人魚のうたかた

大島Q太

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最期

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 虎雄は自宅療養が許可された。往診と訪問看護の打ち合わせのあと、退院手続きをした。


 虎雄の退院には同室の仲間や、看護師たちが立ち会ってくれた。

 八千代は深々とお辞儀をして車いすを押した。

 その手の指にはくすんだ指輪が二つはめてある。虎雄は病気で指がむくみ指輪をはめられなくなった。だから、八千代にそれを託した。

「それは君を縛る鎖だよ」

 虎雄は意地悪く微笑んだ。

「光栄だね」

 八千代は指輪をした手を包み込むように胸の前で握ってみせる。


 移り住んだのは庭の先に海がある平屋の家だった。庭に咲くブーゲンビリアの木が決め手だった。それは虎雄が十代のころ両親と住んでいた家に似ていた。


 虎雄は家を見て瞳を潤ませた。

「ここはなんだか懐かしいね」

「いいところでしょう?」

 虎雄はうなずいた。八千代は破顔して胸を張る。


 虎雄の一日はとても穏やかだった。

 寝て起きた時、まだ自分が息をしていることに安堵する。




 それは満月の夜だった。

「八千代、八千代!」

 虎雄が呼ぶと八千代はすぐにそばに来た。

「……虎雄さん」

「今日はなんだか体が軽いんだ。海に行こう」

 虎雄が手を伸ばすと、八千代は涙ぐみながらその手を握る。

 ふたりは庭から海へと歩いた。


 思い返せば、こんなに長い間一緒にいたのに砂浜を二人で手をつないで歩いたことなどなかった。虎雄は自分が思春期に戻ったように感じて、歩き方さえぎこちなくなってしまう。これだけ長い間二人で過ごしたのにまだ初めてのことがあったことに驚きもする。


 いろんな思い出話をした。出会ってからこの六十年余りのこと。


 二人は薄々気が付いていた。もう虎雄はこの世を去ったこと。

 今八千代と歩いているのは、魂になってしまった虎雄だ。彼がすぐに離れて天に昇らないのは、八千代への未練のせいだ。


「八千代。最期にキスしようか?」

 虎雄は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて八千代を見た。八千代も同じくらいぐしゃぐしゃだ。

「……なら、最期に一緒に海に入ろう」

 虎雄はうなずいて手を引いた。足元を波が浚う。


 腰まで波が来る。胸のあたりまで……顎の下まで……そして、頭のてっぺんまですっかり海に浸かる。


 ごぼごぼと水の音が耳元でうるさい。

 すると八千代がぎゅっと虎雄を抱きしめた。

 下半身を魚にして、八千代は泳ぎ始めた。

 もう足もつかない……遠い海だ。


「虎雄さん」


 薙いだ海に満月が浮かぶ。明るい海の波間にぷっかり二人だけが浮いている。

「好きだ、八千代」

 虎雄は大好きな八千代の顔を両手で挟んで唇を寄せた。

 しょっぱくて甘い、八千代の唇。

 するりと舌を潜り込ませた。咥内をまさぐると、八千代の舌が迎え入れてくれる。相変わらず、ざらざらとした舌だ。二人はお互いの息までも飲み込むように深く長く口づける。


「八千代と一緒に生きられてよかった」

 海の滴か、涙か。濡れた頬を光らせながら虎雄は八千代にすがる。

「ええ、僕もです。虎雄さん……」

「だから、俺を追って死ぬことは許さない」

 八千代は驚いて虎雄の瞳を覗き込む。


「次もきっと八千代のことを覚えているから……会いに来るよ」


 八千代の瞳に丸い球が浮かぶ。それは人魚が作り出す奇跡の宝石だ。

 虎雄は舌を伸ばして掬い、その球を呑み込んだ。虎雄の喉に鱗のようなあざができた。

「涙って海よりしょっぱいな、二度と味わいたくない」

「虎雄さん……」

「生きろ。八千代。俺はまたお前に会えると思うと死ぬのも怖くないよ」

 心の底からそう思っているのだろう。虎雄は穏やかな笑顔で笑っている。


 満月が天頂に上ると、辺りが真っ白になった。


「愛しているよ。八千代」


 八千代は眩しくて目を閉じた。そして、開いたときには虎雄はいなかった。

 陸に戻ろうとするがもう魚の鰭が足になることはなかった。
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