5 / 6
最期
しおりを挟む
虎雄は自宅療養が許可された。往診と訪問看護の打ち合わせのあと、退院手続きをした。
虎雄の退院には同室の仲間や、看護師たちが立ち会ってくれた。
八千代は深々とお辞儀をして車いすを押した。
その手の指にはくすんだ指輪が二つはめてある。虎雄は病気で指がむくみ指輪をはめられなくなった。だから、八千代にそれを託した。
「それは君を縛る鎖だよ」
虎雄は意地悪く微笑んだ。
「光栄だね」
八千代は指輪をした手を包み込むように胸の前で握ってみせる。
移り住んだのは庭の先に海がある平屋の家だった。庭に咲くブーゲンビリアの木が決め手だった。それは虎雄が十代のころ両親と住んでいた家に似ていた。
虎雄は家を見て瞳を潤ませた。
「ここはなんだか懐かしいね」
「いいところでしょう?」
虎雄はうなずいた。八千代は破顔して胸を張る。
虎雄の一日はとても穏やかだった。
寝て起きた時、まだ自分が息をしていることに安堵する。
それは満月の夜だった。
「八千代、八千代!」
虎雄が呼ぶと八千代はすぐにそばに来た。
「……虎雄さん」
「今日はなんだか体が軽いんだ。海に行こう」
虎雄が手を伸ばすと、八千代は涙ぐみながらその手を握る。
ふたりは庭から海へと歩いた。
思い返せば、こんなに長い間一緒にいたのに砂浜を二人で手をつないで歩いたことなどなかった。虎雄は自分が思春期に戻ったように感じて、歩き方さえぎこちなくなってしまう。これだけ長い間二人で過ごしたのにまだ初めてのことがあったことに驚きもする。
いろんな思い出話をした。出会ってからこの六十年余りのこと。
二人は薄々気が付いていた。もう虎雄はこの世を去ったこと。
今八千代と歩いているのは、魂になってしまった虎雄だ。彼がすぐに離れて天に昇らないのは、八千代への未練のせいだ。
「八千代。最期にキスしようか?」
虎雄は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて八千代を見た。八千代も同じくらいぐしゃぐしゃだ。
「……なら、最期に一緒に海に入ろう」
虎雄はうなずいて手を引いた。足元を波が浚う。
腰まで波が来る。胸のあたりまで……顎の下まで……そして、頭のてっぺんまですっかり海に浸かる。
ごぼごぼと水の音が耳元でうるさい。
すると八千代がぎゅっと虎雄を抱きしめた。
下半身を魚にして、八千代は泳ぎ始めた。
もう足もつかない……遠い海だ。
「虎雄さん」
薙いだ海に満月が浮かぶ。明るい海の波間にぷっかり二人だけが浮いている。
「好きだ、八千代」
虎雄は大好きな八千代の顔を両手で挟んで唇を寄せた。
しょっぱくて甘い、八千代の唇。
するりと舌を潜り込ませた。咥内をまさぐると、八千代の舌が迎え入れてくれる。相変わらず、ざらざらとした舌だ。二人はお互いの息までも飲み込むように深く長く口づける。
「八千代と一緒に生きられてよかった」
海の滴か、涙か。濡れた頬を光らせながら虎雄は八千代にすがる。
「ええ、僕もです。虎雄さん……」
「だから、俺を追って死ぬことは許さない」
八千代は驚いて虎雄の瞳を覗き込む。
「次もきっと八千代のことを覚えているから……会いに来るよ」
八千代の瞳に丸い球が浮かぶ。それは人魚が作り出す奇跡の宝石だ。
虎雄は舌を伸ばして掬い、その球を呑み込んだ。虎雄の喉に鱗のようなあざができた。
「涙って海よりしょっぱいな、二度と味わいたくない」
「虎雄さん……」
「生きろ。八千代。俺はまたお前に会えると思うと死ぬのも怖くないよ」
心の底からそう思っているのだろう。虎雄は穏やかな笑顔で笑っている。
満月が天頂に上ると、辺りが真っ白になった。
「愛しているよ。八千代」
八千代は眩しくて目を閉じた。そして、開いたときには虎雄はいなかった。
陸に戻ろうとするがもう魚の鰭が足になることはなかった。
虎雄の退院には同室の仲間や、看護師たちが立ち会ってくれた。
八千代は深々とお辞儀をして車いすを押した。
その手の指にはくすんだ指輪が二つはめてある。虎雄は病気で指がむくみ指輪をはめられなくなった。だから、八千代にそれを託した。
「それは君を縛る鎖だよ」
虎雄は意地悪く微笑んだ。
「光栄だね」
八千代は指輪をした手を包み込むように胸の前で握ってみせる。
移り住んだのは庭の先に海がある平屋の家だった。庭に咲くブーゲンビリアの木が決め手だった。それは虎雄が十代のころ両親と住んでいた家に似ていた。
虎雄は家を見て瞳を潤ませた。
「ここはなんだか懐かしいね」
「いいところでしょう?」
虎雄はうなずいた。八千代は破顔して胸を張る。
虎雄の一日はとても穏やかだった。
寝て起きた時、まだ自分が息をしていることに安堵する。
それは満月の夜だった。
「八千代、八千代!」
虎雄が呼ぶと八千代はすぐにそばに来た。
「……虎雄さん」
「今日はなんだか体が軽いんだ。海に行こう」
虎雄が手を伸ばすと、八千代は涙ぐみながらその手を握る。
ふたりは庭から海へと歩いた。
思い返せば、こんなに長い間一緒にいたのに砂浜を二人で手をつないで歩いたことなどなかった。虎雄は自分が思春期に戻ったように感じて、歩き方さえぎこちなくなってしまう。これだけ長い間二人で過ごしたのにまだ初めてのことがあったことに驚きもする。
いろんな思い出話をした。出会ってからこの六十年余りのこと。
二人は薄々気が付いていた。もう虎雄はこの世を去ったこと。
今八千代と歩いているのは、魂になってしまった虎雄だ。彼がすぐに離れて天に昇らないのは、八千代への未練のせいだ。
「八千代。最期にキスしようか?」
虎雄は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて八千代を見た。八千代も同じくらいぐしゃぐしゃだ。
「……なら、最期に一緒に海に入ろう」
虎雄はうなずいて手を引いた。足元を波が浚う。
腰まで波が来る。胸のあたりまで……顎の下まで……そして、頭のてっぺんまですっかり海に浸かる。
ごぼごぼと水の音が耳元でうるさい。
すると八千代がぎゅっと虎雄を抱きしめた。
下半身を魚にして、八千代は泳ぎ始めた。
もう足もつかない……遠い海だ。
「虎雄さん」
薙いだ海に満月が浮かぶ。明るい海の波間にぷっかり二人だけが浮いている。
「好きだ、八千代」
虎雄は大好きな八千代の顔を両手で挟んで唇を寄せた。
しょっぱくて甘い、八千代の唇。
するりと舌を潜り込ませた。咥内をまさぐると、八千代の舌が迎え入れてくれる。相変わらず、ざらざらとした舌だ。二人はお互いの息までも飲み込むように深く長く口づける。
「八千代と一緒に生きられてよかった」
海の滴か、涙か。濡れた頬を光らせながら虎雄は八千代にすがる。
「ええ、僕もです。虎雄さん……」
「だから、俺を追って死ぬことは許さない」
八千代は驚いて虎雄の瞳を覗き込む。
「次もきっと八千代のことを覚えているから……会いに来るよ」
八千代の瞳に丸い球が浮かぶ。それは人魚が作り出す奇跡の宝石だ。
虎雄は舌を伸ばして掬い、その球を呑み込んだ。虎雄の喉に鱗のようなあざができた。
「涙って海よりしょっぱいな、二度と味わいたくない」
「虎雄さん……」
「生きろ。八千代。俺はまたお前に会えると思うと死ぬのも怖くないよ」
心の底からそう思っているのだろう。虎雄は穏やかな笑顔で笑っている。
満月が天頂に上ると、辺りが真っ白になった。
「愛しているよ。八千代」
八千代は眩しくて目を閉じた。そして、開いたときには虎雄はいなかった。
陸に戻ろうとするがもう魚の鰭が足になることはなかった。
40
あなたにおすすめの小説
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
かくして王子様は彼の手を取った
亜桜黄身
BL
麗しい顔が近づく。それが挨拶の距離感ではないと気づいたのは唇同士が触れたあとだった。
「男を簡単に捨ててしまえるだなどと、ゆめゆめ思わないように」
──
目が覚めたら異世界転生してた外見美少女中身男前の受けが、計算高い腹黒婚約者の攻めに婚約破棄を申し出てすったもんだする話。
腹黒で策士で計算高い攻めなのに受けが鈍感越えて予想外の方面に突っ走るから受けの行動だけが読み切れず頭掻きむしるやつです。
受けが同性に性的な意味で襲われる描写があります。
強制悪役劣等生、レベル99の超人達の激重愛に逃げられない
砂糖犬
BL
悪名高い乙女ゲームの悪役令息に生まれ変わった主人公。
自分の未来は自分で変えると強制力に抗う事に。
ただ平穏に暮らしたい、それだけだった。
とあるきっかけフラグのせいで、友情ルートは崩れ去っていく。
恋愛ルートを認めない弱々キャラにわからせ愛を仕掛ける攻略キャラクター達。
ヒロインは?悪役令嬢は?それどころではない。
落第が掛かっている大事な時に、主人公は及第点を取れるのか!?
最強の力を内に憑依する時、その力は目覚める。
12人の攻略キャラクター×強制力に苦しむ悪役劣等生
ポンコツ半魔の契約書
鳫葉あん
BL
人と悪魔の間に生まれた半魔のリーフはある日満身創痍の男・レックスを拾う。服従契約を結んだ彼は記憶を失っていた。
とても強い力を持ったレックスの正体。レックスを探る者の存在。日常の変化はリーフの人生を大きく狂わせていくことになる。
つよつよ下僕×ひ弱なご主人様のファンタジー系ラブコメ?です。
他のサイトにも投稿します。
目指すは新天地!のはず?
水場奨
BL
ケガをして、寝込んで起きたら記憶が2人分になっていた。
そのせいで今までの状況が普通でないと気づいてしまった俺は、新天地を目指して旅立つことにした。……のに、ついてくんなよ!ってか行かせてくんない?!
逃げたい主人公(受)と手に入れたい彼(攻)のお話。
給餌行為が求愛行動だってなんで誰も教えてくれなかったんだ!
永川さき
BL
魔術教師で平民のマテウス・アージェルは、元教え子で現同僚のアイザック・ウェルズリー子爵と毎日食堂で昼食をともにしている。
ただ、その食事風景は特殊なもので……。
元教え子のスパダリ魔術教師×未亡人で成人した子持ちのおっさん魔術教師
まー様企画の「おっさん受けBL企画」参加作品です。
他サイトにも掲載しています。
ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学で逃げ出して後悔したのに、大人になって再会するなんて!?
灯璃
BL
ごく普通に大学に通う、宇佐木 寧(ねい)には、ひょんな事から懐いてくれる後輩がいた。
オオカミ獣人でアルファの、狼谷 凛旺(りおう)だ。
ーここは、普通に獣人が現代社会で暮らす世界ー
獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。
そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。
だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞に応募しましたので、見て頂けると嬉しいです!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる
七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。
だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。
そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。
唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。
優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。
穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。
――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる