。まるで手品のようだが、実際は違った。長年の研鑽により、身につけた技術だ。カーニバルの懐から盗み出したそれを、口に咥えて火を付ける。ライターもまた、今日の客寄せ中に盗んだ物だ。発生した煙をふんだんに体内に取り込み、彼は深く呼吸した。全身の隅々まで、ニコチンとタールが行き渡る感覚だ。これで、赤の他人に借りを作ったことへの苛立ちも、多少は紛れるというものである。
突然思い立ってパーカーの裾を捲ると、肋骨の薄く浮き出た腹が露わになった。貧相な、傷だらけの体だが、素肌は綺麗に戻っている。皮膚の下を縦横無尽に這い回っていた、忌々しい刺青は、染みすら残さず消えていた。契約は完全に消滅したのだ。これでもう、どこへ行こうと何をしようと、誰からも文句を言われない。素晴らしき人生の再来に、喜びも感慨も一入で、慣れない葉巻の味も一段と美味く感じた。知らぬ内に力のこもった手が、金属製の葉巻ケースを撓むほど握り締めている。
(ここからだ……俺は、必ずここから這い上がる……この腐った世界をどこまででも生き抜いて……最後に笑うのはこの俺だ)
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